情報と意味は同じではない。簡単に言うと、意味は小さな部分を集めてより大きな一つのものになるのに対し、
情報はその反対と言えるだろう。また、情報はデジタルという理想的な形で伝わるのに対し、意味はもっと象徴的な方法で伝わる。
情報は加工処理され、意味は解釈される。そうは言っても、僕たちは意味のために情報を退去させることはできない。
時代に合わせて生きなければならないからで、あらゆる方向から襲いかかる情報の波から選別するしかたを学ばなければならないのである。
現代は、僕たちが自分であらゆる体験をしたいと思っても、そううまくはいかなくなっている。問題はテクノロジーにあり、
僕たちはますます見物人で受身の消費者となり、ますます行動的に参加しなくなり、それが僕たちに意味を不足させている。
ここで僕が思っている「意味」を説明するのは簡単ではない。哲学の意味論では、とくにゴットローブ・フレーゲ(1848-1925)
の研究の延長上に、意味の理論が無数にあり、言語学的表現としての意味を説明している。しかし、僕が言いたい意味の概念は、
もっと広い視点をカバーし、「何か」が「誰か」にとって意味があるという考え方と切り離せない。先述のペーテル・ヴェッセル・ツァプフェは
「悲劇について」のなかでこの概念を一つ一つつなごうとする。
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「一つの行動あるいは人生の別の一断片に意味があるとしたら、それは正確に認識できるのに、
考えとして言いあらわすのは容易ではない。たぶん、そのような行動に駆り立てた善意のほうでいろいろ探らなければならないだろう。
ひとたび目的に達したら、行動はいわば「正当化され」、バランスが取れ、確認され-そして人は落ち着きを取り戻す。」
この定義はちょっとひとひねりされているが、重要な要素を含んでいる。つまり意味は、
主体と世界との関係のあり方に結びついているという点だ(ちなみに僕たちの考え方はツァプフェとは違う。
彼は歴史より生物学に基づいているからだ)。もう一つ、ツァプフェの考え方で僕たちの興味を惹くのは、すべての行動を他の何か-
実体としての人生と照らし合わせている点だろう。この問題についての彼の長い詳述は割愛するが、僕たちが探し求めている、
いや要求していると言ってもいい「意味」は、最終的には実存または形而上学的な意味の問いだということは知っておいていただきたい。
意味はいろいろな方法で探すことができ、さまざまな形で見つけることができる。何か定められたもののなかにあることもあれば
(たとえば宗教の共同体)、これから実現されるべきもののなかにもある(たとえば階級のない社会)。また、
何かの集団であらわされることもあれば、反対に個人のときもある。西洋ではロマン主義期以降、実存の意味はもっぱら個人の範疇に入り、
個人の計画、個人の信じるものを実現して、初めて意味があることになっている。僕が理解する「個人の意味」は、さしずめ「個人の信条」、
または「ロマン主義的」とでも呼びたいところだ。
正しく機能している社会では、人は人生で意味を見いだす。機能していない社会ではそうではない。前近代社会では、
一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。しかし、僕たち「ロマン主義者」には、それは疑わしい。なぜなら、
僕たちもよく民族主義のような集団的な考え方を取りこむことはあるのだが、結局のところ、非常に限定された考え方だと思ってしまうからだ。
もちろん僕たちの人生にはいまでも意味があるが、密度の濃さは失われてしまったようだ。その代わり、情報は枯渇しそうもない。
メディアによって高速でもたらせる情報は、過剰な知識を与え、それには肯定的な面もあるのだが、
やたらとうるさいだけでじつは誰の耳にもはいっていない。「意味」という言葉をもっと広く受け入れてみると、少なくとも言えるのは、
現在の世界には意味がありあまるほどあるということである。みんな文字通り、意味のなかでもたついている。しかし、
この意味は僕たちが探し求めているものではない。退屈で時間が空虚なのは、行動に中身がないのではない。
壁の絵が乾くのを待っているだけでも、その瞬間必ず何かが起きている。時間が空虚なのは、意味が空虚なのである。
(「退屈の小さな哲学」 ラース・スヴェンセン 鳥取絹子訳 集英社新書)