退屈の類型学にはさまざまなものがある。たとえば、クンデラは三つのカテゴリーに分類し、興味を失ってあくびをするときのような
「受動的な退屈」と、余暇の活動にふけるときのような「積極的な退屈」、若者が車やガラスを割るときのような「反抗的な退屈」に分けている。
この類型学は、僕から見るとあまりためにならない。人は退屈に対して受動的か積極的かと言っているだけで、これらさまざまな形の、
質的な違いについては何も光を当てていない。
僕はそれよりも、退屈を四つのタイプに分類するマルティン・デーレマンの方を撰びたい。その四つとは、
(1)状況の退屈-誰かを待っているとき、授業中、列車に乗っているときのような退屈、
(2)飽和の退屈-同じものがありすぎて、すべてが平凡になるとき、
(3)実存の退屈-魂に中身がなく、世界が空回りするとき、
(4)創造の退屈-中身より結果で特徴づけられるもので、たとえば何か新しいことをしなければならないと自分に強いるとき。
この分類は、現実的には漠然としているが、筋は通っている。
ギュスターヴ・フローベル(1821-80)は、「万人共通の退屈」と「現代の退屈」に分類しているが、簡単に言えば、
これは僕の言う「状況の退屈」と「実存の退屈」の分類と同じである。しかし、フローベルの小説に出てくる人物の退屈を分析し、
この二つの分類に当てはめるのはそんなにやさしいことではない。「ブヴァールとペキュシェ」(1881)の主人公たちを襲った退屈は、
「万人共通の」ものなのか、それとも「現代の」ものなのか。二人が具体的な障害にぶつかって退屈するときは「万人共通の」で、
宇宙と地球上に存在するすべてのものについて非常識な勉強にふけりたいと思うのもそうだが、退屈が彼らの実存の中心部に達すると「現代の」
にもなるのだろう。それでも僕は、彼らは二人とも「万人共通の」退屈に苦しんでいると言いたくて仕方がない。一方、「ボヴァリー夫人」
(1857)のエマ・ボヴァリーの退屈ははっきりとした対象-この場合は性欲-があるものの、僕にはむしろ「現代の」に見える。
状況の退屈と実存の退屈を区別するには、前者はなにか確かなものに到達したい、手に入れたいという欲望があるのに対し、
後者は欲望だけでも持ちたいという欲望、と言ったところだろうか。
こう見ると、象徴的な様相で外にあらわれるのは状況の退屈だけということがよくわかる。あるいは、もっと正確に言うと、
状況の退屈はあくびやいらいらした動き、手足の伸びなどであらわされるのに対し、実存の退屈は、もっと深く、
外からわかるサインとしてあらわれないか、あらわれたとしても少しなのだ。そして、状況の退屈では、
身体であらわすことによって人は解放されると思うのに対し、実存の退屈では身体的な反応が何もないということは、
単なる意志の動きだけでは克服できないことを暗に示している。もし、深い退屈をはっきりあらわすものについてあげるとしたら、それは、
社会からはみだす、危険をともなう行動だろう。
(「退屈の小さな哲学」 ラース・スヴェンセン 鳥取絹子訳 集英社新書)