セキュリティという言葉は、さまざまなニュアンスを有しているが、近代においてセキュリティの基軸となったのは、social
security と national
security だろう。つまり主権国家の枠を前提とし、外に向かっては国家安全保障として、内に向かっては社会保障として作動するセキュリティの装置である。フーコーは、おそらく、社会保障を念頭におきながら、近代の人口という集合体レヴェルを通して作動するマクロな権力行使の主要な場所をセキュリティの装置として特徴づけた。ヤングの図式でいえば、そこではセキュリティの装置は内包・統合という作用と密接にむすびついて動員されていたといえよう。だがいま、そこではセキュリティの上昇とみなされうる事態で最大に焦点化しているのは、もはや一見「穏やか」な社会保障ではない。セキュリティは一方で<社会的なもの>の持ち分を離れ、市場化されプライヴァタイズされていく。他方で、それは、いわば「内向きの軍事化」としても浮上してきている。その<内>の境界もいまや不分明化しており、それが現代社会を考えるとききわめて重要になるわけだが・・・・・・
いまここで大ざっぱな輪郭を描いておけば、従来の内包ないしは統合を旨とした社会編制は、<人口>を対象とするマクロな規制のレヴェルで作動する権力の編制の場であるセキュリティの装置とミクロな身体にかかわる規律の装置の二つの異質な権力装置の接合がその土台を形成していたと言えるだろう。他方、セキュリティが<排除>へというベクトルを積極的に描き出すためには、セキュリティの装置と規律の装置のむすびつきの後退、そしておそらく「管理統御権力」と名指され徐々にその仕組みが明らかにされているような装置との新たなむすびつきが必要となるのではないだろうか。
(『自由論』 酒井隆史 青土社 P.261)