小説の読書にともなうイメージのとぼしさは、あらゆる論者がこぞって指摘している、とサルトルは言う。仮に私がその小説に熱中していれば、心的イメージは生じない。読書のこの「稀少イメージ性」に対して、「写真」の「完全イメージ性」が対応する。それは「写真」がそれ自体すでに一個の映像であるという理由によるだけではない。その非常に特殊な映像が、自己完結したものとして与えられるからである-言葉の戯れをおこなって言うなら、それは、完全無欠な=手を触れられないものである。写真映像は充実し、満たされている。そこには何の余地もなく、何ものをもつけ加えることができない。
映画の素材は写真であるが、しかし映画のなかでは、写真はこうした自己完結性を失ってしまう(映画にとっては、これは幸いなことである)。それはなぜか? 映画では、一つの流れに巻き込まれた写真が、たえず他の画面のほうへ押し流され、引き寄せられていくからである。なるほど映画のなかにおいても、写真の指向対象は依然として存在しているが、しかしその指向対象は、横すべりし、自己の現実性を現実性を認めさせようとつとめはせず、自己のかつての存在を主張しない。それは私にとりつかない。
それは幽霊ではないのだ。映画の世界は、現実の世界と同じく、つぎのような予測によって支えられている。すなわち、《経験の流れはたえず同じ構成様式に従って過ぎ去っていくだろう》ということ。ところが「写真」は、その《構成様式》を断ち切ってしまう(
「写真」の驚きはここから来る)。「写真」には未来がないのだ(「写真」の悲壮さやメランコリーはここから来る)。「写真」には、いかなる未来志向も含まれていないが、これに対して映画は、未来志向的であり、したがっていささかもメランコリックではない(では、
映画はいったい何なのか?-それは、さしずめ人生と同じように《自然なもの》であるというほかはない)。「写真」は停止しているので、その現示作用(プレザンタシオン 現前化)は時間の流れを逆流して過去志向(レタンシオン 過去把持)にかわってしまうのだ。
以上のことは、またちがったふうに言うことができる。もう一度、「温室の写真」にもどろう。私はただ一人、写真と向かい合い、写真を眺めている。輪は閉ざされ、出口はない。私はただじっと身動きもせずに苦しむ。不毛な、残酷な、不能な状態。
私は自分の悲しみを変換することができず、自分の視線をそらすことができない。いかなる文化教養も、私が映像の自己完結性からじかにあますところもなく経験するこの苦しみについて語る助けにはならない(だからこそ、写真にはコードがあるにもかかわらず、私は写真を読むことができないのである)。「写真」には-私の言う「写真」には-文化教養は通用しないのだ。「写真」が悲痛なものであるとき、そこでは何ものも悲しみを喪に変えることができないのである。
そしてもし弁証法とは、滅びゆくものを統御し、死の否定を労働の原動力に変える思考であるとするなら、「写真」とは非弁証法的なものである。
「写真」は舞台の本性にもとる舞台であって、そこでは死を《見つめ》、考え、内面化することができない。言いかえればそれは、静止した「死」の舞台であって。「悲劇」は排除される。「写真」はあらゆる浄化作用、あらゆるカタルシスをしめ出してしまうのだ。「版画」や「絵」や「彫像」なら、確かに崇拝するだろうが、しかし写真の場合はどうか? 写真を聖務日課書にはさんでおいても(食卓に飾り、アルバムに貼っておいても)、私はいわばそれを見ないように(あるいはそれが私を見ないように)、私はいわばそれを見ないように(あるいはそれが私を見ないように)つとめ、その耐えがたい充実性を故意にはぐらかし、まさに注意を向けないことによって、それをまったく別の種類のフェティッシュに変えてしまわずにはいられない。たとえばギリシア正教の教会で、人々が目をそらせながら、冷たいガラス越しに口づけをする聖像のように。
「写真」においては、「時間」の不動化は、必ずある極端な、奇異なやり方で行われる。「時間」がせき止められてしまうのだ(「活人画」との関連がここから出てくる。「活人画」の神話的原型は「眠りの森の美女」の眠りなのである)。「写真」は《現代的》なものであり、われわれのもっとも今日的な日常生活にとけこんでいるが、そうはいっても「写真」のうちには、いわば時代遅れの謎めいた点、不思議な停滞、一時停止という観念の本質そのものが含まれているのである(スペインのアルバセート(ムルシア)地方、モンティエル村の住民たちは、新聞を読み、ラジオを聞いているにもかかわらず、一時停止した昔の時間の上にとどまって暮らしている、ということを私は何かで読んだことがあるが、それと同じである)。「写真」は、本質的には決して思い出ではない(思い出を表わす文法的表現は完了過去であろうが、これに対して「写真」の時間は、むしろ不定過去である)。それだけではなく、「写真」は思い出を妨害し、すぐに反=思い出となる。ある日、何人かの友人が子供の頃の思い出を語ってくれた。彼らには思い出があったが、しかし私は、自分の過去の写真を見たばかりだったので、もはや思い出をもたなかった。それらの写真に取り囲まれていると、《思い出のようにやさしく、ミモザの香りが部屋を満たす》というリルケの詩に慰めを見出すことはもはや不可能だった。「写真」は部屋を《満たし》はしない。香りもなければ、音楽もなく、ただこの世の常ならぬものを示すだけである。「写真」は暴力的である。それが暴力行為を写して見せるからではない。撮影の度に、強引に画面を満たすからであり、そのなかでは何ものも身を拒むことができず、姿を変えることができないからである(ときとして「写真」は心地よいと言われることがあるが、このことはその暴力性と矛盾しない。多くの人が砂糖は心地よいという。しかし私はと言えば、砂糖は暴力的だと思う)。
(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)