言語を可算名詞として考え、
数えられる統一体として捉えられた言語が複数並存する状態を想定することから多言語主義の考察を始めてはならない点は、あらためて、
確認しておかなければならない。この点は、すでに多文化主義の文脈でも私が何度か論じてきた主題にかかわっており、
多文化主義や多言語主義の多数性や複数性を、単純な加算的な統一体の複数の並存と考えるや否や、
ここでいわれている多数性の持つ政治的な意義が見失われてしまうように思えるのである。と同時に、英語、フランス語、日本語といった具合に、
各々の言語を名詞として指定することができるために、世界には言語の名前の数だけの言語が存在し、
世界はこれらの言語の複合体であるかのように理解するのを避けることは非常に難しい。雑種やクレオールを賛美するのはよい。
だが雑種性を理解するときの概念の動きそのものまで干渉し、
最も卑近な文脈でも雑種性を考える仕方そのものを方法論的に絶えず検証し変更してゆかない限り、雑種やクレオールの賛美は、
政治状況が変われば、純血性の賛美へと結局回帰してしまうだろう。
「日本文化の重層性」といった修辞に現れているように、
文化や人種の同一性を強調する議論は必ずしも雑種性を拒絶してきたわけではなくむしろ雑種性を横領し同一性の力学の契機としてきたからである。
だから、雑種性を同一性に横領できないような形で考え抜くことが、多言語主義をめぐる議論ではまず初めにある課題であると私は考えている。
(「多言語主義と多数性」 酒井直樹)