2007/02/12

日本の公共

「ここで改めて、「公共」の語の意味を考えてみよう。山本英治は次のように述べている。

「公共性とは人間の生の営みにおける共同性を前提とし、その共同関係を普遍化したものにほかならない。」

ここに言う共同関係の普遍化とは生活と生産を共同の価値のもとに営んでいくことを意味する。したがって公共性とは、
その共同の価値を根底において支える理念である。また真木悠介が言うとおり「歴史の主体-実体は「個人」でも「社会」でもなく
「つながりのある諸個人」の「相互につくり合う関係」そのもの」である。この点、わが国の状況をみると、個人の相互関係という意味ではなく、
もっぱら「公共性」は、単に公権力という意味で理解されてきたように思われる。そして我が国の歴史は国家がこうした公共性を占有し、
個人の相互関係は単なる「私」的なものとして貶められてきた。


その点を安永寿延は次のように述べる。

「日本の近代は、伝統的な公私の観念を基本的に越えることなく、いわゆる「衆の同共する所」としての「公」
性が一方的に拡大されて国家へと凝結するとともに、「私」性がもっとも一面的に縮小されて個人と癒着する。一方、
公として国家の意志を現実化する行政レベルにおいては、「公」性が天皇を最高の頂点とする、階層的な官として人格的に具象化されるとともに、
「私」性は、個人の集合体とされる民へ流しこまれる。・・・・・こうして、国家ないし官が公的原理を独占することによって、個人ないし民の
「公」性を剥奪するとともに、個人や民に対して一方的に「私」性の烙印が押される」


そしてこの「公」と「私」の関係に善悪の関係がもちこまれ、「公共」的なものは公正であり、「私」
的なものは恣意的であるとされるのである。ここに我が国独特の公共性の概念が見られる。しかし、真の意味の公共性とは、まさに、真木のいう
「相互につくり合う関係」、あるいは共同の利害関係のうちにあるのであり、アーレントの言う、
人々が相互の関係の中から紡ぎだしていくものの総体なのである。共和国の構成員は国民でなく「公民」なのであり、共和主義の国家とは、
自由な討論を通じてつくり上げていく公共的意志決定によって成り立つものである。その意味で、この公共性の概念は、
ナショナリストの主張するような民族的、共同体的な公共概念とは、遠く隔たっているといえる。アーレントが提示した、
公共性の豊穣なイメージに喚起されながら、共同体への回帰ではない、新たな公共性の空間を創造することが急務であるように思われる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)


山本英治編:「現代社会と共同社会形成」(1982年 恒内出版)

真木悠介:「現代社会の存立構造」(1982年 筑摩書房)

安永寿延:「日本における公と私」(1976年 日本経済新聞社)