他者なるもの、彼岸なるものへ向かって自我、主観を投企すること。それによる絶対的他者としての、事物の世界「Die Dinge」
の出現。「けんらんたる白日の下の事物の存在」(「なぜ、植物図鑑か」24頁)。つまり中平卓馬は新即物主義を再発見しているのだ。
先に述べたように、このような絶対的他者は存在しないと言うのがベンヤミンの批判であり写真論だった。他者や世界というのは常に、
私が想定する絶対的他者や世界を無効化するものである。私を空にしていけば、あるがままの世界が立ち現れるというのではない。写真の
「リアル」とは、私と、私が想定している「あるがままの世界」の両方を消去してしまうのであり、この消去そのものなのだ。コマ落とし、
再撮影、印刷写真の写真など、写されたものが「写真」であること、ビラのような印刷写真であることを強調して倦まない「写真よさようなら」
は、「なぜ植物図鑑か」の批判の書である。世界は写真で出来ていて、世界には写真しかないという事態、だから、
何も写真以外のところへリアリティを求めなくてもよいのだという自由が、本人にも信じられないまま非常な切迫感とともに表出される。
そこでは森山大道が信じてきた「あるがままの世界」が、彼自身の写真の力によって崩壊し雲散霧散していくさま、
すなわち写真的リアリティそのものが定義されている。
(「白と黒で」 清水穣 現代思潮新社)