さらに問題は、その戦略がディズニーランドには「暴力がない」という論理を逆手にとったものでしかないということだ。ここには現代のきわめて困難なひとつの逆接がある。暴力の抑止は、クリーンな海沿いの娯楽の場で解消された。それは私たちを安堵させる。だがその安堵は同時に、恐怖からの開放の願いが、公共空間を「浄化」する動きに統合されたことにほかならない。暴力、恐怖からの解放の願いは、それが驚くほどの微細な差異をはらんだコンテクスト、思想的質に由来したものであろうと、セキュリティの装置の回路を通してのっぺりとした安全への要求として吸い上げられてしまう。そしてセキュリティの装置は、自らの相貌を変容させながらどこまでも肥大していくというわけだ。
公共空間の「浄化」によって、たしかに一方では、公共空間の明るみからは暴力が消えていく。理論上はそうだ。だがセキュリティの論理による「暴力の終焉」は、現実上では最大の暴力を-「警察の蛮行」、「失踪者」の大量生産(消滅のテクノロジーによる)、組織されない予測不可能な暴力、ひたすら自滅に向かう暴力など-付随するという逆説を私たちはいま、そのリミットにおいて目撃しつつある。
(「自由論」 酒井隆史 青土社)