西洋形而上学は常に、実体論を前提とし、そこではある存在は他の存在物から区別された同一性(A=A)を具備した実体とみなされ、
存在するものは、その本質に従って、それがいかにあるべきかを規定される。そしてあらゆる規範の妥当性も、そのものが実体として存在する
(A=A)ということを基盤にして判断される。しかし、ソシュールの言語論に見られるように、言語は認識のあとにくるのでなく、
言語があって初めて事象が認識され、言語と認識が同一現象であるとすれば、意味はそれ自体に備わる同一性にはよらず、
他のものとの差異による恣意的なものとなる。意味はそれ自体に根拠の有する実体としてではなく、
常に何者かとの差異的関係のもとに与えられる。あらゆるものの意味が他のものとの差異によってしか規定されないとすれば、
それを根拠づける同一性は保証されない。そこでは個人もまた、私は私である、という同一性を備えた自我ではありえず、
他者との関係によって変化するものとなる。このように主張するポストモダニズムの思想は、ニーチェの思想の復権と言えるだろう。
(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)
今では誰もが知っている内容ではあるが、短くまとまっているので引用した。
逆にソシュールの言語論はあくまで一般論としての言語論であることも忘れてはならない。いずれ竹田青嗣の「言語的思考へ」
を再読し引用として掲載する。(amehare)