2007/02/09

人種主義に関する提言(2)


他方、だからといって人種主義を対象化する試みを素朴に拒否するわけにもゆかない。そのような拒絶は、対象としての「人種主義」
が存在しないというだけではなく、人種主義「そのもの」も存在しないと、ほのめかすことになるだろう。さらにもっとひどいことに、
「人種主義」は、その外部を欠いている以上、必然的であり、存在に内在し、自然なものである、とほのめかすこと
(われわれには実になじみのある「ほのめかし」ではないか)になるだろう。このように、拒絶は、
人種主義をその固有の文節化に従って特定することを不可能にしてしまい、
批判の実践を不可能にさせてしまう政治的冷笑主義にわれわれを追いやってしまうだろう。人種主義の真剣なかつ厳密な批判は、
少なくとも人種主義には「外部」があるという希望を必ず設定しなければならず、人種主義の「外部」への希望を維持するためには、
基本的にその希望がたんなる信仰の問題であってはならず、人種主義の外部はたんなる虚構や「観照的な」
ユートピアであるわけにはいかないのである。







われわれが潜在的なかたちと顕在化されたかたちの両方の人種主義に対する告発を行うためには、
われわれは対象としての人種主義を一方的に拒絶し、そのとらえ難い偏在性を諦めて受け入れるわけにもゆかないし、かといって、
冷笑主義の諦観の立場からも禁欲主義(ストイシズム)の自己正当性に硬直した立場からも、
われわれの考察は出発するわけにはゆかないのである。







したがって、人種主義を一方では可能な対象としてまた他方では不可能な対象として産み出すさまざまな公式、すなわち、
人種主義に関する言説を知識として産み出し学問的領域として確立するための公式と、
そうした公式をひるがえって追認する役割を果たす知識に則って、人種主義の「外部」をつくり出すわけにはゆかないのである。むしろ、
必要なのは対象化可能性が構成されるさいに動員される基本概念装置、対象化一般、そしてとくに「人種主義」
の対象化を可能にする基本概念装置を、あらためて問題視することなのである。「内部」と「外部」、「主観」と「対象」
といった対立項の妥当性に挑戦し、これらの項がたがいに本当に排除的な関係にあるのかどうかを問うことも必要だろう。
こうした再検討の作業の過程で、
他者の外部性を内部性に対立する外部性とは違った仕方で考えることがわれわれに要求されてくるかもしれない。
もちろんこうした関心は永らくある種の哲学的実践にとっての関心でもあったわけだが、われわれがこの再検討において求めているのは、
哲学的問題への解答ではなく、そうした哲学問題がわれわれの政治的実践においても有意義である事実を明示することなのだ。







まさにこの意味で、われわれの企画はある種の理論的責務を自ら引き受けるひとつの投企(希望の可能性の探求としての未・来、
つまり未だ来ないものへの投企)であることがわかるだろう。いうまでもなく、理論的であることへのこの責務は、
同じ理論用語を使うといった同意の場面に固執することでも、またその対象に十全な「人種主義の理論」
をつくり出すことだとも了解されてはならない。あるいはまた、この理論的であることへの責務は、一般性においてのみ思考すること、
人種主義的弾圧の特殊例に関する特定の議論を拒絶することを、われわれに要求するわけでもない。この企画においては、
われわれは理論的に現実に関わることによって政治的に現実に干渉することをめざす。そして、この企画が政治的干渉を意味しうるのならば、
特殊な事実に関する特殊性が構成されるさいに動員される概念装置を、その事実的な特殊性の側面と同時に特殊性一般の側面においても、
問題視するのでなければならないだろう。つまり、われわれは、
人種主義の特定の例に固有の特殊な状況あるいは環境に注目しなければならないが、と同時に、そうした特定の例をひとつの
「人種主義の例証あるいは審級」として、ひとつの事例として構成する在り方へも注目しなければならない。