では共和主義的伝統のもう一つの基礎であるところの「シチズンシップ」(citizenship)
をアーレントはどのようにとらえているか。まず彼女は政治の営みが「作為的なもの」であることを強調する。つまり政治共同体の基礎を、
所与としての民族や人種というアイデンティティに置くことを拒絶するのである。人種的、
宗教的アイデンティティーは市民としてのアイデンティティーとは無関係であり、政治共同体におけるメンバーシップの基礎とはなり得ない。
共和政の市民に共有される作為的な公的空間は、人種や民族を基礎とする自然的共同体とは一致しない。同時に平等についても、
その根拠が政治体制の枠組みに先立つような自然権や自然状態にあるという理論にも賛同しない。平等とは個人が公的領域に参加し、
民主的政治機構によって保証されるシチズンシップ(公民権)を獲得してはじめて与えられるものなのである。
(中略)
ここでアーレントの主張するシチズンシップを構成するものは、「親密さ」(intimacy)や「暖かさ」(warmth)ではなく
(そのようなものは政治的に不要である)、「市民的友情」(civic friendship)と「連帯」(solidarity)である。
なぜなら、これらが政治的要求をつくり出す基礎となり、個人の世界への関係を保持するからである。むしろ「親密さ」や「暖かさ」、「信頼性」
といった共同体的感情は、市民的友情や連帯という公的価値を損なう危険さえある。ここにアーレントの共和主義が、
単なる共同体回帰を意味しないことが顕著に表れている。
この点についてM・カノヴァンは次のように分析する。アーレントの言う「公的領域」は、「社会」(society)でもなく、
「共同体」(communitu)でもない。ゲマインシャフトでもなく、ゲゼルシャフトでもない。
(中略)
そこで考えなければならないのは、公的生活の空間的性質である。人々が互いに出会い、「意見」を交換し、お互いの相違を議論し、
何らかの協同的な意思形成に到達するためには空間が必要である。
この空間の中で、様々なパースペクティブから争点が吟味され、「意見」が修正されながら、代表的意見はより豊かなものになっていく。
同時に「意見」とは暴露的性格を持つものである。すなわち「意見」を自由に開示することは、自己外化を果たすことであり、
それによりそれぞれの人間がどのような価値や目的を持って生きているかが顕在化され、相互の理解が果たされる。
各人の固有な価値や関心が暴露され、複数の人間の間に潜む葛藤や対立が露わになってはじめて、合理的な価値配分の様式と、
それを支える正統な権力とを備えた政治社会を組織しようとする共同の意思が各人のうちに形成されるのである。
(中略)
アーレントの言う政治社会は、宗教的・民族的親和力や共通の価値によって形成されるものではなく、公的空間や公的機構を共有し、
その活動に参加することによって形成される社会である。政治共同体に人々を結合させるのは、共通の価値ではなく、
彼らが共同して作り上げる世界、彼らがともに住み、市民として担う機構とその中で行う実践そのものである。
M・カノヴァンはこの点について、人と人を互いに結びつけるのは、彼らのそれぞれの中にある特質や共通の価値や信念というよりは、
彼ら自身が共通の空間を共有しているという事実そのものであると述べる。
(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)