つまり、ここでは政治は、合意に基づく秩序の固定化に間断なく異議を申し立て、差異性を許容する抗争として理解されている。
アーレントの政治的活動は、「討論」(debate)と「熟慮」(deliberation)によって公的精神を涵養し、
同時に同一の争点における意見の多様性に価値を置く。闘技的エートスを欠いた空間には真の政治は生まれないのである。「法律尊重主義」
(legalism)や「立憲主義」(constitutionalism)は、政治の闘技的エネルギーを消滅させているといえる。
コミュニタリアンの言う共同体への郷愁(地域の紐帯、帰属性への要求)ではなく、
自由な未来のための生き生きとした抗争の場を求めることで政治的空間は涵養される。たしかにそこでは完全な合意や、
調和的な集合意志という理念は放棄せざるをえないであろう。つまりあらゆる理性的な人間が合意できるような「善き生」
の理念などといったものはもはや存在しない。むしろすべての本質の偶然性と曖昧さを承認し、分裂と対立を認め、必然性、真理、正常性、効用、
善性に抗する逸脱、齟齬、矛盾をもつ本質的な革新性を肯定すべきであり、アーレントの思想の革新性もその点にある。
しかし、アーレントの「闘技」(agon)を包含した公的世界の構想は、われわれに「自分の私的な幸福以上のものに気を配り、
世界の状態を憂慮する(care for the world)こと」の基盤を与えるのである。つまり、
自分自身への配慮のみがすべてを支配するとき、政治の場はまさしく単なる抗争の場となってしまうが、アーレントは、あくまでも「判断力」
という歯止めをかけたうえで闘技的民主主義というものを主張するのである。民主主義の要求する同質性が、
異質性の排除をもって実現されているとすれば、その中に闘技的な契機を持ち込むことによってのみ、
民主主義の活性化は実現されるのではないだろうか。
(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)