2007/03/20

異種の増殖

一般に、コンピュータのファイルはいつでも修正可能であるため、いくつもの異なったバージョンがたちまちのうちに生じ、
再現もなく増えていくものだ。研究者が楽譜やテクストの考証を進めるときは、いろいろな版や手稿の系統を遡ってみて、
オリジナルの決定版を突き止めようとすることが多い。しかし、画像ファイルの血統を辿ることは、普通の場合は不可能である。
その画像が今取り込まれたばかりで誰の手にも加わっていないものなのか、それとも、どこの誰とも知れない人たちの手から手へと渡るうちに、
変形につぐ変形を重ねてきたものなのか、それを判断する手がかりはどこにもないかもしれない。このため、
われわれは芸術というものについての伝統的な概念を維持しきれなくなってしまう。もはや芸術の世界は、堅固で恒久的な、
完成された作品だけのものではなく、口承の叙事詩にも似て絶えず変化し、
異種を生み出し続けるような作品の存在も認めねばならなくなってきたのだ。またそれに応じて、画像の内容に対する作者個人の責任だとか、
意味を作者が決定する権利だとか、作者の権威だとかいった概念も力を失ってきている。


さらに、画像の作り手と受け手という伝統的な区別も消滅する。たとえば科学者が、あるデジタル画像を解釈する際に、
興味をそそる特徴や関係を際立たせようとデジタル・データに対して変形操作を行ない、その結果を別の新しい画像ファイルに保存したとしよう。
このとき、データに対して与えられた1つの読みが新たな作品となるのであり、それはオリジナルのデータと同じように、
あるいはそれ以上にわれわれの注意と関心に惹くことだろう。つまり、デジタル画像に(宗教画が果たしてきたような)
儀式の道具としての役割や、(ヴァルター・ベンヤミンがその卓越した分析の中で写真や印刷された画像に与えたような)
大量消費の対象としての役割を求めるべきではない。デジタル画像は、
全地球を取り巻きつつある高速ネットワークを駆けめぐる情報の断片と見なすべきである。われわれはその断片を受け取って、それに変形を加え、
DNAのように組み替えを行ない、独自の生命力と価値を持つ、新しい知的構成物を生み出すのである(これと同じような性質が、
ワードプロセッサで扱うテクストの断片や、コンピュータ・ミュージック・システムで扱うサンプリングしたデジタル・サウンドにも見られる)。
ベンヤミンの言うように、画像の複製を機械的に作る手段によって礼拝的価値よりも展示価値の方が重視されるようになったとするなら、
デジタル画像の技術は展示価値をさらに新しい種類の使用価値-コンピュータで扱えるという「入力済み」価値-に置き換えようとしている。
デジタル情報による増殖の時代が、機械的複製の時代を過去に押しやろうとしているのだ。


(「リコンフィギュアード・アイ」 ウィリアム・J・ミッチェル 伊藤俊二監修 福岡洋一訳 アスキー出版)