2007/03/08

不可視性としての写真 序

THE PHOTOGRAPHIC INVISIBLE

=JAMES WELLING=

不可視性としての写真

=ジェームズ・ウェリング=

清水穣

WAKO WORKS OF ART

1995年4月15日 発行


かつて写真は、我々の意識の非連続性と間欠性を教え、視覚的無意識(das Optish-Unbewuβte、ベンヤミン)
を写し出すテクノロジーであり、言い換えれば、意識には現在という時間がない事実を、1つの過去として提示する道具であった。
写真論が見損なっているか、あるいは当たり前なので殆ど触れられることのない、写真の本質は、一見実にシンプルである。それは、
写真は常に既に「何かの」写真である、ということにすぎない。


しかし、この命題を正確に理解した上で芸術としての写真を考慮すれば、写真とは表象(Representation)を持たずに、
レフェラン(Referent・指示対象)だけを持つ特殊な記号だ、というところへ至る。ドゥルーズならばシーニュと呼ぶであろう、
記号としての写真は、リアリズムともドキュメントとも関係なく、心理とも記憶とも関係がない。これが我々の出発点である。


つまり、写真は、「撮るもの」からも「撮られるもの」からも独立しているということ、この点において、
そしてレフェランという概念のもたらす眩暈と引き換えに、多くの不毛な議論は回避されるであろう。それと同時に、
読者には一見奇妙に思われるかもしれない転倒した見方がいくつか提示されるだろう。しかしそれは、
むしろこれまでの写真の理解が転倒しているか、誤った前提から出発していることを示すのである。


多くの写真論においては、本質的な写真性の問題が、いつも写真史やリアリズム、表象や引用の問題にすりかえられているように思う。
私が明確にしたいと願っていることは、その混乱がなぜ生じるかと言うこと、そして、現代のある種の写真が私を惹きつけるならば、
その惹きつけている力はどこから発しているのか、ということである。


ここで現代の写真と言う時、それは専らベッヒャー以降の写真芸術をさしている。例えば、トーマス・ルフの巨大な人物写真を前にして、
私は一種途方に暮れてしまう。その巨大さは大きさからして、それは人物の肖像写真では有り得ないが、では何なのか。


ビュスタモントの風景写真はもっと寡黙であって、そこでは凡そ風景写真にあるべき全ての美的要素が排されている為に、
作品には異様な空気感が漂っている。何も写っていないというこの衝撃、これは何なのだろうか。おそらく、後述するように、
それはもっと一般的な問題であり、芸術の記号の存在論にかかっている。


しかし写真という芸術には、独特の困難さを伴いつつ、その集中的な表現が見られるのである。


まず第1章では写真の本質が、写真とは常に何かの写真である、という上に述べた簡単な前提から出発して考察される。写真論はまず、
現象学と精神分析(写真技術の帰結とも見なせる2つの学問領域)の間に位置付けられるが、可能性と潜在性の区別、
そして構造の内在という概念において、そこから決定的に離れ、最後にその「何か」=写真のレフェランの本質規定へ至る。特に、
視野領野の構造としての「カメラ・アイ」が、いわば1つ1つのレフェランの中へ解体=解像(auflosen/resolve)
していく第Ⅳ部は、いわば、現代の写真表現の基礎となるものと望んでいる。


第2章では写真と絵画をつなぐ要素として、「表層性」と「モンタージュ」が抽出され、
それらが色彩と本質的な関係にあることが考察される。


第3章は、現代の写真表現を、特にジャン=マルク・ビュスタモントを例に論じ、1章を振り返りつつ、「写真的不可視」
の写真への顕れかた、つまり写真の現代性のありかを結論として論じる。


この小さな写真論は、ジェームズ・ウェリング論ではない。むしろ、ウェリングという、一見作風を次々と変化させながら、
写真性についての本質的理解という点では全く首尾一貫している作家の固有名を確定記述しようとするものである。従って、
以下の文中でウェリングの名前は最後に至るまで登場しないだろう。


(「不可視性としての写真」 序 清水穣 WAKO WORKS OF ART)