いかなるテクノロジー(眼も含めて)によって不可視なものは、例えば思考できるものである。いかなるテクノロジー(脳も含めて)によって思考できないものは、もしかすれば聴取できるものである。さらに全ての思考可能なもの、感覚かのうなものの外部は、任意の他人の思考や感覚にとっては外部ではない。思考や感覚はさまざまな密度と速度の様態をとり、
しかも人間は単独で生きているのではないのだから、これは脱力するほど当たり前のことである。しかしこの当たり前のことが、記号的なものに先立ちその外にある、豊かな「存在」への潜行も、絶対的に貧しい砂漠の彷徨も否定する。つまり、写真は「言葉にできないもの」「映像にできないもの」の実在を抹消する。
Es denkt es blitzt,es sieht. この「es」は超越的なメタレベルでもなく、神秘的な深淵でもなく、異なる複数のもののあいだであつことにすぎない。上で述べたように、我々の日常感覚がすでに横断的なあり方をしている以上、写真は意識化の無意識を写し出したりはしないし、知覚の外部をなす即物的な世界の存在を露出させたりもしない。様々なスタイル(引き算・わり算の構成、モンタージュ)によって写真が表出するものは、あるレベルの知覚と別の知覚が遭遇したときの差異と落差だけなのだ。
この落差がメディアのもう一つの力、すなわち特殊な均質化によってますます困難になっているのは本当である。しかし、写真にもし存在論があるとすれば、その「存在」とはこの差異と落差のことである。というのも、その落差が我々に与える衝撃だけが我々の生を形成し、そのつど一つの個体を痕跡として焼き付けていくからである。
(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣 現代思潮新社)