私が好きなのは今まで行ったこともない場所を訪ねることです。
たとえば私にとって誰かほかの人の家を訪ねることはとても特別な意味を持っています。約束の時間が近づいてきて、
バスに乗らねばならなくなったり、タクシーをひろわなければならなくなると、まるで見知らぬ人とのブラインド・
デートに出かける前のような不思議な気持ちになります。いつもそうなのです。時には不安になって、時間だわ、でも出かけたくない、
という気持ちになることもあります。けれど一度、決心して外に出ると、何か素晴らしいことがその不安をとりはらって、
心がワクワクしておさえきれなくなってしまいます。
私がどんなに好奇心旺盛でも、見知らぬ人に、あなたの家でお話をしを聞かせてくれませんかと頼むことはできないと思います。
そんなことをしたら、相手は、この女は頭がおかしいんじゃないかと思うでしょうし、
そうでないにしても強力なガードを張りめぐらしてしまうでしょう。でも、カメラはいわば許可証のようなものなのです。
多くの人が実は他人から何か特別な注目を浴びてみたいと思っていますし、写真を撮るのなら許してもいいということになってしまうのです。
実際、そうした人々から私は好かれました。私には二つの顔があるように思います。私はご機嫌とりがうまくて、
そのことが気をめいらせることもあります。調子がよすぎて、すべてが素晴らしいと言ってしまうのです。なんて素晴らしい、
という言葉が口グセのようになってしまって、異常な顔をした女の人を前にしても、その言葉が口をついて出てしまう。でも、
私は本当に素晴らしいと思っているのです。しかし自分がそんなふうに見られたいと思っているわけではありません。
子供たちにそんなふうになってほしいとは思いませんし、個人的にそういう人にキスをしてみたいとも考えません。けれども、
それは本当に驚くべき、否定できない何か素晴らしいものなのです。
いつも二つのことが同時に起こります。ひとつは見慣れて、知っているという気持ち、もうひとつは、
それがほかのものとは決定的に異なる特別なものだという気持ちです。でも、
私にはいつもその二つのことを一緒にしてしまうようなところがあります。
こう見なければならないのに、違うように見てしまうことが誰でもあると思いますが、それが人間のものの見方なのです。
街で人と出会った時、あなたが最初に気づくのはその人の欠点や短所なのです。
そうした特性が私たちひとりひとりに与えられているということは異常なことですが、それだけではなく、
その人のまったく違う全体像をつくりあげてしまうことさえあります。
人間の外観はその人を理解するために世界に示されるサインのようなものですが、
他人にそう思ってもらいたい自分と他人が実際に見てしまう自分との間には大きな隔たりがあります。
それはつまり意図と結果の間のギャップとも関係があるでしょう。現実に正確に対応し、厳しく見つめ、
何らかの方法でその内部に入りこむことができれば、それは本当に素晴らしいことなのです。
われわれ自身がそんなふうに見えていること自体がよく考えるととても素晴らしいことです。それは時々、
写真のなかにはっきりとあらわれることがあります。世界は皮肉で、
その皮肉は自分の意図したものがそのままあらわれてはこないという事実と密接に関わっているのです。
私が言おうとしているのは、あなたが他人になり変わることは不可能だということです。こうしたことは小さなことなのかもしれませんが、
他人の悲劇は決してあなた自身の悲劇ではないのです。
写真というのは特別なものでなくてはならないと思います。写真を始めたずっと昔、私はこんなことを考えていました。つまり、
世界にはたくさんの人がいてそのすべてを撮影するのは不可能だから、通常「一般人」(コモンマン)
と言われているようなごく普通の人間を撮ればいいのだろうと。ところが、私の先生であるリゼット・モデルはより特殊で、
より個性的であればあるほど、その写真というのはある普遍性を持つのだということをはっきりと教えてくれたのです。
この事実には特に注目しなければなりません。ある種の逃避や安逸さをどうしても乗り越えねばなりません。
写真を撮るというプロセス自体に、われわれが普段はほとんど経験しないある厳しさや正確さが要求されます。
つまりわれわれはお互いに日常生活ではそうした緊張関係を持っていないということです。カメラという機械が入りこまなければ、
もっとなごやかにいられるのに、カメラはいささか冷たく厳しいものなのです。
でも、私はすべての写真がそうした悪意のあるものだと言っているわけではありません。
時には写真はわれわれが感じている以上の素晴しさを事実のなかに垣間見せてくれたり、完全に異質なものを見せてくれたりします。しかし、
ある意味で結局、写真のこの厳しさは、事実から逃げないこと、実際に目の前に見えているものから逃げないということと関係があるのです。
奇形の人々の写真を数多く撮りました。それは私が写真を撮った最初の題材のひとつですし、私に非常に強い興奮をもたらしたのです。
私はただ彼らを崇拝したものでした。今でもそのうちの何人かの人々にはそうした感情を持っています。親密な友人というのではないのですが、
彼らは私に羞恥と畏怖の入りまじったような感情をもたらせてくれます。
奇形の人々には伝説のなかの人物のようなある特別な価値がそなわっているのです。たとえば人を呼びとめては、
なぞなぞを出すお伽噺の主人公のように。ほとんどの人たちは精神的に傷つくことを恐れながら生きていますが、
彼らは生まれた時から傷ついています。彼らは人生の試練をその時点で超えているのです。彼らはいわば貴族なのです。
私はよく知られてしまった人や物を撮りたいとは思いません。そんなことは聞いたこともないという時点では彼らに魅了されますが、
一度広く知られてしまうと、とたんに興味をうしなってしまうのです。
写真や絵画を見ている時、これは違うのではないかと感じることがあります。その写真や絵画が嫌いだという意味ではありません。
どんなにそれが素晴らしくても、何かが違う、そんな感じです。私自身の事実に対する感覚の問題だと思うのですが、どうしても違う!
絶対に違うのよ! という感情が湧きあがってきてしまうのです。それは真実とはかけ離れているという非常に私的な感情なのです。
嫌いなものだけからそうした感じを受けると言っているのではありません。とても好きなものからも同じように感じることがあります。
外に出るとその写真と自分が離ればなれになってしまったように思えて、ああ、あれは絶対に違うんだって思うのです。
事実をそのままとらえられるとは思ってはいませんが、でももう少しそれに近づくことはできると思えるのです。
子供の頃の私は、一度口にしたら、それはもう真実ではなくなってしまうという考えを持っていました。
もちろんそれをそのまま信じていたら、たちまち気が狂っていたでしょうが、でも今、私が言おうとしていることはそれにとてもよく似ています。
ひとつのことがなしとげられてしまうと、別のところへ行きたくなってしまいます。どうしてもそう思ってしまうのです。
ヌーディスト・キャンプは私にとって最高の題材でした。何年かの間に三つのキャンプを訪ねています。初めて行ったのは、1963年で、
1週間滞在しました。それは本当にスリリングでした。とてもみすぼらしいキャンプで、そのことが(ほかにも理由があったのでしょうが)、
そこをとても魅惑的にしていました。殆ど朽ち果てていて、廃墟寸前で、カビくさく、草一本生えていない、そんな土地だったのです。
ヌーディスト・キャンプにはずうっと行ってみたいと思っていたのですが、そんなことを言う勇気はありませんでした。
私には車がなかったのでバス停でそこのディレクターと会い、彼の車で連れて行ってもらったのですが、その車のなかで私は緊張して、
ナーバスになっていました。「これからヌーディスト・キャンプに行くのだということをよく理解しておいてください」と彼が言い、
私自身もそう考えていたので、その点ではわれわれは完全に意見が一致していたのです。そして彼はこうも言いました。「ヌーディスト・
キャンプの方が外の現実の世界よりもずっと道徳的だということが今によくわかりますよ」
つまり人間の裸体は言われているほど美しくも魅力的でもなく、一度見てしまえば神秘というものは消え失せてしまうと彼は考えていたのです。
キャンプにはいろいろな規律がありました。あるキャンプでは除名に関する二つの規律が決められていました。
ひとつは男の人が勃起してしまうこと、もうひとつは男女を問わずお互いをじっと見つめるということです。つまり人々を見ることはできても、
ジロジロ見続けることは厳禁なのです。
それはまるで何もわからずに幻想の世界へ入りこんだようなものでした。初めは本当に驚いてしまって、アタフタしていました。
そんなにたくさんの男の人たちが裸で歩いているのを見たことがなかったし、そんなに多くの裸を一度に見たこともなかったのですから。
一番初めに見た男の人が芝を刈っていたことを憶えています。
カメラだけぶらさげて裸で歩きまわっている姿を想像すると笑われてしまうかもしれませんが、それがなかなかおもしろいのです。
裸になって最初の一分で、どうすればいいのかだいたいわかります。それでもういっぱしのヌーディストになっているわけです。
自分ではそうではないと思っていても、もうすでにそうなのです。
キャンプの人々は、外の世界よりも身につけているものが多いのではないかと思うことがあります。男たちは湖に降りてゆく時には、
靴下をはき、靴をはき、タバコをその靴下にはさみこみます。女たちはイヤリングやブレスレットや帽子や時計などを体につけ、
さらにハイヒールをはきます。でも、おかしいことに、時にはバンドエイドを一枚はっただけの人に会うこともあります。
キャンプのなかでしばらくいると、いろいろと考えてしまいます。というのも、地面には空びんやさびた空缶が散らばり、
湖底には腐敗したような泥が淀んでいて、離れの便所は臭いし、木々はむさくるしい。まるで楽園追放のあとにエデンの園に戻って、
アダムとイブが神に許しを乞い、神は怒って「わかった、それではとどまるがよい。この園に残って、文明を得て、子孫を増やし、
汚れてしまうがよい」と言い、その通りになってしまった、そんなふうに思えてしまうのです。
子供の頃、悩んだのは自分が不幸だと感じたことがないということでした。私はいつも非現実的な感覚にとらわれていました。そうした、
何かから免れているという感覚は、ほかの人からみれば、ばかげたことだと思われるかもしれませんが、私にとって苦痛以上のものだったのです。
まるでずうっと自分が受け継ぐべき王国を受け継ぐことができないままでいるような感覚なのです。
世界は私には無関係に世界にだけ属している。 ものごとを学ぶことはできても、
それらは決して自分の体験のなかに入ってこないように思えたのです。
私は夢多き少女ではありませんでした。ヒーローというのも好きではなく、ピアノも弾きたいと思わず、
特に何がしたいということのない女の子でした。絵は描いたのですが、嫌いになって、高校を卒業したときにやめました。というのも、
描くたびに賞賛され続けていたからです。当時はいわば自己表現の時代で、私は私学にいたので、いつも「何をしたいですか」と尋ねられ、
何かをするとすぐに「素晴しい」という言葉が返ってきました。これにはうんざりでした。私は絵具のにおいと絵筆が紙にあたる音が大嫌いで、
ある時は絵も見ずにこのシャッシャッシャッという身の毛もよだつような音だけを聞いていたことがあります。 「素晴しい」
と言われるのがとてもいやでした。私の絵がそんなに素晴しいのだったら、もうこれ以上絵を描く必要なんてない、そう思ったのです。
私は映画は虚構と関係が深く、写真は事実を扱う傾向にあると考えています。いちばんいい例は、映画で、
男と女がひとつのベッドにいるシーンを見たとします。その時、われわれは彼らが決して二人きりでベッドにいたわけではなく、
その回りに監督やらカメラマンやら照明係やらがいたことをよくわかっているのですが、一応、そうしたことを除外して映画を見ています。
けれども、写真を見る時は、そんなことは決して考えないと思うのです。
知りあいの娼婦が、ひっかけてきたお客をポラロイドで撮ったカラー写真帳を見せてくれたことがあります。いかがわしいものではなく、
ただ男たちがモーテルのベッドに腰かけていました。そのなかにブラジャーをつけた男の写真がありました。彼は妙なところは少しもなく、
ごく普通の、平凡な男で、ただブラジャーをつけているのです。まるで自分にはないものを何気なく身につけるように、
まるで誰もがブラジャーをつけているかのように。それは息を呑むような写真でした。本当に美しい写真でした。
視覚的ではないにもかかわらず、まるで写真のように印象づけられている経験を何度かしました。
そのことをうまく伝えられるかどうか自信がないのですが、ともかくとてもセンセーショナルなことだったのです。それは身体障害者のダンス・
パーティーの時のことでした。カメラは持たすに出かけたため、初めのうちはとても退屈だったのです。自分のなかに閉じこもって、
いったい今夜はどうなるんだろうと不安でした。写真を撮ることはできないし、撮りたいとも思いませんでした。
参加者はみな何らかの障害を持った人たちでした。ある女性が、脳性麻痺の人は小児麻痺の人を嫌い、
脳性麻痺の人と小児麻痺の人はまた精神薄弱の人たちを嫌うといったことを私に話しかけてきたりしました。
しばらくして踊ってくれという人があらわれて、私はたくさんの人と次から次へと踊りました。うまく説明できませんが、
何かとても感動的な時間が始まりかけていました。ただひとつ不快になったのは、自分がジーン・
シュリンプトンみたいに突然目立つ人間になってしまったように思えることがあったことです。回りの状況のせいで、
こんなふうになるのだと思いました。でもうれしかったのは、私とそこに来ていた人たちとの関係が変わってしまい、
まったく素晴しい時間が過せたということです。
そして私をこのパーティに連れてきてくれた女性が一人の男の人を指さしてこう言いました。 「あの男を見て。
彼は踊りたくてどうしようもないのに、恐くてたまらないのよ」 彼は60歳で精神薄弱だったのですが、外見的にはまったく普通で、
そのために私は興味が持てませんでした。彼は見かけはただのあたりまえの60歳の老人だったのです。私たちは踊り始めました。
彼はとても恥ずかしがりやで、まるで11歳で成長が止まってしまったかのようでした。どこに住んでいるのかと尋ねると、
彼は80歳になる父親とコニーアイランドに住んでいると言いました。働いているのかと聞くと、
夏の間だけビーチでアイスキャンデーを売っていると答えました。そして、それから彼は信じられないようなことを口にしたのです。
「ぼくはずうっと心配し続けて」 とてもゆっくりとした話しぶりでした。 「ぼくはこんなままでいいんだろうかと心配し続けて。
何も知らないし。でも、もう-」 そして彼の瞳がキラリと光りました。 「もう絶対に心配なんかしないや」
それで完全に私はノックアウトです。
いろんなものをベッドの回りの壁にはっておくのが好きです。自分の好きな写真やらを毎月はりかえしたりしています。
するとそれらが無意識のうちに影響を与えてくるのです。ただ見るというのではありません。見ていない時でも見ているのです。
まったく奇妙な方法でそれらは作用をおよぼしてくるのです。
こうしたことは自分を動かす方法などないという事実に関係していると思います。壁に美しいイメージをはったり、
自分を知ったからといってそれで自己を動かすことなどできないのです。自分というものをどれだけ知ったところで、
それがあなたをどこか別の場所へ連れて行ってはくれないのです。逆にそのことである空白に置き去りにされることもあります。ここに私がいる、
私には過去や歴史がある、世界には私が知らない神秘があるし、私を悩ますこともある。しかし、
そうしたすべてのことが役立たなく見えてしまうような場合があるのです。
本を読むことから仕事を始めたこともあります。本を読んで、
すぐに飛びだして写真を撮るというようなことを言っているわけではありません。そうした詩を解説するようなことは好きではありません。
けれども非常に写真に近いもののように思えながら、写真に撮っていないものがあります。カフカの小説の「犬の回想」で、
ずうっと昔に読んで以来。何度も読み返してきたものです。犬が書いたという形式のこの小説は、本当に素晴しい作品で、
犬による犬の現実の生活を見事に描きだしています。
実際、私が写真を撮り始めた頃の写真には犬をテーマにしたものがあって、
それはたぶんこの小説を読んでいたことに関係していたように思います。もう20年も前の話で、
私はマーサのブドウ畑で夏を過ごしていましたが、黄昏時になると毎日犬がやってきました。大きな犬で、雑種でした。
バイマー犬特有の灰色の目をしていて、本当に頻繁にやってくるのです。そして私をじっと神秘的な眼差しでみつめていました。
犬は吠えることもなく、手をなめたりもせず、ただだまってみつめているのです。でも私を好いていたとは思いません。
その犬の写真を撮りましたが、そんなにいい写真ではありませんでした。
犬は特別に好きだというわけではありません。でも、人間を嫌っている野良犬は好きです。だから写真を撮ったのも野良犬です。
決して撮りたいと思わないのは、泥のなかに寝ころがっている犬です。
写真を撮り始めの頃、私はざらざらした粒子の荒い写真を撮っていました。粒子のつくりだす世界に魅了されていたのです。
小さな点が集まってつづれ織りのようになり、それですべてのものが点の集合を通して物語られる、そのことに魅せられました。肌は水と、
水は空と同じになり、血と肉ではなく、明と暗の世界のなかですべてが取り扱われるのです。
けれども、しばらくそうして点と格闘していると、ある時から急にそこから抜けだしたいと思うようになりました。
物と物との間の本当の違いをはっきり見てみたくなったのです。表面的な質感のことを言っているわけではありません。
そんなことどうでもいいことで、写真は表面的な調子でおもしろくなるなどという考えはおろかなことです。
表面的な質感のどこがおもしろいのかわかりません。とても退屈です。けれども私は肉体と物質の差異を見てみたかったのです。さまざまなもの、
たとえば空気や水や光などの密度の違いを見てみたかったのです。
そしてだんだんとそうした違いをはっきりさせるテクニックを学んでゆきました。そして、
いつのまにか私は明晰さというものに大きな重きを置くようになっていきました。
写真を撮ることに関するひとつのセオリーを私は持っていました。
つまり二つのアクションの間に入りこむことこそが撮るということなのだと。
あるいはひとつのアクションと休止の間に入りこむことと言ってもいいかもしれません。大げさに語るつもりはないのですが、それはつまり、
私が見なかった、あるいは見ようとして見えなかった表情に似ています。ストロボのおもしろい特質のひとつは、写真を撮った時、一瞬、
盲目のようになってしまうことでした。光が大きく変わって、見えなかったものがあらわになるのです。
そのことが理由でストロボがいやになったこともあります。何の加工もされていないありのままの光が懐かしくなり、
普通の曖昧な状態には必ずある、ある種の曖昧さを大切にしたいと思い始めたのです。
最近になって、写真のなかでは見えないものを深く愛していたことに気づいてとても驚いています。それは現実の本当に物理的な暗さです。
暗さを繰り返し繰り返し見るということはなんとスリリングなことでしょう。
いわゆるテクニック(この言葉は、何かを隠し持っていることを連想させて嫌いなのですが)について私が興味深く思うのは、
それが神秘的な奥深いところから生じてくるからです。つまりテクニックは、印画紙や現像液などのさまざまなものと関係するわけですが、
最も大事なのは誰かが長い時間をかけて悩み、うみだしてきた深い選択の集積だからなのです。
創造というのは複雑で重要なものです。人々は彼らが創造したものの美しさに近づこうとします。そうしてだんだんとその溝がうめられ、
彼らは非常に注意深くなります。写真の創造は照明とプリントの質と主題の選択に深く関わってきます。
それらの選択の種類は何百万とあるでしょう。ある意味でそれは運不運の問題なのです。ある人は複雑さを嫌い、別の人は複雑さを求める。
でもそれは意図的なものではなく、その人の性質、つまりアイデンティティから生じるものなのです。
われわれすべてがこのアイデンティティというものを持っています。それは避けることができないものなのです。
ほかのすべてが取り去られたあとも残るものがアイデンティティなのです。私は最も美しい創造は作者が気づかなかったものだと考えています。
撮った人が気づかないのに実験的な試みになる写真があります。そしてそれらは方法となってゆきます。
だから悪い写真を撮ることも大切なのです。悪い写真は、今まで撮ったことのなかったものと深く関わっています。
そうした写真はあなたが今まで見なかったものを気づかせ、それを再び見た時にあらためて気づかせてくれるでしょう。
構図という考えが嫌いです。いったい何がいい構図なのでしょう。多くの写真を撮ったり、自分の感情をこめたり、
好きなように撮っていったりするうちに、何かがわかるかもしれませんが、
私にとっては構図は時に応じてある明澄さや安らぎやおかしな失敗といったものと関わってきます。
構図の正確さや不正確さというものがありますが、私は時には正確さを好み、時には不正確さを好みといろいろなのです。
構図とはそんなものです。
こうした経験は前にもあるのですが、そのなかから写真を撮りました。最近、何枚かのラフなプリントをつくりました。でも、
そのすべてがよくないのです。何かが欠けているように思えて、もう一度やりなおさなくてはと思ったりします。しかし、
そのなかに一枚だけほかの写真とは違う特別なものがありました。ひどく時代遅れの写真なのです。
私にはまるではるか昔の貴婦人の夫君が撮った写真のように思えました。それはまったく異様で、醜く、でもなぜか素晴しいのです。
私はだんだんその写真が好きになって、今ではほとんど夢中と言っていいくらいです。
カメラはある意味ではやっかいな機械です。こちらの言うことをきかないのです。あなたがほかのことをしたいのに、
カメラは別のことをしてしまいます。カメラの要求とあなたの要求をまず溶けあわせなくてはならない。まるで乗馬のようです。
私は乗馬などできないので悪いたとえだと思うのですが、ともかくそれがどんなふうに動くか学ばねばならないのです。
私は2台のカメラを使ってきました。ひとつはある状況下では素晴しい動きをするカメラ、素晴しくすることのできるカメラです。
もうひとつのカメラはまぬけなカメラなのですが、時々、私にはその不器用さが好ましく思えることがあります。
それがとてもうまくゆく時もあるのです。私にはカメラが自分とはまったく違ったものだという感覚があります。
カメラという機械と合体することなどできないのです。でも、それを、非常にうまくというわけではないにしても、
けっこううまく使いこなすことはできるのです。フィルムを巻きあげる時など、何かのはずみでひっかかったり、具合が悪くなったりしますが、
そんな時、何度も繰り返しシャッターを押したりしていると、突然また動くようになります。機械とはそうしたものだと私は思っています。
ちょっと視点を変えて使ってみると、直ってしまう。例外というのはもちろんあるのですが。
ファインダーグラスをのぞいていて、すべてが醜くみえてしまい、
何が悪いのかわからないというようなパニックの瞬間に襲われることがありました。時々、
まるで万華鏡をのぞいていているかのようにもなります。でもそれをうまく動かそうとしてもできない。それをごちゃごちゃにしてしまえば、
ファインダーグラスの向うのものはすべて消え去ってしまうだろうなどと考えたりもしました。でもそういうわけにはいかないから、
たとえば後ろへさがったり、話しかけたり、別の場所へ行ったりするわけです。でもそうしたことは計算してできることだとは思いません。
そうしたことの過程には常に神秘的なものが潜んでいるのです。
写真を撮るためにイベントに出かけることがよくあります。たとえば美人コンテスト、そんな時、
頭のなかでいろいろとイメージを思い描いたりします。審査員がいて、彼らが優勝者を決め、
その時その場にかけよって撮ろうなどと考えたりするのですが、そのとおりに事が運ぶことなどめったにありません。
ものごとはばらばらに同時に起こり、頭のなかではストレートで写真に撮りやすいと思うのですが、実際には一人はむこう、
一人はこちらとという具合で、なかなか一緒にはなりません。ある家庭を訪ねた時でさえ、一家全員の写真を撮ろうと思っても、
無理を言って頼まない限り両親と二人の子供が部屋の片隅に一緒にそろうことなどまずないのです。
私は自分の不器用さを仕事の原点にしています。つまり私はものごとをアレンジするのが好きではないのです。何かに向う時、
それをアレンジするかわりに自分自身をアレンジしようとします。
ワシントン・スクエア公園をある夏に精力的に撮ったことがあります。たぶん1966年だったと思います。
公園はいくつかの区画にわかれていました。雲間からもれる強い光のように遊歩道が枝わかれしていて、そのなかにテリトリーがあり、
杭で囲われていました。若いヒッピーの麻薬常用者たちがこちらに群がり、あちらには根っからの同性愛者といった女たちがたむろしています。
そしてその間にはアルコール中毒者たちがいるのです、彼らは受付け係のようなもので、
ブロンクスからヒッピーになりにやってきた女の子たちはまずアルコール中毒者たちと寝ることで、
この公園のなかのジャンキーの仲間に加わることができるのです。それは本当に驚くべき光景でした。とても恐いと思いました。
私はヌーディストにもなれましたし、何にでもなってきたのですが、でも彼らの仲間にはなれないと心底思いました。
彼らの人間性がどのようなものであれ、です。写真は撮れたり、撮れなかったりでしたが、少しずつ進んでゆきました。
そのうちに何人かの人々と知りあい、彼らとずいぶんうろつきました。ある意味で彼らは彫刻に似ていました。
私は彼らに近づきたいと思いました。そこで写真を撮らせてくれとたのまなければなりませんでした。
普通の人にあれほど近づいてゆきながら言葉ひとつかけないなどということはできないと思います。でも、
私はいつのまにかそうしたことをしていたのです。
奇妙なことにファインダーグラスをのぞいている時は恐いと思ったことは一度もないのです。銃を持った人が近づいてきても、
ファインダーをのぞいている限り、自分が弱い存在であることなど考えもしないのです。今、起こっていることが素晴しいと思うだけです。
もちろん限度はあります。兵隊が近づいてくる時など、殺されるのではないかと、しめつけられるような気持ちがこみあげてきます。
けれどもカメラには不思議な力があります。カメラを持っているとまるで何か特別な位置にいるような気がするのです。
何か特別な魔力を行使して、世界をうまくおさめてしまうのです。
自分のことをとても恥ずかしがりやだと思っていて、また恥ずかしさにとてもこだわり続けてきました。だから何かが延期されたり、
待たされたりする状況を楽しんできました。今でもそうです。そうした時間をとても神経質になったり、心を落ち着かせたり、
ただただ待ってみたりして過ごします。それは生産的な時間ではありません。本当に退屈な時間です。昔、女装ショーに行った時、
楽屋で4時間も待たされたあげく、写真も撮れず、また別の日に来るようにと言われたことがあります。でも、
退屈だけれども心を奪われてしまったようなそんな経験をいつか好きになるようになりました。退屈だったのですが、
同時にそれは普通の人々が見過ごしてしまうような神秘的な時間でもあったのです。
実際には写真に撮れないのだけれども写真に撮るべきものがあるような感覚、私はそうした感覚に強く魅きつけられました。
中国に退屈を過ぎると魅惑の域に入るということわざがあるそうですが、本当にそうだと思います。
自分にとってそれがどんな意味を持つかとか、自分がそれをどう考えるかといった目的のために主題を撰んだことはありません。
まず主題を撰ぶことが大事で、それについてどう考えるかとかそれが何を意味するかなどということは、主題を撰んで、
それを十分に消化することができればおのずとあらわれることなのです。
何度も繰り返し写真を撮った人がいます。彼女とはある日街で会いました。3番街を自転車で走っていた時で、彼女は友人と一緒でした。
彼女たちは二人ともとても大きくて、6フィート近くあり、太っていました。私は大きなレスビアンだと思っていました。
彼女たちは食堂に入って、私も後を追いかけて、写真を撮らせてくれないかと頼んでみました。 「明日の朝だったらいいわ」
と彼女たちは言いました。ところが私と別れた後で、官女たちが逮捕され、その夜は警察で過ごしたのだそうです。
翌朝の11時頃に彼女たちの家を訪ねると、私のすぐ後を彼女たちが階段をのぼってきました。そして最初にこう言いました。
「あなたに話しておかなくてはならないことがあるの」 どうして彼女たちがそうした義務感に駆られたのかよくわかりませんが、
彼女たちはこう続けました。 「私たちは男なの」 私はそれを聞いてもとても平静だったのですが、
内心はとてもうれしくてゾクゾクしていました。
彼女たち(彼ら)の一人と仲よくなりました。彼はいつも女装していて、女として売春をしていました。
私は彼女を男だと思ったことはありません。どう見ても女だったのです。男だとわかってはいても、
女装した男だというそぶりを何ひとつ見つけることができなかったのです。彼女とレストランに入ると、男たちはみなふり返って彼女を見、
足をならしたり、口笛をふいたりしあmした。彼女に向けてです。私にではありません。
最後に会ったのは彼女の誕生パーティの時でした。彼女が電話してきて、誕生パーティだから来ないかと誘われた時、「なんてすてき」
と叫んでしまいました。ブロードウェイの100丁目にあるホテルでパーティは行われました。
一生のうちであんな場所に足を踏み入れたことはありません。かなりいろいろな恐ろしいところには行ったことがあるのですが、
そのホテルのロビーはまるで地獄のような光景でした。紫がかった白眼の、どすぐろい顔をした人たちがそこにはブラついていて、
背筋が凍ってしまうような雰囲気が漂っていました。エレベータは壊れていて、歩かねばならなかったのですが、
4階の彼女の部屋にたどり着くまでに、階段にたくさんの人たちが横たわっていたため、
一階にのぼるたびに数人の人を踏みつけることになってしまうのです。ようやく部屋にたどり着くと誕生パーティの出席者は私と彼女と、
娼婦の友人とそのヒモの男と、そしてケーキでした。
知っておかなければならない大切なことは、人間というものは何も知らないということです。
人間はいつも手さぐりで自分の道をさがしているということです。
ずうっと前から感じていたのは、写真のなかにあらわれてくるものを意図的に入れこむことはできないということです。
いいかえれば写真にあらわれてきたものは自分が入れこんだものではないのです。
自分の思いどおりに撮れた写真はありません。いつもそれらはもっと良いものになるか、もっと悪いものになってしまいます。
私にとって写真そのものよりも写真の主題のほうがいつも大切で、より複雑です。プリントに感情をこめてはいますが、
神聖化したりすることはありません。私は写真は何が写されているかということにかかっていると思っています。
つまり何の写真なのかということです。写真そのものよりも写真のなかに写っているもののほうがはるかに素晴しいのです。
ものごとの価値について何らかのことを自分は知っていると思っています。ちょっと微妙なことで言いにくいのですが、でも、本当に、
自分が撮らなければ誰も見えなかったものがあると信じています。
(「ダイアン・アーバス作品集」 ドゥーン・アーバス、マーヴィン・イズラエル編集 伊藤俊治訳 筑摩書房 1992年)
注)本文は「ダイアン・アーバス作品集」の冒頭に掲載している。写真集の先頭ページには以下のことが書かれている。
「以下のページの本文は、ダイアン・アーバスへのいくつかのインタビューと、彼女自信が書き記したもの及び、
1971年に行われた彼女の一連の講義の録音テープをもとに編集されました」
また邦訳「ダイアン・アーバス作品集」はすでに廃刊となっているが、邦訳の元となった写真集は現在でも米国のアマゾンで購入可能
(ただしペイパーバック)である。この写真集は1972年のニューヨーク近代美術館での「ダイアン・アーバス回顧展」の展示写真集でもある。
(amehare)