スーザン・ソンタグ「写真論」 プラトンの洞窟で
- 人類はあいもかわらずプラトンの洞窟でぐずぐずしており、昔ながらの習慣で、
ひたすら真理の幻影を楽しんでいる
- この飽くことを知らない写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。
写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、
広げたりしている。
写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理であるということだ。そして最後に、写真の企画のもっとも雄大な成果は、
私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚をもつようになったということである。
- ゴダール「カラピニエ」(1963)
- クリス・マイケル 映画「ひとこぶらくだが四頭あれば」(1966)
- 写真は証拠になる。
- 1871年6月、パリコミューン支持者の残虐な検挙の際にパリ警察が写真を利用したのに始まって、
写真は近代国家がそのますます流動的になっていく人口を監視・統御するための有用な道具になった。
- 写真のもうひとつの利用法に記録写真による正当化がある。一枚の写真はある事件が起こったことのゆるがぬ証拠となる。
写真は事実を歪めているかもしれない。しかし何か写真にあるようなものが存在する、あるいは存在した、という推定はつねにあるのである。
- アレフレッド・スティーグリッツやポール・ストランドのような崇高なる大家にしても、まずなによりも「そこにある」
ものを写して見せたいのであって、その点では写真は手っ取り早い筆記の形式と考えるポラロイド・カメラの持主や、
ブローニー判カメラで日常生活のスナップを思い出のためにぱちぱち撮る写真狂いと変わらないのである。
- 絵画や散文で描いたものは取捨選択した解釈以外のものではありえないが、写真は取捨選択した透かし絵として扱うことができる。
- およそ写真に権威と興味と魅力を与えるものは真実らしさであると仮定してみても、
写真家のやる仕事は芸術と真実の間でおこなわれる、えてしてあいまいなやりとりの、特別例外というわけではない。
写真家が現実を鏡に写すことに心を奪われているときでさえ、やはり趣味や良心が命ずる無言の声につきまとわれている。
- 写真をどう写すか、どの露出を選ぶかを決めるにあたって、写真家はつねに自分の主題に対していろいろな基準をはめている。
カメラは実際に現実をとらえるのであって、それをただ解釈するのではないという意味もあるが、
写真は絵画やデッサンと同じように世界についてのひとつの解釈なのである。
- 写真の撮影が比較的対象を撰ばぬ無差別的なものだったり、自分が表に出ない場合でも、
計画全体の教訓的傾向が減るというわけではない。写真の記録がもつこの受動性-それと偏在性-こそが、写真の「メッセージ」であり、
攻撃性である。
- カメラを使うときはどんな場合でもある種の攻撃性が内在しているものだ。
- 技術の進歩によって、
世界を一組の潜在的な写真と見る思考性がますます広がったその後の何十年間にもわたってもそういえる
- 写真を撮ることの主眼は画家の狙いから大きく逸脱するものであった
- 写真家は当初からできるだけ多数の主題をとらえることを含みにしたが、絵画はそれほど壮大な視野をもつことがなかった。
- カメラ製作技術の産業化の結果は、写真術がそもそもの始まりから受け継いできた約束、
つまりあらゆる経験を映像に翻訳することによって民主化するという約束の実現にほかならなかったのである
- 写真はその産業化をまって、初めて芸術としての地位を得るようになった
- 産業化の結果、写真家の動きに社会的効用が生まれたが、そういった効用に対する反動が、
芸術としての写真の自己意識をよび覚ますことにもなった
- 最近では写真はセックスやダンスと同じくらいありふれた娯楽になった。そのことは、大衆芸術というものはどれもそうだが、
写真が大部分の人にとって芸術ではなくなったことを意味している。それは主として社交的な儀礼であり、不安に対する防御であり、
また権力の道具なのである
- カメラは家庭生活とともにある
- どこの家でも肖像写真による年代記-一家をめぐっての証言となる一冊の写真帖がつくられる。
どういう活動が写っているかは問題ではなく、写真が大事にされていればいいのである
- ちょうどヨーロッパとアメリカの工業国で、家族制度そのものが根本から揺らぎはじめたときに、
写真が家族生活のひとつの儀式になったのである。
あの密室恐怖症的な単位である核家族が大家族集合体から刻み出されたところへ写真がやってきて、ぎくしゃくした家庭生活や、
薄れていく親戚付き合いを記念写真に撮って、あらためて象徴的に明示したのである。そういった亡霊の痕跡である写真は、
散らばった縁者の存在の証拠となっている。
- 写真はいまは現実味のない過去を、想像の中で人びとに所有されるが、それはまた定かでない空間を人びとに所有させる役にも立つ。
こうして写真は現代人の活動のなかでももっとも特徴のある観光にともなって発達する
- 当然ながら、カメラをもたない観光旅行は不自然に思われる。写真はその旅行がおこなわれ、予定どおりに運び、
楽しかったことの文句のない証拠になる
- 写真撮影は経験の証明の道ではあるが、また経験を拒否する道でもある。写真になるものを探して経験を狭めたり、
経験を映像や記念品に置き換えてしまうからである
- 旅行は写真を蓄積するための戦略となる。写真を撮るだけでも心が慰み、
旅行のためにとかく心細くなりがちな気分を和らげてくれる。観光客は自分と、
自分が出会う珍しいものの間にカメラを置かざるをえないような気持ちになるものだ。どう反応してよいかわからず、彼らは写真を撮る。
- おかげで経験に格好がつく。立ち止まり、写真を撮り、先へ進む。
この方法はがむしゃらな労働の美徳に冒された国民であるドイツ人と日本人とアメリカ人にはとりわけ具合がよい。
ふだんあくせく働いている人たちが休日で遊んでいるはずなのに、働いていないとどうも不安であるというのも、
カメラを使えば落ち着くのである。彼らにはいまや労働を優しく模倣したような手仕事ができた-彼らは写真を撮ればよい
- ライカの広告
「・・・・・・プラハ・・・・・・ウッドストック・・・・・・ヴェトナム・・・・・・サッポロ・・・・・・ロンドンデリー・・・・・・
ライカ」
- 一枚の写真はたんに写真家がひとつの事件に遭遇した結果なのではない。写真を撮ること自体がひとつの事件であり、
しかもつねに起こっていることに干渉したり、侵したり、無視したりする絶対的権利をもったものなのである
- 私たちの状況感覚そのものが、今日ではカメラの介入によって明瞭になっている。カメラの偏在は時間が興味ある事件、
つまり写真を撮るに値する事件からなっているということの、説得力ある示唆となっている。
- どんな事件もひとたび動き出せば、その倫理性がどんなものであれ、その完結を持つべきであり、その結果なにかべつのもの、
つまり写真が、この世にもたされるというふうに思いやすくなるのである。事件が終わったあともその写真は存続し。
その事件にそうでもなければえられなかったような一種の不滅性(と重要性)を付与するのである。ほんものの人間がそこにいて自殺したり、
べつのほんものの人間を殺したりしている間に、写真家は自分のカメラをうしろにいて、もうひとつの世界-
私たちみんなよりも長生きすると宣言している映像世界-の小片をつくっているのだ。
- 写真撮影は本質的に不介入の行為である
- 写真家が写真と生命のどちらを選択するかというときに、
写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。介入する人間は記録することができない。
記録している人間は介入することはできない。
- ジガ・ヴェルトフ 映画「カメラを持つ男」(1929) 革命後ロシア
- ヒッチコック 映画「裏窓」(1954) アメリカ
- 身体的な意味での介入とは相容れないにしても、カメラを使うことはやはり参加のひとつの形式である
- カメラは一種の監視所であるにしても、写真を撮る行為は消極的な監視以上のものである。性的な覗き見趣味と同じ事で、
それは少なくとも暗黙のうちで、またしばしばあからさまに、
進行中のものはなんであろうとそのまま起こり続けるように奨励する方法である。
- アントニオーニ 映画「欲望」(1966)
- マイケル・パウエル 映画「血を吸うカメラ」(1960)
- それでいてやはり、写真を撮る行為にはなにか略奪的なものがある。人びとを撮影するということは、
彼らを自分では決して見ることがないふうに見ることによって、
また自分では決して持つことができない知識を彼らについてもつことによって、彼らを犯すことである。
- それは人びとを、象徴的に所有できるような対象物に変えてしまう。ちょうどカメラが銃の昇華であるのと同じで、
だれかを撮影することは昇華された殺人、悲し気でおびえた時代にふさわしい、ソフトな殺人なのである
- 人びとが弾丸からフィルムに切り替えることによって見られる状況のひとつに、
東アフリカでは写真のサファリが銃のサファリに取って代わりつつあるということがある
- サミュエル・バトラー 「どこの藪にも写真家がいて、ライオンのように喉を鳴らして獲物を探し回っている」
- 私たちは恐ろしいと思えば銃を撃ち、懐かしいと思えば写真を撮る
- いまはまさに郷愁の時代であり、写真はすすんで郷愁をかきたてる。写真術は挽歌の芸術、たそがれの芸術なのである。
- 写真に撮られたものはたいがい、写真に撮られたということで哀愁を帯びる
- 美しい被写体も年をとり、朽ちて、いまは存在しないがために、哀愁の対象となるのである
- 写真はすべて死を連想させるものである。写真を撮ることは他人の(あるいは物の)死の運命、
はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、
すべての写真は時間の容赦のない溶解を証言しているのである
- カメラは人間の風景がめまぐるしいほどの変化をこうむりはじめた時点で、世界の写しを作りにかかった。数知れぬ生物的、
社会的生活形式が短期間に破壊されている一方で、ひとつの装置が消えていくものを記録するのに役立っている
- 写真は偽りの現在でもあり、不在の徴しでもある。暖炉の薪の焔のように、写真、とりわけ人物や遠い風景、はるかな都市、
失われた過去の写真は空想を誘う。写真によって喚び覚まされた、手の届かないものへの想いは、
離れているためにますます望ましくなる人びとへの恋情をじかにかきたてる
- ダイアン・アーバス 「わたしはいつも、写真はやくざなものだと思っていました。
それがまたわたしが好きなところのひとつでした。それではじめて写真を撮ったときは、自分がひどく倒錯しているような気がしたものです」
- 欲望には歴史がない-少なくともそれは個々の事例において、すべてが前景の直接性として経験される。
それは色々な原型によって喚び起こされ、そういう意味では抽象的である。しかし道徳感情の方は歴史にはめ込まれており、
その登場人物は具体的で、その場面はいつも特定である。
- どこか一般に知られていない地域での窮状を訴える一枚の写真は、それにふさわしい心情や態度の文脈がないと、
世論に感銘を与えることはできない
- 写真は道徳的立場を作り出すことはできないが、それを強化することはできるし、
生まれ出ようとするものに力を貸すことはできる
- 写真は時間の明快な薄片であって流れではないから、動く映像よりは記憶に留められるといえよう。
テレビは選択度の低い映像の流れであって、つぎつぎと先行のものを取り消していく。スチール写真はそれぞれ、
特権的な瞬間をきゃしゃな物体に変じたもので、人はそれを自分のものにして、もう一度眺めることができる
- アメリカ人はたしかにヴェトナム人の苦難の写真に近づきはした。
その事件は相当数の人たちから野蛮な植民地戦争と定義されていたので、
ジャーナリストはそういった写真の入手努力を支持されていると感じたからである。朝鮮戦争は自由社会のソ連・
中国に対する正当な闘争の一部として、ちがったふうに理解されていたので、そう性格づけをされれば、
アメリカ軍の無制限火力の残虐性を示す写真も関係なかったであろう
- ひとつの事件がまさしく撮影に値するものを意味するようになったとしても、
その事件を構成するものがなんであるかを決定するのは、(もっとも広い意味で)やはりイデオロギーなのである
- 事件そのものに名が付けられ、性格づけられるまでは、事件については写真であろうとなんであろうと、なんの証拠もありえない。
そして事件を構成しえるもの-もっと正しくいえば、認定しえるものは決して証拠写真などではない。
写真の寄与はいつも事件の命名のあとでおこなわれる。写真によって道徳的に影響される可能性の決め手は、
それに関連した政治的意識があるかどうかということである
- 写真はなにか目新しいものを見せているかぎりはショックを与える。不幸なことに、
賭金はこういう恐怖の映像の増殖そのものからもだんだん釣り上がっていく。
- 苦悩することがひとつ。苦悩の映像と暮らすことはまた別である。それは必ずしも良心や同情心を強めることにはならないし、
それらを堕落させることもある。いったんこういう映像を見てしまうと、あとはつぎからつぎへと見る羽目になる。映像は立ちすくませ、
麻酔をかける。写真を通して知った事件は、写真など見なかった場合よりはたしかに現実味を帯びる。しかし何度も映像にさらされると、
それも現実味を失ってくる。
- ポルノグラフィーに対すると同じ法則が悪に対しても通用する。初めてポルノ映画を観たときに覚える驚きと困惑も、
あと数本も観れば薄れていくように、残虐な場面の写真が与えるショックも、繰り返し眺めているうちに薄れていくものである。
- 我々を憤慨させたり悲しませたりするタブーの感覚も、
猥褻なものの定義を規定するタブーの感覚にくらべてとくに根強いというわけではないのだ
- この三十年の間に、「社会派」の写真は良心を目覚めさせもしたが、少なくも同じくらい、
良心を麻痺させてもきたのである
- 写真の倫理的内容はもろいものである。そういったナチ収容所のような恐怖の写真で、
倫理上の参照基準の地位を獲得したものについて考えられる例外を除けば、たいていの写真は心情の電荷を維持してはいない。
1900年の写真でその主題ゆえに影響力のあったものが、今日ではむしろ、
それが1900年に撮られた写真であるがゆえに私たちを感動させるという次第であろう
- 写真の特別な性質とか意図は、過去の時間の一般化された哀愁の中に呑みこまれてしまう傾向にある。美的距離というものは写真を、
いますぐにではなくても、ならばいかにも時間の経過とともに、見るという経験そのものに組み込まれているようである。
時間というものは結局はたいがいの写真を、およそ素人ふうのものであろうと、芸術と同列の高さにおくことになる
- 写真の産業化の結果、写真は急速に現行の社会の合理的な-つまりは官僚的な-方法に吸収されていった。
写真はもはや玩具の映像ではなく、環境の一般的な家具の一部、現実的と考えられる。現実へのあの還元的なアプローチの試金石であり、
確認となったのである。写真は重要な管理制度、すなわち家族と警察の務めに、記号的物体と情報物件として組み入れられた。
- 官僚主義と両立する「現実的な」世界観は、知識を技術と情報として再定義する。
写真が重んじられるのは情報を提供するからである。
- 文化史のなかでは、写真が提供する情報は、だれもがニュースとよばれるものをえる権利があるとかんがえられた時点で、
大いに重要視されだすのである。写真はなかなか字を読もうとしない人たちに知識を与える方法と見なされるようになった
- 写真映像をめぐって新しい感覚の情報の観念が構築されてきた。写真は時間だけでなく、空間の簿片でもある。
写真映像に支配された世界では、境界(「フレーミング」)はすべて任意のものに思われる。
- 要するに主題を違ったふうに切り取ることがかんじんなのである
- 写真術は唯名論者が社会的現象を、見たところ無限にある小単位から成り立っていると考えるのに力を貸している。
なににつけ撮影可能な写真の数は無制限だからである。写真を通じて世界は一連の無縁で自立した分子となり、過去・
現在の歴史は一揃いの逸話と雑報となる
- カメラは現実を原子的な、扱いやすい、不透明なものにする。それは相互連結や連続性を否定するが、
各瞬間に神秘性を付与する世界観である。
- どんな一枚の写真にも多様な意味が含まれている。
- 写真映像の基本的な知識
「そこに表面がある。さて、その向こうにはなにがあるのか、現実がこういうふうに見えるとすれば、
その現実はどんなものであるはずかを考えよ、あるいは感じ直観せよ」
- 自分ではなにも説明できない写真は、推論、思索、空想へのつきることのない誘いである
- 写真の含意は、世界をカメラが記録するとおりに受け入れるのであれば、私たちは世界について知っているということである。
ところがこれでは理解の正反対であって、理解は世界を見かけ通りに受け入れないことから出発するのである。
理解の可能性はすべて否といえる能力にかかっている。厳密に言えば、ひとは写真から理解するものはなにもない。
- もちろん、写真は現在と過去のわれわれの心的絵巻図の空白を埋めてくれる。
- それでもカメラによる現実描写はつねに明かすよりも隠すものの方が多いに違いない。
- あることがどう見えるかに基づいている恋愛感情とは対照的に、理解はそれがどう機能するかに基づいている。
そして機能は時間の中でおこなわれ、時間の中で説明されなければならない。
物語るものだけが私たちの理解を可能にしてくれるのである
- 写真による世界の認識の限界は、それが良心を刺激しながらも、結局は倫理的あるいは政治的認識にはなりえないということである。
- スチール写真を通して得た知識は皮肉なものであろうとヒューマニストのものであろうと、つねにある種の感傷主義となるものだ。
それは割引の知識-見せかけの知識、見せかけの智慧となる。写真を撮ると言う行為が私物化のまねごと、強姦のまねごとなのであるから。
- 写真では仮定としては理解できるものが黙しているというそのことが、その魅力でもあり挑発的なところでもある。
写真の偏在は私たちの倫理的な感受性にはかり知れない影響を与えている。
- 写真はこの既に雑多な世界に複写の映像を一枚提供することによって、
世界は実際以上に利用できるものだという感じをわれわれに与えるのである
- 写真によって現実を確認し、経験を強めてもらう必要があるということは、
いまやだれもがその中毒にかかっている美的消費者中心主義である。産業社会は市民を映像麻薬常用者に変えている。
それはもっとも抵抗しがたい形の精神公害である
- 美に対する、表面化を探るのをやめることに対する、世界の身体の瀆罪と祝福に対する、痛切な憧れ-
こういった恋慕の情の要素はみな、私たちが写真に抱く喜びの中に認められる。
- しかしほかの、それほど開放的でない感情も同じく表現されている。撮影したい、
経験そのものを見る方法に転じたいという衝動をもった人たちについて話すことは間違っていないだろう。
- けっきょく、ある経験をもつということは、その写真を撮ることと同じになっており、公の行事に参加するということは、
写真の形でそれを見ることとますます等価になっている
- マラルメ
「世界のあらゆるものは本になるために存在する。今日、あらゆるものは写真になるために存在している」