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2007/02/15

闘技的民主主義の可能性

つまり、ここでは政治は、合意に基づく秩序の固定化に間断なく異議を申し立て、差異性を許容する抗争として理解されている。
アーレントの政治的活動は、「討論」(debate)と「熟慮」(deliberation)によって公的精神を涵養し、
同時に同一の争点における意見の多様性に価値を置く。闘技的エートスを欠いた空間には真の政治は生まれないのである。「法律尊重主義」
(legalism)や「立憲主義」(constitutionalism)は、政治の闘技的エネルギーを消滅させているといえる。
コミュニタリアンの言う共同体への郷愁(地域の紐帯、帰属性への要求)ではなく、
自由な未来のための生き生きとした抗争の場を求めることで政治的空間は涵養される。たしかにそこでは完全な合意や、
調和的な集合意志という理念は放棄せざるをえないであろう。つまりあらゆる理性的な人間が合意できるような「善き生」
の理念などといったものはもはや存在しない。むしろすべての本質の偶然性と曖昧さを承認し、分裂と対立を認め、必然性、真理、正常性、効用、
善性に抗する逸脱、齟齬、矛盾をもつ本質的な革新性を肯定すべきであり、アーレントの思想の革新性もその点にある。


しかし、アーレントの「闘技」(agon)を包含した公的世界の構想は、われわれに「自分の私的な幸福以上のものに気を配り、
世界の状態を憂慮する(care for the world)こと」の基盤を与えるのである。つまり、
自分自身への配慮のみがすべてを支配するとき、政治の場はまさしく単なる抗争の場となってしまうが、アーレントは、あくまでも「判断力」
という歯止めをかけたうえで闘技的民主主義というものを主張するのである。民主主義の要求する同質性が、
異質性の排除をもって実現されているとすれば、その中に闘技的な契機を持ち込むことによってのみ、
民主主義の活性化は実現されるのではないだろうか。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)



コノリーが提示するリベラルな個人主義の問題点

この点、コノリーは、リベラルな個人主義の問題点を次のように語る。


「第一にリベラルな個人主義は、正常な個人を中心に据えるために、多様性の主張に対して冷淡なものとなり、非合理性、無責任、不道徳、
非行、倒錯というような異常と定義された空間に、多様性のための空間をあてはめるように個人に強いる。

第二にリベラルな個人主義は、正常な個体性の基準に固執するため、ルサンチマンを一般に醸成するのに手を貸す。そのため、
「実存の豊穣な多様性」-ニーチェならそう呼ぶだろう-を評価する倫理を肯定することは、
正常な個人にとっても異常な個人にとっても困難となる。

第三に、その法的な政治の概念は、リベラルな社会に個体性のための空間を設けるのに必要な政治的行為、戦闘。
闘争の度合いを軽視するきらいがある。」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


コノリー:Connolly, William E.、ウィリアム・コノリー、

引用文は、「アイデンティティー/差異 他者性の政治」 杉田敦也訳 岩波書店 から

参考:"http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/connolly.htm">ウィリアム・
コノリー



アーレントは政治の純粋性になぜそこまで固執するのか

では逆に、アーレントは政治の純粋性に、なぜそこまで固執するのであろうか。それは「自由」のためである。
自由こそが政治の存在理由であり、自由は「意志」の中にあるのでなく、「活動」の中にある。
すなわち自由であることと活動することは同じである。「活動」において「自由」を定義づける彼女の議論は、
活動の役割をその人らしさの表現と定義する。その「活動」を通して、われわれは「世界」に入り込み、それに変え、そこに先例のない、
予見できない新しさをつくり出す。「活動」が「複数性」を生み出すのはこのゆえであり、公的な舞台に立つことで、人々の違いは明らかになる。
この、新しいものと、相違をもたらす能力をアーレントは「出生」(natality)と名づけ、「必要性」(necessity)
の圧力や効用の計算からは説明できないものとする。「活動」を効用や配慮に従属させては、自発性や創意を破壊することになるだろう。「自由」
とは、やはり「政治」を手段的権力的なものから純粋化する過程そのものに存在する。「政治のための政治」、
つまり政治が自己目的的であるというのは、人々が差異を保ちつつ共存できる世界を建設し、
維持すること自体が政治の目的であるということを意味するのであり、この政治的自由は経済やイデオロギーに妨げられてはならないのである。
すなわち公正な分配についての経済的問題と、
集団としてのわれわれが自分たちを統治する制度を形成するという政治的問題を別の問題として区別することが、
自由な市民であるための条件なのである。


しかし実際に、経済的問題と政治的問題をそのように厳然と区別することは可能だろうか。たとえば、M・
アグリエッタは次のように述べている。


「個人が資本に服従するのは、労働力の売り手としてだけではない。無数の社会関係(文化、余暇、病気、教育、性、さらには死さえも)
への編入を通じてなされる。資本制諸関係から逃れられるような個人生活や共同生活の領域はほとんど存在しない。」


つまり、資本の論理はすでに私的領域のすべてに浸透しているのであり、
このような状況下で経済的問題をすべて政治的問題から排除することが果たして望ましいことなのか、と問うことも可能であると思われる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


M・アグリエッタ:ミッシェル・アグリエッタ、「資本主義のレギュラシオン理論」

参考:"http://cruel.org/econthought/schools/neomarx.html">"3">新マルクス学派(ラディカル政治経済)



2007/02/14

ニーチェとポストモダニズム

西洋形而上学は常に、実体論を前提とし、そこではある存在は他の存在物から区別された同一性(A=A)を具備した実体とみなされ、
存在するものは、その本質に従って、それがいかにあるべきかを規定される。そしてあらゆる規範の妥当性も、そのものが実体として存在する
(A=A)ということを基盤にして判断される。しかし、ソシュールの言語論に見られるように、言語は認識のあとにくるのでなく、
言語があって初めて事象が認識され、言語と認識が同一現象であるとすれば、意味はそれ自体に備わる同一性にはよらず、
他のものとの差異による恣意的なものとなる。意味はそれ自体に根拠の有する実体としてではなく、
常に何者かとの差異的関係のもとに与えられる。あらゆるものの意味が他のものとの差異によってしか規定されないとすれば、
それを根拠づける同一性は保証されない。そこでは個人もまた、私は私である、という同一性を備えた自我ではありえず、
他者との関係によって変化するものとなる。このように主張するポストモダニズムの思想は、ニーチェの思想の復権と言えるだろう。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


今では誰もが知っている内容ではあるが、短くまとまっているので引用した。
逆にソシュールの言語論はあくまで一般論としての言語論であることも忘れてはならない。いずれ竹田青嗣の「言語的思考へ」
を再読し引用として掲載する。(amehare)



アーレントとトクヴィルの相違点

ではアーレントとトクヴィルの最大の相違点は何だろうか。それは「社会」の捉え方にある。
周知のようにアーレントはギリシアのポリスに倣って、公的領域と私的領域を明確に分離する。その私的領域とは「家政」(household)
の領域であり、公的領域に比して、二義的なものである。

そこでは、生物的水準において生命の再生産を図ることが第一の目的とされるため、この領域は、生命の必然に拘束されているという点で、
「人間的意味」を持ちえない。つまり、そこには公開性と世界性が存在しないのである。他方、
公的領域とは生命の再生産から解放された自由な人間が織り成す政治的空間なのである。この私的領域の国家大への拡大がアーレントの言う
「社会」である。つまり政治と経済の境があいまいになり、
巨大な民族大の家政問題を解決するのがあたかも政治の役割であるかのような事態が出現したのである。
「経済的に組織された諸家族の集合体が一個の巨大な家族に模写されたものが、われわれのいう「社会」であり、その政治的諸形態が「国家」
と呼ばれているのである。」 そして「社会」の前提は「平等性」ではなく「同一性」(sameness)であるため、
まさに社会的なるものは政治的なるものとは敵対する。

「社会は常に単一の意見と単一の利害をもっている一つの巨大な家族のメンバーであるかのようにふるまうことを要求する。」
社会的なものが公的なものを凌駕している近代社会には、自由のための空間はなく、「顔のない支配」(non-man rule)、「活動」
の軽視、複数性の無視、単一で集合的な利害の重視、標準化と画一化の強制があるのみである。


つまりアーレントは、政治的なものから社会的なものを排除し、政治をより「純化」(purify)しようと努めているのである。
政治という営みには、その戦略的有効性や手段-目的連関性の側面を越えて、それ自体に固有の尊厳があるのであり、
同時にそれは複数の人々の自由な行為の総体なのである。この行為こそが、近代的政治機構が生み出す「規則性」(regularity)を、
その特異性と予見不可能性によって、「分裂」(disrupt)させるのである。
そのようにして彼女はトクヴィルが政治を構成する要素として考えた事柄を、ことごとく政治の外におく。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


文中の引用部分は、「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳から



アーレントとトクヴィル

アーレントの大衆社会、全体主義批判が、トクヴィルの、「個人主義」(individualism)、「画一性」
(conformity)、「暴政」(despotism)についての考察にその多くを負っていることは明らかである。
彼女の思想的系譜としては、アリストテレス、カント、ニーチェ、ハイデガーなどが挙げられるが、トクヴィルの影響も決して小さくはない。
アーレントとトクヴィルの共通点はまず差異性や多様性の肯定と、画一性や多数の専制への批判にある。また絶対的真理の否定と判断力
(カントの言う、具体的個別的条件のもとに、恣意とは異なる一般性を持つ決定を行う力)の重視においても両者は共通する。



2007/02/12

日本の公共

「ここで改めて、「公共」の語の意味を考えてみよう。山本英治は次のように述べている。

「公共性とは人間の生の営みにおける共同性を前提とし、その共同関係を普遍化したものにほかならない。」

ここに言う共同関係の普遍化とは生活と生産を共同の価値のもとに営んでいくことを意味する。したがって公共性とは、
その共同の価値を根底において支える理念である。また真木悠介が言うとおり「歴史の主体-実体は「個人」でも「社会」でもなく
「つながりのある諸個人」の「相互につくり合う関係」そのもの」である。この点、わが国の状況をみると、個人の相互関係という意味ではなく、
もっぱら「公共性」は、単に公権力という意味で理解されてきたように思われる。そして我が国の歴史は国家がこうした公共性を占有し、
個人の相互関係は単なる「私」的なものとして貶められてきた。


その点を安永寿延は次のように述べる。

「日本の近代は、伝統的な公私の観念を基本的に越えることなく、いわゆる「衆の同共する所」としての「公」
性が一方的に拡大されて国家へと凝結するとともに、「私」性がもっとも一面的に縮小されて個人と癒着する。一方、
公として国家の意志を現実化する行政レベルにおいては、「公」性が天皇を最高の頂点とする、階層的な官として人格的に具象化されるとともに、
「私」性は、個人の集合体とされる民へ流しこまれる。・・・・・こうして、国家ないし官が公的原理を独占することによって、個人ないし民の
「公」性を剥奪するとともに、個人や民に対して一方的に「私」性の烙印が押される」


そしてこの「公」と「私」の関係に善悪の関係がもちこまれ、「公共」的なものは公正であり、「私」
的なものは恣意的であるとされるのである。ここに我が国独特の公共性の概念が見られる。しかし、真の意味の公共性とは、まさに、真木のいう
「相互につくり合う関係」、あるいは共同の利害関係のうちにあるのであり、アーレントの言う、
人々が相互の関係の中から紡ぎだしていくものの総体なのである。共和国の構成員は国民でなく「公民」なのであり、共和主義の国家とは、
自由な討論を通じてつくり上げていく公共的意志決定によって成り立つものである。その意味で、この公共性の概念は、
ナショナリストの主張するような民族的、共同体的な公共概念とは、遠く隔たっているといえる。アーレントが提示した、
公共性の豊穣なイメージに喚起されながら、共同体への回帰ではない、新たな公共性の空間を創造することが急務であるように思われる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)


山本英治編:「現代社会と共同社会形成」(1982年 恒内出版)

真木悠介:「現代社会の存立構造」(1982年 筑摩書房)

安永寿延:「日本における公と私」(1976年 日本経済新聞社)



アーレントとスキナーの親和性

「一方で、Q・スキナーも自由主義を評価しながらも、共和主義的概念を蘇らせることを主張する。
もしわれわれが自分たちの自由を確保し、自由の行使を不可能にするような隷属を避けたいと思うなら(これは自由主義の言う消極的自由)、
市民としての徳を陶冶し、共通善のために尽力する必要があると。つまり私的利害よりも上位にある公共善の観念は、
個人が自らの自由を享受するための必要条件であるというのである。言い換えれば、自己増殖への必然的な傾向を常にもつ政治権力は、
これに対していくら制度的、機構的制約を施しても、いつでもこれを突破する危険を内包しており、それゆえに、個人の自由を、
いかなる犠牲を払っても守ろうとする「公民」の自覚的努力なくしては、各人は自らの自由すら守ることはできないということである。「公民」
が私的自由を確保するためにこそ、「公民的徳」(civic virtue)を持ち「公的世界」に参加し、公共への奉仕を果たす
「公民の義務」(civil duty)の遂行の必要性が説かれるのである。ここにもアーレントの思想の親和性が見られる」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)


Q・スキナー:クェンティン・スキナー、Quentin Robert Duthie Skinner、1940-、
イギリスの政治学者

「マキアヴェッリ――自由の哲学者」(1981)、「自由主義に先立つ自由」(1998)



アーレントの「評議会制度」

「ここまでアーレントの共和主義の内実を検討してきたが、では彼女は具体的にどのような政治制度を構想していたのだろうか。彼女は、
アメリカ革命の革命精神を制度化するようなものとして、ジェファーソンの主張する「ウォード」(ward)
という小規模な共和国が政治の基本単位となり、それがピラミッド型に積み重なるような政治体制を構想した。この延長線上に有名な
「評議会制度」(council-system)がある。フランス革命時の「革命協会」、1871年のパリ・コミューン、1905年、
1917年のロシア革命におけるソヴィエト、1918-19年のドイツ革命におけるレーテ、
1965年のハンガリー動乱における評議会などが歴史上有名である。彼女は政党制や代議制を批判する。
政党制や議会制は代表によって成立する。しかし、「利害や福祉」は代表できるが「活動や意見」は代表できないのである。評議会制度とは、
政党制や代議制に代わるものであり、その特徴はその成立における自発性にあり、そこは市民が意見を戦わせる自由で公的な空間であった。
この評議会制度は連邦制の原理とも結びつく。」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)



2007/02/06

アーレントとトクヴィルとの相似点

ルソー的な自己の意志と一致する「一般意志」というものは、同質的で透明な社会を背景とし、単一の意志をもつ。
人民主権の名のもとに権威が人民に発し、権力が人民の名の下に行使されるがゆえに、この権力は全能であり、
しかも可視的中心を持たず匿名的である。顔のない権力は最も不気味である。
単一の社会原理が一つの社会で社会で不可侵の至上性を持つのを許す危険こそ民主主義の最大の陥穽であり、市民による具体的な、
その都度の判断力の行使が、この危険を避ける道なのである。また、複数の主体には自らを示すことのできる空間が必要とされる。
これがなければ彼らは差異を明確に認識することすらできないであろう。この点で、公的空間、政治的空間の存在、、
その確保は非常に重要である。ここにもアーレントの公的領域の復権という相似している点が見られる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)



2007/02/05

アーレントがとらえるシチズンシップ(公民権)

では共和主義的伝統のもう一つの基礎であるところの「シチズンシップ」(citizenship)
をアーレントはどのようにとらえているか。まず彼女は政治の営みが「作為的なもの」であることを強調する。つまり政治共同体の基礎を、
所与としての民族や人種というアイデンティティに置くことを拒絶するのである。人種的、
宗教的アイデンティティーは市民としてのアイデンティティーとは無関係であり、政治共同体におけるメンバーシップの基礎とはなり得ない。
共和政の市民に共有される作為的な公的空間は、人種や民族を基礎とする自然的共同体とは一致しない。同時に平等についても、
その根拠が政治体制の枠組みに先立つような自然権や自然状態にあるという理論にも賛同しない。平等とは個人が公的領域に参加し、
民主的政治機構によって保証されるシチズンシップ(公民権)を獲得してはじめて与えられるものなのである。


(中略)


ここでアーレントの主張するシチズンシップを構成するものは、「親密さ」(intimacy)や「暖かさ」(warmth)ではなく
(そのようなものは政治的に不要である)、「市民的友情」(civic friendship)と「連帯」(solidarity)である。
なぜなら、これらが政治的要求をつくり出す基礎となり、個人の世界への関係を保持するからである。むしろ「親密さ」や「暖かさ」、「信頼性」
といった共同体的感情は、市民的友情や連帯という公的価値を損なう危険さえある。ここにアーレントの共和主義が、
単なる共同体回帰を意味しないことが顕著に表れている。


この点についてM・カノヴァンは次のように分析する。アーレントの言う「公的領域」は、「社会」(society)でもなく、
「共同体」(communitu)でもない。ゲマインシャフトでもなく、ゲゼルシャフトでもない。


(中略)


そこで考えなければならないのは、公的生活の空間的性質である。人々が互いに出会い、「意見」を交換し、お互いの相違を議論し、
何らかの協同的な意思形成に到達するためには空間が必要である。

この空間の中で、様々なパースペクティブから争点が吟味され、「意見」が修正されながら、代表的意見はより豊かなものになっていく。


同時に「意見」とは暴露的性格を持つものである。すなわち「意見」を自由に開示することは、自己外化を果たすことであり、
それによりそれぞれの人間がどのような価値や目的を持って生きているかが顕在化され、相互の理解が果たされる。
各人の固有な価値や関心が暴露され、複数の人間の間に潜む葛藤や対立が露わになってはじめて、合理的な価値配分の様式と、
それを支える正統な権力とを備えた政治社会を組織しようとする共同の意思が各人のうちに形成されるのである。


(中略)


アーレントの言う政治社会は、宗教的・民族的親和力や共通の価値によって形成されるものではなく、公的空間や公的機構を共有し、
その活動に参加することによって形成される社会である。政治共同体に人々を結合させるのは、共通の価値ではなく、
彼らが共同して作り上げる世界、彼らがともに住み、市民として担う機構とその中で行う実践そのものである。


M・カノヴァンはこの点について、人と人を互いに結びつけるのは、彼らのそれぞれの中にある特質や共通の価値や信念というよりは、
彼ら自身が共通の空間を共有しているという事実そのものであると述べる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)



アーレントがとらえる自由

ではアーレントは「自由」というものをどのようにとらえているか。彼女は「自由」(freedom)と「解放」
(liberation)を区別する。「政治的自由」(political freedom)と「市民的自由」(civil
liberty)や「市民的権利」(civil right)は混同されてはならないとする。
市民的自由とは市民の私的生活を守るものであり、私的な事項に属するが、政治的自由は公共の事柄に参加する自由こそを意味する。
さらに言えば、アーレントの考える「自由」は、何か新しい事柄を産み出す能力でもある。

「政治的自由とは何かを意思する能力ではなく、私が何かをなしうるという能力なのである。」


つまり自発性と、何かを産み出す能力がアーレントの「自由」の内容である。そしてさらに重要なのは、従来の共和主義者
(自由主義的個人主義を批判し、公的意味において自由を理解する人々)でさえ、
自由をすでに設定された課題に対して集団的決定をなすことと考えるのに対し、設定された選択肢からどれかをえらぶ能力ではなく、
仲間とともに全く新しい可能性を探究する能力こそがアーレントの考える「自由」の内容である。彼女は人間の自由の中に、
奇跡を産み出すような特質を見、予測可能な出来事の連鎖を断ち切り、全く予測できない事柄をなそうとする能力の存在を強調する。
こうした集団的で、ダイナミックな活動のうちに見られるような「自由」のヴィジョンは、アメリカの開拓者精神を彷彿とさせる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原敏子)



アーレントの共和主義

従来の共和主義に対する一般的な批判は、共和主義が、言語や民族や文化を同一とした自然的共同体への回帰、
そしてその国家大への拡大であるところの全体主義へ通じる危険はないか、というものであった。とくに共和主義の主張する自由主義への批判、
行動主義、勇気や栄誉の重視、リーダシップの優先、同志愛の理想化、スパルタ的な自己犠牲の賛美などが実存主義と結びついたときに、
二十世紀の全体主義は出現したのである。


(中略)


従来の共和主義的伝統、つまり自分たちを脅かす政治的現象に屈服するのではなく、勇敢に戦うという共和主義的な伝統を支持しながらも、
それが全体主義にいきつくのを防ぐために彼女が擁護し、重視したのが、「複数性」であった。政治における活動は、孤独な英雄の行為ではなく、
仲間との間の相互行為であり、人間の個人性が最も輝くのは、戦場でのスパルタ的同志愛においてではなく、
公的領域で自らの際立ったアイデンティティーを表出することにおいてである。


(中略)


彼女は「権力」(Macht)と「暴力」(Gewalt)を区別し、次のように述べる。「暴力」は「複数性」ではなく武器に依拠する。
そして「権力」は支配の道具となるとき「暴力」となる。そのため「その本質が命令、服従の関係に依存せず、権力を支配と、
法を命令と同一視しない権力と法の概念」こそが重要となる。こうした概念を彼女はアテナイのイソノミアとローマの共和政に求める。
そこでは権力は「単に活動するのではなく、(他者と)共同して活動するという人間の能力に対応している。権力は個人が所有するものではない。
それは集団に所属しており、その集団が集団として存続するかぎりにおいてのみ存続する。」「権力は複数者の属性であり、
暴力は一者の属性である。」


アーレントによる「権力」と「暴力」の区別は、根本的には複数の主体の間における相互間な関係と、
一方の絶対的な主体性と絶対的な客体性とを前提とする一方的な支配服従関係との間の差異に由来する。逆に「権力」なき「暴力」は無力であり、
「純粋に暴力の手段にのみ依存する政府はいまだかつて存在したためしがない。」「政治的に言えば、
権力と暴力は同一ではないというだけでは不十分である。権力と暴力は対立するのである。一方が完全に支配するところでは他方は存在しない。」


こうした権力の創設の例をアーレントはアメリカ革命に見る。アメリカ革命の意義は、市民的自由の保障ではなく、
人民が新しい政治体を組織する行為としての自由の創設、つまり新しい権力システムの創設にこそあった。
それはまさに権力は人民にありという共和政の原則を体現したものであったとアーレントは考えるのである。彼らは社会契約を実践に移す。
つまり相互的、水平的な約束によって政治体をつくり出そうとした。


「権力が約束によって構成される相互契約の方は、最小限、共和政の原理と連邦制の原理をともに含んでいる。共和政の原理によれば、
権力は人民のなかにあり、その場合「相互服従」のおかげで支配は不合理なものとなる。」

事実、アメリカ革命を担った人々は共和主義思想の影響を強く受け、「政治的自由とは「統治参加者」であることの権利を意味するのであって、
そうでなければそれはなにものをも意味しない」ということをよく理解した人々であった。


ここでは「ネーション」(nation)が政治体の基礎ではなく、したがってそうした基礎としての過去と起源の同質性は不要になる。
政治体の基礎は同質性ではなく、共同で行為するという決意にある。この点は、アーレントの共和主義が、
伝統に基づく自然共同体に依拠していないことを示している。


「権力とは、人々が約束をなし、約束を守ることによって、創設行為のなかで互いに関係し結びあうことのできる世界の介在的
(in-between)空間にのみ適用される唯一の人間的属性である。そしてそれは政治領域では、
最高の人間的能力とみてさしつかえないだろう。」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)



2007/02/04

共和主義とは何か

「共和主義とは(republicanisum)というが、それはラテン語の「レス・プブリカ」(res pubulica)、
つまり公共の事柄を意味する言葉を語源とする。すなわちローマの共和制に範をとり、市民相互の共同生活を可能にするために、
市民自らが共通の事項を処理する公的領域に、積極的に参加し、公的決定に関わり、公的幸福を得ようとする考え方を示す。そこでは市民の
「自発性」が要求され、市民は単なる権利の担い手ではなく、共同の活動への参与という「共同性」の視座からとらえられる。
つまり制度をつくり運営する主体としての性格にポイントを置き、政治的能動性を持つ市民を重要視するのである。」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)



2007/02/02

現れの空間

本来世界は人間を含めた生物の複数性に基づく生活領域であり、そこには人間と人間、自然と人間との間に、
相互に主体でありながら客体であり、知覚しながら知覚されるような相互性を基盤とする共生関係が見られる。そして彼女は、「公的領域」
(public sphere)を人々が自らの独自性=人格的アイデンティティーを公的に開示する「現れの空間」(space of
apperance)と理解する。人々が自分が誰であるかを開示しうるのは、
他の人々が見聞きすることのできる具体的な言語行為の中においてであり、この「言葉」と「行為」
によって互いに差異ある存在として生きるという多数性が現実化するのである。言語行為はそれが他者によって理解され、
価値判断されて初めて成立するのであり、自己と世界のリアリティーは世界を共有する人々の相互主観的な承認に依存しているのである。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)