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2008/01/03

『翻訳と日本の近代』 あとがきから

徳川時代の文化の大きな部分(主として知的・思想的な領域での大きな部分)は、翻訳文化であった。いわゆる「読み下し漢文」は、
狙徠も指摘したように中国語文献(主として古典)の翻訳であり、その語彙や表現法を採り入れて消化した日本語を媒介とする文化-
すなわち徳川時代の儒者の文化の全体が、その意味での翻訳文化である。その経験が明治の西洋語文献からの大がかりな翻訳を助けたのであり、
近代日本を作りだした、ということができる。


翻訳文化は必ずしも独創を排除しない。徳川時代の文化の独創性は、「読み下し漢文」に依るところが少ない浄瑠璃や俳諧ばかりでなく、
漢文の概念を駆使しての、儒者の思想的な仕事にもある。日本の学者は必ずしも同時代の中国の後を追ったのではなかった。
明治以後の文化についても、少なくともある程度までは、同じことが言えるだろう。


翻訳文化はまたその国の文化的自立を脅かすものではない。むしろ逆に文化的自立を強化する面を含む。
翻訳は外国の概念や思想の単なる受容ではなく、幸いにして、または不幸にして、常に外来文化の自国の伝統による変容だからである。
外来の思想は、必ずしも知識層と大衆との間の溝を、長期にわたって拡げるようには作用しない。そのことを明治初期の翻訳者たちは-
少なくとも一部は-あきらかに意識していた。もし文化的創造や革新的な思想が、知識人と大衆との深い接触を通じて成り立つものとすれば、
翻訳文化は創造力を刺戟しても抑えはしないはずである。


(『翻訳と日本の近代』 岩波新書 加藤周一)



2007/05/16

格差とアンフェア

淺野史郎:では、日本の格差社会の問題はどうですか。


宋文洲:正直言って、国に富がたまると格差が自然に広がる。これはどうしようもない。逆に貧乏な社会は格差が少ない。


淺野:僕がいまいちばん気になるのは、同じような仕事をしながら、たまたま正社員として遇されるのと非正規雇用とでは、
報酬や処遇がまったく違う。これはそのままにしてはいけない格差でしょう。


宋:僕も全く同じ見方です。ただし、その場合は「格差」とは言わない。これは「アンフェア」だと言っているんです。不公平なんです。
しかも違法性がある。これは許せないと思う。格差じゃない、これはアンフェアですよ。


淺野:アンフェアと格差は違う。


宋:違う。格差というのは、あくまでチャンスが均等の下でもたらせられるものです。


淺野:たまたま結果がそうなった、ということですね。


宋:そうです。たとえば世襲も格差じゃない。自民党はほとんど世襲制でしょう、今。そこから生まれた格差は格差じゃない。
これはアンフェアです。それから、経営者の二代目が全部また経営を相続した上で会社のお金を自由に自由に使うというのも格差じゃないね。
これは社会システムのアンフェアです。法律で直すべきです。


淺野:なるほどね。どれが許される格差なのか、結果としての格差なのか、
それともアンフェアなのかということを見極める目も必要だということですね。


淺野:話は変わりますが、日本と中国の関係について、新しい展望みたいなものはお持ちですか。


宋:僕は、日本と中国のこの二、三年間の国民感情の悪化をもたらした唯一の理由は政治だと思っています。簡単です。
政治によって悪くなった環境は、政治によってまたすぐ回復する。日中の国民同士は、
お互いに許せないという気持ちを持っているわけでは決してないと思う。たとえば、もし中国人が本当に日本人のことが嫌いだったら、
はっきり言って、日本製品は中国であんなに売れるわけがない。本当に感情的なレベルで対立の根が深いのならば。

あと、僕は北京にも家があるんですが、北京で生活している北京の街の日本人の多さに気づきます。日本料理屋さんの多さ。
ごく普通のように日本人が溶け込んでいる状況。もちろんデータを見ても、日中の貿易額は、香港を除いた数字ですが日米の貿易額を越えている。
日中の貿易はどうして成り立ったのか。一つひとつの電話、一つひとつのファックス、一つひとつのメール、一つひとつの面談の結果なんです。
要は、経済に関わっていない人間には理解できない深い結びつきの根が、そこに張っているんですよ。

これまでの日中関係というのは、田中角栄さんや周恩来さんによって、ただ政治によって訴えられた日中友好から、
だんだん政治と関係ない経済のレベルや文化のレベルで、隅々までお互いに絡み合ってくるようになってきました。
政治の側が悪くしようと思っても、なかなかできないような状況になってきました。それを、
今回明らかに政治の側はもっと悪くしたかったんですよ。でも国民は、これ以上はもうやめてくれ、と。
国民世論は政治に対してノーを言い出しているから、政治家も軌道修正をせざるを得ない。これは日中双方がそうなんだよ。


淺野:お互いがお互いを必要としている関係が、経済的にも、もう後戻りできないくらいにできてしまったということですね。


宋:そうです。仲良くするいちばんの方法は、お互いの利益を、お互いが共有することです。口で言っているだけではやっぱり危ない。
夫婦関係で言うと、子どもができたら離婚しにくいのと一緒よ。


淺野史郎:慶應義塾大学総合政策学部教授。前宮城知事

ソウ・ブンシュウ:1963年、中国山東省生まれ、ソフトブレーン株式会社マネジメント・アドバイザー、工学博士


(「世界」 2007年1月号 「合理主義で日本を変える」)



2007/02/20

Wikipediaからの参照「日本の民族問題」より「日本国内の少数民族」

日本国内の少数民族


日本国内で生活し、日本国籍をもつ者にも、日本固有の民族意識(「日本人」としての意識或いは単一思想又は大和民族)
とは異なった民族的自覚を持ち続ける人々がある。在日外国人以外、多くは日本国民としての国籍を有し、多数民族の個人と同等の権利・義務が、
民族としてではなく一国民(個人)として憲法上保障されている。


これらの少数民族の人々は個別の文化と帰属意識を伝承している。在日外国籍の場合(朝鮮人など)は、
永住権を持ち全てが民族的自覚を持つとは限らないが、日本に帰化した人々に比して民族的自覚は非常に強固なものがある。


また、少数民族の人々は民族的出自を理由に就職や婚姻において差別を受けるケースがあった他、特に朝鮮人は、
「代々差別を受けてきた経緯から差別を回避するために朝鮮名を使用しない。朝鮮系であることを隠す」ということが行われるケースもあり、
「民族や出自(系譜)を気軽に公表できない」とする人々が多い反面、
堂々と本名を名乗り日本社会に違和感なく溶け込んでいる人々も多数存在する。


国民としてのナショナルなアイデンティティや帰属意識とエスニックな帰属意識は別であり、必ずしもそれが葛藤を生むとは限らないが、
近代の日本は強い同化主義をとったため、しばしば衝突や多数派エスニシティ(大和民族)による自文化の押し付けを結果した。


主要な少数民族


    * アイヌ民族 北海道(アイヌモシリ)・樺太・千島の先住民族

    * ウィルタ民族 樺太の先住民族

    * ニヴフ民族 樺太の先住民族

    * 琉球民族(独自の民族であるかには異論もある)

    * 小笠原諸島の欧米系島民等 - 開拓・移民の末裔。

    * 在日華僑、華人、華裔(在日中国人、在日台湾人)

    * 在日コリアン(在日韓国・朝鮮人) - 元朝鮮籍など。国籍に関わらず同胞コミュニティが存在。


    * 日系ブラジル人 - 多くの場合国籍やエスニシティはブラジル人であり出稼ぎが多い。


    * 白系ロシア人 ロシア革命による亡命者

    * 元ヴェトナム・インドシナ難民とその家族。政治難民が注目されるが経済難民も多い。


(「Wikipedia 日本の民族問題 日本国内の少数民族」から引用)



2007/02/12

日本の公共

「ここで改めて、「公共」の語の意味を考えてみよう。山本英治は次のように述べている。

「公共性とは人間の生の営みにおける共同性を前提とし、その共同関係を普遍化したものにほかならない。」

ここに言う共同関係の普遍化とは生活と生産を共同の価値のもとに営んでいくことを意味する。したがって公共性とは、
その共同の価値を根底において支える理念である。また真木悠介が言うとおり「歴史の主体-実体は「個人」でも「社会」でもなく
「つながりのある諸個人」の「相互につくり合う関係」そのもの」である。この点、わが国の状況をみると、個人の相互関係という意味ではなく、
もっぱら「公共性」は、単に公権力という意味で理解されてきたように思われる。そして我が国の歴史は国家がこうした公共性を占有し、
個人の相互関係は単なる「私」的なものとして貶められてきた。


その点を安永寿延は次のように述べる。

「日本の近代は、伝統的な公私の観念を基本的に越えることなく、いわゆる「衆の同共する所」としての「公」
性が一方的に拡大されて国家へと凝結するとともに、「私」性がもっとも一面的に縮小されて個人と癒着する。一方、
公として国家の意志を現実化する行政レベルにおいては、「公」性が天皇を最高の頂点とする、階層的な官として人格的に具象化されるとともに、
「私」性は、個人の集合体とされる民へ流しこまれる。・・・・・こうして、国家ないし官が公的原理を独占することによって、個人ないし民の
「公」性を剥奪するとともに、個人や民に対して一方的に「私」性の烙印が押される」


そしてこの「公」と「私」の関係に善悪の関係がもちこまれ、「公共」的なものは公正であり、「私」
的なものは恣意的であるとされるのである。ここに我が国独特の公共性の概念が見られる。しかし、真の意味の公共性とは、まさに、真木のいう
「相互につくり合う関係」、あるいは共同の利害関係のうちにあるのであり、アーレントの言う、
人々が相互の関係の中から紡ぎだしていくものの総体なのである。共和国の構成員は国民でなく「公民」なのであり、共和主義の国家とは、
自由な討論を通じてつくり上げていく公共的意志決定によって成り立つものである。その意味で、この公共性の概念は、
ナショナリストの主張するような民族的、共同体的な公共概念とは、遠く隔たっているといえる。アーレントが提示した、
公共性の豊穣なイメージに喚起されながら、共同体への回帰ではない、新たな公共性の空間を創造することが急務であるように思われる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)


山本英治編:「現代社会と共同社会形成」(1982年 恒内出版)

真木悠介:「現代社会の存立構造」(1982年 筑摩書房)

安永寿延:「日本における公と私」(1976年 日本経済新聞社)