「彼女は異形の人たち一人一人の存在に対して彼女の存在を以て相い対した。たしかに「パスポート」としてカメラを携えてはいたが、
そのカメラは彼に対する彼女の直接対面を回避させる道具としては決してならなかった。彼女の写真が何よりも明かに示しているように、
写真の視線はカメラの側から彼らの方に向って放たれているのでなく、
逆に彼ら一人一人のの方から視線がこちら側に向って放たれているのである。
この点で通常の写真とまるで反対になっているのがアーバスの写真の特徴である。写真は物を写すものである。そこで当然、
写真における眼のベクトルはカメラから被写体に向って発射されている。
その通則に対してアーバスの写真は驚くべき反体例を提出しているのである。写真史上の大事件と言ってよいであろう。
写っている例外者の眼がその写真を見る私たちに向って入り込んで来るのであり、試されているのは私たちなのである。
そのことは何を物語っているか。写真家ダイアン・アーバスが、巧く写して見せようとする虚栄の自意識を捨てて、一個の存在として、
彼ら社会的辺境人の一人一人の存在に対して向い合っていることを示している。
この直接的対面性は撮られた写真の中にはっきりと現れているのものである。何故かと言えば、写真では写真家自身は写らないから、
写真家は言わば透明人間となって「被写体」(アーバスの場合にはこの言葉はまったく不適切なものだが)の眼や表情は、
写真家をエックス線の如く通過して、直接、私たちに届くことになる。
だからアーバスの写真の視線が真直ぐ私たちに向かって差し込んでくると言うことは、
アーバスが写真における写真家の透明人間性を百パーセント生かし切ったとうことを示しているのである。そうして、
写真における撮影者の透過性を十二分に生かし切った時には、顕示的な技巧が消える代わりに、逆に、撮影者の接近態度における精神的姿勢が、
無形なるが故の純粋さを以て胡麻化しようなく写真の中に出現するのである。
通常の写真家は完全に透明人間化することを恐れ且つ避けて何とかして自己を表現しようと工夫を凝らす。角度をつけたり、
わざと暈かしたり、色をつけたり、褪色させたり、光と陰の対照を極端にしたり、して自分の眼の審美的特徴を誇示しようとする。
世俗的には無理からぬ表現欲と出世意慾の現れである。しかし自分の特徴的な美意識を写真の上に技巧を以て表そうとすることは、同時に、
被写体(この場合にはこの言葉が適切なのだ)のある特徴・ある要素を協調的に描き出すこととなるのであり、
被写体を個々の要素の集合物へと分解していることなのであり、外側から被写体を処理していることなのであり、従って、
存在そのものに対して一個の存在として直接対面してはいないということを物語っている。
アーバスは -特に晩年のアーバスは尚のこと直接対面以外にそれら各種の技巧を些かも弄することをしなかった。そうして、
自己の美意識の表現を意図せずに世界の辺境(すなわち此の世の中の他界)との対面だけを志したということは、
彼女が自分の写真の展覧会を余り好まなかったことや、自分が写した写真の記念碑的保存に殆ど全く執着しなかったことにも通底している。
彼女が求めたのは、此の世の中の他界の存在に対する対話の瞬間だけであり、
その瞬間が産み出す存在と存在との関係の世界が今もまだありうることを、写真を通じて確認することに他ならなかった。」
(「藤田省三著作集9 「写真と社会」小史 文中 「ダイアン・アーバスの写真」 藤田省三 みすず書房)