2007/02/10

欲望の三角形

「父権制下における男性集団の結束は、女性の交換を基盤としていることは、レヴィーストロースが「親族の基本構造」
のなかで説いたとおりである。ただし、人間社会に普遍的にみられるとされる族外婚と近親愛タブーは、
父権制集団におけるローカルな画一化と同質化を避ける差異化と開放の原理であるかにみえて、その実、
レヴィーストロースも暗示しているように、男性どうしをより緊密に結束させる同性愛的原理の別名である。花嫁がいっぽうの家父長から、
いまいっぽうの家父長に財産あるいは贈与物として交換されることで家父長どうしの関係が強化される。これを「ドン・キホーテ」
から現代の小説に至る近代西欧小説の恋愛関係の基軸としてみたのは、ルネ・ジラールの「欲望の現象学」だった。
ジラールのいう<欲望の三角形>、あるいは<模倣的欲望>は、男女の愛が直接的・無媒介に生起するのではなくて、つねに間接的に触媒され、
三角関係という迂路をたどることのグラフィックな顕現である。愛の対象への欲望は、
同じ対象を欲望する第三の人間の存在をまって初めて生じるのであって、わたしの欲望と思えるものは、その実、他者の欲望(あるいはその模倣、
反映)にほかならない(これは西欧における恋愛の起原を「不倫関係の発生」に求めたルージュモンの「愛について」とも繋がるが、また、
これを家族関係に適用したのがフロイトのエディプス三角形でもあった)。ふたりいるところ、かならず第三の人物がいる。2は3であって、
恋愛とは三角関係なくして生じない。しかもライヴァルは憎まれると同時に愛されもするという二重の両義的存在となる。だが、
これをさらに敷桁し、レヴィーストロースやジラールが思いもよらなかった方向に傾斜させ、
異性愛関係を同性愛関係によって説明する理論が登場する。いうまでもなくイヴ・コソフスキー・セジウィックのホモソーシャル理論である。


男と女のヘテロな恋愛関係が、つねに男ふたりと女ひとりの三角関係に対する重ね書きであるなら、
男ふたりが同じ女性を求めるという三角関係は、頻出するが同時に一要素にすぎないものから、すでにいつも存在する常態そのものへと移行する。
このとき、どちらの強度がまさるかが問題になる-男性にとって女性への絆か、ライヴァルの男性の絆か。
男性のホモソーシャル関係が女性への愛に優先する父権制であって、この三角形は、
最終的に女性の排除と男性どうしの絆の強化に奉仕するだけである。ただ三角関係がつづくあいだ、主導権は女性へと移行する。
女性はいっぽうで男性どうしをライヴァルというかたちで結合させたり、反目させたりするため、
女性は結合と分離とをつかさどる危機的可能性そのものとなる。もし最終的に男性が女性を、
排除するか報摂するかたちで首尾よくコントロールできれば、男性のホモソーシャル関係は強化されるが、
これに失敗すると男性どうしの絆は断ち切られてしまう。女性は男性にとって魅惑の対象であるとともに恐怖の対象となる。
したがってホモソーシャル体制は異性愛体制でありながら、女性への嫌悪と恐怖に色濃く染め上げられているのだ。
またさらにミソジニーから生じる同性愛的可能性を消去すべく、ホモソーシャル体制は同性愛的可能性を消去すべく、
ホモソーシャル体制は男性同性愛者への嫌悪を強化する。ホモソーシャル体制下では、同性愛は男性集団の結束の鍵となるが、
この公然たる秘密の同性愛の汚名から逃れるためにホモソーシャル体制は男性同性愛を徹底して嫌悪する。かくして、ホモソーシャル体制は、
異性愛体制であることを名目としながらも、女性を嫌悪し、なおかつ男性同性愛者をも嫌悪する。ミソジニーとホモフィビア。
ホモソーシャル体制を支える二大原理である。」


(平成8年11月1日発行 第28巻第13号 「ユリイカ」 11月号 「ご主人を拝借」 大橋洋一)