世の中にいじめがあるということと、それで自殺する子どもがいるということは、分けて考えなくてはなりません。
僕は、青年期以降はともかく、本来ならば子どもはそう簡単に「自殺するしかない」というほど精神的ショックを受けないと思います。
日本で年間に三万人いる自殺者のうち、九割九分までが大人でしょう。
実際、ひどいいじめを受けても、死なない子は死にません。
逆にいえば、いじめられて自殺する子どもは、育ってくる過程のなかで深く傷ついた「問題児」なのだと思います。
傷ついた親に育てられた子どもは、死を選びやすい。無意識の中で「死にたい」と思いつつ抑圧している親もいます。その、死への傾きを、
子どももまた無意識のうちに感じ取っている場合もある。
酷な言い方かもしれませんが、子どもの自殺は「親の代理死」なんです。
自殺した子どもの親の態度を見ればわかりますよ。学校がいじめ自殺を防げなかった責任をとれと、市や国に、
二千万円の損害賠償をもとめて訴訟をおこした親がいますが、何を馬鹿なことを言っているんだと思いますね、僕は。二千万円という金額は、
どういうつもりなのか。将来その子が老いた自分たちを世話してくれるはずだったのに、死んじゃったから、
その分をよこせと言っているのと同じことでしょう。
おそらく裁判には、真相究明とか、教育行政を問うとか、立派な名目がついてるんでしょうし、訴訟をおこせるのだから、
社会的なレベルでいえば相当しっかりした人たちなんだと思いますが、親と子の関係からいったら、てんでお話になってないよ、と言いたい。
彼らが、子どもをしっかり可愛がったことのない親だということは、インタビューすればすぐわかるはずです。
時代や経済状況など理由が何であるにせよ、子どもの育て方が悪かったんです。
結局、文科大臣が子どもに「命を大切にしましょう」といっても何の意味もありません。教育やいじめが親の問題から離れて、先生、行政、
それから大臣とどんどん「目上の人」が出てくるのでは、理念的にいって上手くいくわけがない。
それは子どももよくわかっています。「私は自殺します」という予告の手紙を文科大臣に送るのは、
半分は真面目に助けを求めているかもしれないけど、あと半分は、もっと騒ぎを大きくしてやれとか、大人を脅かしてやれと思っているんです。
文科大臣が真に受けて、自分が何とかできると思っているなら、お前さん、お門違いだよ、という感じですね。
(「文藝春秋」 2007年1月号 「いじめ自殺 あえて親に問う」 吉本隆明)