シャッター・ボタンを押すという動作にとって、瞬間を停止させたいという欲望は本質的なものである。しかしこの動作の意味は、
世界の絶えざる運動が私たち一人一人に否応なく惹き起こす並外れたフラストレーションと切り離して考えることはできない。私たちは実際、
新しい経験によって惹き起こされるさまざまな感覚、情動、身体状態を(充分に)「展開させる(デヴロベ)」時間を欠いていることが多い。
あらゆることがかくも早くも過ぎ去っていく。しかも楽しい瞬間こそがまず最初に! それゆえ、私たちが写真を撮るのは、
過ぎ去っていく瞬間に「防腐処理」を施すためでも、それを「凍結させる」ためでもない。むしろ逆なのだ! (カメラという)
箱に映像を閉じ込める私たちがなによりもまず望んでいるのは、撮影の瞬間に感じられたさまざまな感覚、情動、身体状態-だが、
あまりにも速く別の感覚、情動、身体状態によって追い払われてしまう-を、のちに再び見出したいということなのである。写真を撮るとは、
たしかに「閉じ込める」ことではある。しかしそこには、あとで「展開=現像する」という意図が伴っている。映像を眺め、
それについて語ることによって、私たちは、自分たちがあまりにも性急に生きた出来事の記憶を呼び起こし、
そうして自分のリズムでその出来事を消化=同化することができるようになる。幸福は、
ゆっくりと噛みしめることでいっそう味わい深いものになる。そして私たちが写真を撮るのは、しばしば、
のちにそのような幸福を得ようと期待してそうするのである。写真を撮るとは、まずもって、
時間があまりにも急速に流れ去っていくことに対する抵抗の行為なのである。
もちろん、その大部分は、錯覚にすぎない。時間は停止することもなければ戻ってくることもない。しかしこの錯覚は、
社会的な関係を創り出してくれる。私たちは、写真が現像されてくると、それを眺め、それを人に見せ、それについて語るからである。その瞬間、
私たちが過去において一度放り捨てた生が、再び力を取り戻してくるように見えてくる。このように、対立しあう二つの傾向性-
それは生において対立しあう二つの傾向性でもある-がつねに一緒になって写真を撮る欲望を煽りたてている。実生活の場合、私たちは、
一方では目新しい事象をできるだけ多く経験したいと望むため、そうした事象の一部は自分たちの内奥に閉じ込め、
あとでじっくりそれを検討しようと考える。
しかし同時に私たちは、新しい経験に制限を加え、それによって自分たちがすでに行ったことを消化なく、
写真を撮る動作においても絶えず競合しあう。これら二つの態度こそが、写真を撮るという動作に私たちを向かわせるのであり、
その動作はつねに、より多くの事象を-のちにそれを現像=展開したいという欲望との中間に置かれるのである。写真を撮ることは、
必ずしもつねに、死体に防腐処理を施すことに似ているわけではない。ときにそれは、
将来花が開くことを期待しながら種を播くことにも似ているのである。
とはいえ、幸福と昂揚のなかで捕らえられた映像が、現像されてきたとき、期待したような成功を収めていることは稀である。
私たちを魅了した風景や身体の前に立って、私たちはその映像を定着することでのちにその感覚に再び辿りつこうと望んでいた。
しかしプリントされてきた写真に直面すると、そのような感覚へと私たちを導いてくれる道は、
すでに取返しようもなく失われてしまっているように見える。現像されてきた映像をはじめて見るときの経験は、したがって、
もし私たちが誰かにどんな夢を見たかを伝え、
次にその人にその夢を逆に自分に語り直してほしいと頼んだとすれば起こるであろうようなことにどこか似ている。その人が、
私たちに語ったこととまったく違うことを言い出すであろうことは、まず間違いない! 写真のプリントをはじめて眼にするときにも、
同じ失望感が生じることが多い。私たちはそこに、シャッター・ボタンを押すときに感じていたものをほとんど何も見出すことがないのである。
失望した私たちは、新たなテクノロジーのうちに、次にもっと上手く成功する可能性を探ろうとするかもしれない。
カメラの売上が高性能化によって大きく伸びることになるのは、こうしたフラストレーションが底にあるからである。しかし、
自分の夢を語った相手とのあいだに豊かな交流が築き上げられることがあるように、
カメラと私たちとのあいだにも真の対話が根を下ろすことがある。(現像されてきて)
はじめて眼にした写真と期待していた写真とのあいだの隔たりは、そのとき、新しい世界像を得るための出発点になってくれるのだ。
たしかに期待と現実とはつねに食い違うものである。しかし、世界はそれ自体、
私たちが想像しているものとつねに食い違っているのでないだろうか?私たちが撮った写真をあるがままに受け容れること、それは、
世界に付き添う行為となる。そのとき写真を撮ることは、まるで、花々を摘み集めることに似たものになる。そうした行為を私たちは、
この世界の美しさに讃辞を捧げるという幸福のためにだけ行うのである。
(「明るい部屋の謎」 セルジュ・ティスロン 小山勝訳)