「写真家とは何者か、という基本的な問いかけからはじめたい。
二十世紀末の現代社会で、写真を撮ったことがない人のほうが珍しいかもしれない。もちろん世界的に見れば、
カメラを見たことも触ったこともない人も多いだろう。しかし日本のようにいわゆる先進国では、
誰でも写真家になろうと思えばそのチャンスはあるはずだ。
では写真を撮る者は誰でも写真家なのかといえば、それは違うだろう。
当然のことながら旅行のスナップや記念写真だけを撮影する大多数を写真家と呼ぶには無理があるからだ。
かといって写真を撮影することを職業としているプロフェッショナルのカメラマンすべてが写真家なのかといえば、それも違うような気がする。
彼らのほとんどは与えられた仕事として、自発的な意志とは無関係な場所で写真を撮影しているにすぎない、写真術がこの世界に出現してから、
一世紀半ほどの間に積み上げられてきた天文学的な量の写真の大部分は、生産されるそばから消費され、忘れられていく。
それらは写真家の営みとは無関係である。
では写真家とはいったい何者なのか。ここでは仮に、写真によって「生かされる」者という定義を与えておくことにしよう。むろん、
このような言い方が曖昧で不確かなものであることは承知の上である。しかし、写真という表現をぎりぎりまで突きつめて考えていくと、
写真を撮影する行為、あるいはその結果として生み出されてくる写真そのものが、
撮影者その人の生と分かちがたく結びついている状況を見ないわけにはいかなくなる。
写真を撮影することで彼らは生き続けるための力を手に入れ、逆に彼らの生にまとわりついた感情やエネルギーの束が投げ入れられることで、
写真はそれを見る者を差し貫くような輝きを帯びる。
そのような相互作用を、自らの生の過程でいやおうなしに体現している者こそ、写真家の名にふさわしいのではないだろうか。」
(「Photographers」 飯沢耕太郎 作品社 1996年)