2007/02/14

アーレントとトクヴィルの相違点

ではアーレントとトクヴィルの最大の相違点は何だろうか。それは「社会」の捉え方にある。
周知のようにアーレントはギリシアのポリスに倣って、公的領域と私的領域を明確に分離する。その私的領域とは「家政」(household)
の領域であり、公的領域に比して、二義的なものである。

そこでは、生物的水準において生命の再生産を図ることが第一の目的とされるため、この領域は、生命の必然に拘束されているという点で、
「人間的意味」を持ちえない。つまり、そこには公開性と世界性が存在しないのである。他方、
公的領域とは生命の再生産から解放された自由な人間が織り成す政治的空間なのである。この私的領域の国家大への拡大がアーレントの言う
「社会」である。つまり政治と経済の境があいまいになり、
巨大な民族大の家政問題を解決するのがあたかも政治の役割であるかのような事態が出現したのである。
「経済的に組織された諸家族の集合体が一個の巨大な家族に模写されたものが、われわれのいう「社会」であり、その政治的諸形態が「国家」
と呼ばれているのである。」 そして「社会」の前提は「平等性」ではなく「同一性」(sameness)であるため、
まさに社会的なるものは政治的なるものとは敵対する。

「社会は常に単一の意見と単一の利害をもっている一つの巨大な家族のメンバーであるかのようにふるまうことを要求する。」
社会的なものが公的なものを凌駕している近代社会には、自由のための空間はなく、「顔のない支配」(non-man rule)、「活動」
の軽視、複数性の無視、単一で集合的な利害の重視、標準化と画一化の強制があるのみである。


つまりアーレントは、政治的なものから社会的なものを排除し、政治をより「純化」(purify)しようと努めているのである。
政治という営みには、その戦略的有効性や手段-目的連関性の側面を越えて、それ自体に固有の尊厳があるのであり、
同時にそれは複数の人々の自由な行為の総体なのである。この行為こそが、近代的政治機構が生み出す「規則性」(regularity)を、
その特異性と予見不可能性によって、「分裂」(disrupt)させるのである。
そのようにして彼女はトクヴィルが政治を構成する要素として考えた事柄を、ことごとく政治の外におく。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


文中の引用部分は、「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳から