2007/02/12

写真は行きたいところに行き、したいことをするための免許でした

「写真は行きたいところに行き、したいことをするための免許でした」とアーバスは書いた。カメラは道徳の壁や社会的禁忌を取り払い、
写真家の撮影した人びとに対する一切の責任を免除する一種のパスポートである。人間を撮影することの眼目はすべて、
あなたは人間の生活に介入しているのではなく、ただ訪問しているのだということにかかっている。写真家は並はずれた旅行家であり、
考古学者の延長であって、原住民を訪れ、彼らの風変わりな行いや珍しい道具のニュースをもち帰る。写真家はいつも新しい経験を植え付けたり、
見慣れた被写体を新しい眼で見ようとする。退屈と闘おうとしているのである。退屈は魅惑の裏返しであって、
ともにある状況の内側よりも外側に依存しており、一方は他方へ通じている。「中国人は退屈を抜けると魅力に通じるという理論を持っています」
とアーバスは記している。ぞっとするような下層社会(とうらわびしいにせの上層社会)を撮影しながらも、
彼女はそういう世界の住民たちが経験する恐怖の中に分け入る気持ちはなかった。彼らは風変わりなまま、したがって「ぞっとする」
ままでいることになる。彼女はいつも外側からものを見る。


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)