2007/04/12

「写真」の事実確認性

われわれはおそらく、神話という形によるのでなければ、過去を、「歴史」を信ずることにいかんともなしがたい抵抗を感ずる。
その抵抗感を写真が初めて払拭する。これ以後、過去は現在と同じくらい確実なものとなり、印画紙に写っているものが、
手で触れられるものと同じくらい確実なものとなる。世界の歴史を画するのは、「写真の出現である-これまで言われてきたように、
映画の出現ではない。


「写真」はまさしく人類学的に新しい対象であるから、映像に関する通常の議論ではとらえられないに決まっている、
と私には思われるのだ。今日、「写真」について論ずる人々(社会学者や記号学者)のあいだでは、「写真」
の意味論的相対性を指摘するのが流行である。《現実のもの》は存在せず、ただ人為的なものがあるにすぎない
(写真はつねにコード化されている、ということを理解しない《現実主義者》は、大いに軽蔑される)。それは「慣習」であって、「自然」
ではないのだ。「写真」は世界のアナロゴン(類似物)ではない、と彼らは言う。「写真」の遠近法は、アルベルティの遠近法
(これは完全に歴史的なものである)に従っているし、対象がネガに記入されるときは、三次元の対象が二次元の像に変えられるのだから、
「写真」に写っているものは人為的につくり出されたものである、とするのだ。しかしながら、こうした議論は無益である。「写真」が類同的
(アナロジック)であることは、いっっこうに差支えないが、しかし同時に「写真」のノエマは、いささかもその類同性(アナロジー)
のうちにあるわけではない。(類同性は、「写真」が他のあらゆる種類の表象と共有する特徴にすぎない)。「写真」
とはコードのない映像である-たとえコードが読み取りの方向を変えるようなことがあっても、明らかにそうである-とかつて主張したとき、
私はすでに現実主義者の一人であったし、またいまもそうであるが、現実主義者は決して写真を現実の《コピー》と見なしているわけではない-
過去の現実から発出したものと見なしているのだ。「写真」は一つの魔術であって、技術(芸術)ではない。
写真が類同的であるかコード化されているかを問うことは、分析の正しい道ではない。重要なのは、
写真がある事実確認能力をもっているということであり、「写真」の事実確認性は対象そのものにかかわるのでなく、
時間にかかわるということである。現象学的観点から見れば、「写真」においては、確実性を証明する能力が、
表象=再現の能力を上まわっているのである。


(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)