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2007/01/25

「老い」と「衰え」

赤ん坊だって「衰え」ることはありうるわけだし、子供だって病気になれば「衰え」ます。となると、「衰え」は老人固有のものだとは言えない。でも、老人になるとだんだん「老い」と「衰え」が同じ意味に近くなっていくんだと思います。

「死ぬ」ということばも同じです。老人だから「死ぬ」とは限らない。赤ん坊だって「死ぬ」わけだし、若い人も交通事故で「死ぬ」こともある。年齢なんて関係ないということになります。だけど、老人は「死ぬしかないよ」となると、そうかもしれないということになっちゃう。そうすると、人から「老人性うつ病」といわれる状態に陥ってしまうんです。

若いときは「老い」と「衰え」の二つのことばで語れたとしても、老人の域に達すると曖昧模糊とした形で絡み合って、本質的には分けて考えた方がいいのですが、「老い」と「衰え」がうまく分けられなくなるということですね。

(「老いの流儀」 吉本隆明 NHK出版)

老いの越え方

老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、大いなる誤解である。
老齢者は意思し、身体の行動を起こすことのあいだの「背離」が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は「超人間」なのだ。
これを洞察できないと老齢者と若者との差異はひどくなるばかりだ。老齢者は若者を人間というものを外側からしか見られない愚か者だとおもい、
若者は老齢者をよぼよぼの老衰者だとおもってあなどる。両方とも大いなる誤解である。一般社会の常識はそれですませているが、精神の「有事」
になると取り返しのつかない相互不信になる。感性が鈍化するのではなく、あまりに意志力と身体の運動性との背離が大きくなるので、
他人に告げるのも億劫になり、そのくせ想像力、空想力、妄想、思い入れなどは一層活発になる。これが老齢の大きな特徴である。
このように基本的に掴まえていれば、大きな誤解は生じない。老齢者がときどきやる感覚的なボケを老齢の本質のようにみている新聞やテレビ、
あるいはそこに出てくる医師、介護士、ボランティアなどのいうことを真に受けると、とんでもない思い違いをして、
老齢者を本当のボケに追いやることがあり得る。身体の運動性だけを考えれば、
動物のように考えと反射的行動を直結するのがいいに決まっている。

けれど老齢者は動物と最も遠い「超人間」であることを忘れないで欲しい。生涯を送るということは、
人間をもっと人間にして何かを次世代に受け継ぐことだ。それがよりよい人間になることかどうかは「個人としての個人」には判断できない。
自分のなかの「社会集団としての個人」の部分が実感として知ることができるといえる。


(「老いの超え方」 吉本隆明 朝日新聞社)



江藤淳の死

江藤淳は、なかなか「死」に際がすっきりした人だなと思いました。遺書みたいなものがありましたが、あれはいい文章だと思っています。
しかし、大江健三郎(1935~)や老人介護の専門化の三好晴樹(1950~)は、「そんなに潔いわけでもないし、
ああいう自殺は決してよくない。江藤淳と同じように脳梗塞でリハビリで苦労している人はどう思うだろうか」と否定的に捉えています。でも、
僕は太宰治の自殺以降、思い切った決断力のある文章だと思っています。江藤淳も格別書くものがなくなったとか、
行き詰まったということでもないし、奥さんに先立たれて時間のずれはあるけど、一種の心中みたいなものだという理解の仕方もあるでしょう。
ただ、僕は奥さんのことを言うなら、看病でものすごく疲れてしまった。さらに年齢から起こる前立腺炎の苦しみや脳梗塞になって、
気持ちを立て直すうちに老いてしまった。そういうことが自殺の原因ではないかと思っています。


(「老いの流儀」 吉本隆明 NHK出版)