2007/03/20

自署的芸術と代署的芸術

ネルソン・グッドマンは権威あるその著書「芸術の言語」の中で、オリジナルとコピーを見分ける問題の本質をはっきりとさせるために、
いくつかの技術的な判別基準を導入した。グッドマンはまず、1段階の芸術と2段階の芸術という区別を提案する。
鉛筆を使ったスケッチやポラロイド写真は1段階の芸術だが、音楽は作曲と演奏という2つの段階に分かれていることがよくある。画像も、
食刻法で画像を作ってから刷るエッチング、ネガを露光させ、現像してからプリントする写真、そしてまず画像をコード化し、
それから表示するデジタル画などのように、2つの段階を経て作られるものが多い。
2段階の芸術ではそれぞれの作業を別々の人間が担当することもしばしばである。たとえば、
ずっと以前に世を去った作曲家の曲をピアニストが弾くとか、すでに忘れられた人物が撮った写真を、
保存されていたネガから別の写真家がプリントするとか、作者の分からない画像ファイルを、コンピュータ・
マニアがどこか遠くのBBSから入手して表示するとかいった具合である。


さらにグッドマンは、自署的芸術(オートグラフィック)と代署的芸術(アログラフィック)という区別を立てている。
たとえば絵画は自署的芸術であるが、楽譜に記された音楽は代署的芸術である。本質的な違いは、
音楽作品が一定の体系を持つ記譜法によって規定されるのに対し、絵画はそうした体系に縛られないという点にある。
楽譜は音符の1つ1つに至るまで厳密にコピーすることが可能であり、正確でさえあればどのコピーも、
その作品の紛れもない実例だと言っていい。基本的に、グッドマンの見方は次のようなものである。ある作品が
「何らかの記号や文字を並べて連結してゆく一定の記譜法」で規定されているとすると、まさにその事実が「作品の構成要素となる特徴を、
偶然生じたにすぎない他のあらゆる特徴から区別する手段を提供する-つまり、作品構成に不可欠の特徴を固定し、
それぞれの特徴に許される変動の範囲を規定する」のである。ところが、絵画はこうした記譜法のような体系に依存しないため、
「あらゆる絵画的特徴-その絵が持っている絵としてのあらゆる特徴-は、構成要素として単独に取り出すことができない、どんな特徴にしろ、
偶然生じたものとして無視できはしないし、いかなる逸脱も無意味ではあり得ない」ということになる。
楽譜がある作品の確かな実例となるためには、別に作曲者自身が書いたものである必要はない。しかし絵画の場合は、
画家自身が実際に作り出したものでなければ、それを本物とは呼べない。もしも他人の手で作られた作品なら、それは贋作ということになる。


絵画やビデオのような自署的芸術の作品はアナログ情報から成っている。厳密な形での複製は不可能で、
コピーを繰り返すうちに必ずノイズが混入し、質が低下する。一方、代署的芸術の作品はデジタル情報からなっている。
楽譜や劇の脚本や画像ファイルは、どのコピーにもまったく差がない。ところで、2段階の芸術はしばしば代署的であるが、
必ずそうであるともいえない。たとえば、エッチングの版や写真のネガはアナログ情報からなっていて、
厳密な複製や完全に同一のプリントを作ることは不可能である。また、脚本や楽譜のように、
作品の構成要素となる特徴を厳密な形で規定しているわけでもない。


代署的芸術の作品はいくらでも実例をこしらえることができる(自署的芸術に対して実例という概念を当てはめることはできない-
自署的芸術の作品はそれぞれ独自のものであるから)。音楽作品の場合は、楽譜を忠実に追った演奏が実例である。劇の場合なら、
脚本に忠実に従った上演が実例である。そしてデジタル画像であれば、
画像ファイルに規定されている階調や色を忠実に守ったディスプレイ上の表示やプリントが実例である。同一の作品の実例どうしの間にも、
偶然生じた特徴の部分に(ときには大きな)差が見られることがある。ただし、それがどの作品の実例かを理解してもらうためには、
必須の特徴が残されていることはやはり必要である。そういうわけで、音楽を演奏したり劇を上演したりする場合、
ある程度までは自由に解釈することができる-というより、ありきたりでない斬新な解釈によって、
これまで考えつかなかった新たな次元を作品から取り出してみせてくれる手腕にこそ、高い評価が与えられる。これと同じように、
コンピュータを使って、ある作品のさまざまな解釈を機械的に生み出すこともできる。いろいろなアルゴリズムやデバイスによって、
はっきり見分けがつく実例のバリエーションを作り出すのである。


(「リコンフィギュアード・アイ」 ウィリアム・J・ミッチェル 伊藤俊二監修 福岡洋一訳 アスキー出版)