Copyright ROBERT CAPA © 2001 By Cornell Capa/Magnum Photos 「この現場はシュヴァル=ブラン通りという。警察署(写真後方に大きな旗があるところ)を起点として、世界的に有名なシャルトル大聖堂まで通じる道路である。ここからわずか数メートル離れてリセ通りがあるが、そこに当時、警察の留置場があった。彼女(当時23才)はいま、両親といっしょにそこまで連行されていく最中なのである。 彼女の父親は写真右端、黒いベレー帽をかぶった人だ。その顔は -ほかの人たちと異なって-ひどく冷め切って見える。彼の右肩の後方、半分隠れるようになっている丸メガネの人が実は母親なのだが、この人も剃髪されている。父親は大きな袋を持っているが、おそらく留置中に必要な日用品が入っているのだろう。制服姿の警官がこの一家に同行している。」 (中略) 「1944年8月、暫定司法省の高官は暴力行為の行き過ぎに対して、「わが国は目下のところ、正義より自動拳銃のほうが強い」と言った。公正より力だったのである。レジスタンス・メンバーは独自の警察を組織し、刑務所や収容所を設立した。勝手に民族裁判がおこなわれ、何十万件という審判を下した。その裁決は処刑、懲役、公民権剥奪。 なかでもセンセーショナルだったのは、対独協力者とされた人たちの見せしめだった。古めかしいこの「軽蔑の儀式」の対象となったのは、大半が、ドイツ占領軍兵士との関係を噂された女性たちである。彼女たちは剃髪されたり、全裸にされたり、あるいは、タールで体にかぎ十字を書かれたりして、公衆の侮蔑と愚弄を浴びた。 密告や裏切りに対する憤激だけでなく、それまで彼女たちが得ていた特権への妬みと、道徳的・倫理的な怒りが混ざり合っていた。 「健全な国民感覚」から判断して「だらしない」とされた人たちが、さらし者になる例が多かった。 「以前にシャンパン一杯をドイツ兵に売ったことがある、というだけで剃髪された女性も何人かいました」 と回想するのは。九歳の時シャルトル解放を体験したシクス夫人である。だが、占領時代にドイツ兵にごまをすって儲けた人たちは、 大して騒がれもしなかった。この写真の女性についての、シクス夫人の確信は今に至るも揺らいでいない。 「罰せられてしかるべき人でした。ええ、あの人は処罰が軽かったのです。何人もの人たちを密告したというのに。なかには、二度と帰ってこなかった人たちも何人かいました。だからこそ、みんなに軽蔑されたのです。私たちは、あの人をああいう目にあわせて、本当にすっきりしました」 「彼女の場合、具体的な証拠は何かありましたか?」 夫人は憂鬱そうに頭を左右に振る。 「まあ、最終的にはありませんでした。私たちは周囲の人の言うことを信じたのです」 シャルトルの「恥辱の歴史」から、もう約半世紀が過ぎた。現場の道は当時は石を敷き詰めてあったが、いまはアスファルト。写真左手奥、旗が何本も掲げられている全寮制の女学校は、漆喰が塗り直された。だがそのほかは、いまもほぼこの写真どおりの光景といっていい。」 (中略) 「あの写真の女性は、十年間の追放後シャルトルの町に戻ってきた。市民から相手にされずに暮らしたあと、1966年にまだ40代半ばで亡くなった。その娘は、母を失ってのち叔母に面倒をみてもらったが、その後この町を見限ってパリへ去った。いまの彼女は、幼いころの自分の生活に暗影を投げたこの出来事について、一言も話そうともしない。解放の日は、彼女にとっては一生、呪われた日なのである。」 (「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋) |