子どもがいじめられて自殺したり、それを予告する手紙を文科大臣に送りつけたりする事件が続いています。
さらには、いじめを見逃したと責められて校長先生が自殺したり、子どもに自殺された親が、
学校や教育委員会を裁判に訴えたりする事態まで起きた。新聞やテレビでは、毎日だれかが「いじめや自殺はやめましょう」と呼びかけています。
僕のところにも、「いじめられても、自殺するな」とか「いじめっ子にやりかえせ」とか、
子どもへのメッセージを言ってくれと新聞社がきたりしますが、他のひとが何を言おうと僕は出さないよ、と断っている。
そんなこと意味ないよ、まったくおかしいぜ、と僕は思っています。
いじめられて自殺する子も、いじめっ子も、例外なく「問題児」だと思うからです。いじめられる子は感受性が繊細で、
いじめっ子は鈍感だから乱暴なんだ、ということはありえません。どちらも同じように、心が傷ついて育った子どもです。
では、誰が子どもを傷つけたか。結局のところ、「親の育て方が悪いんだ」というしかないと思います。
「親の育て方が悪い」というのは、子どもを厳しく叱りすぎたとか、逆に冷たく放っておいたとか、親のなんらかの言動が悪い、
という意味ではありません。そうではなく、子どもが育つ過程で、親との関係性によって、傷つけられるのです。
僕の持論では、一歳までに、母親が子どもにどう接したかで、その子の人格形成の格の部分は決まります。赤ん坊は、
感覚器ができあがってくる胎児期の終わりから、授乳されている一歳くらいまでは、母親の無意識からおおきな影響を受けるものだからです。
胎児のうちは文字どおり母親と一体ですし、お乳をもらう、抱っこされて眠る、排泄の世話をしてもらう、こうした人間の基本要素が、
母親との接触のなかにあります。その時期に、母親が安定した精神状態にないと、
この世に生まれてきたことに安心感が持てないまま育つことになる。
これが、「傷ついた子ども」と僕が言う意味です。
なにも母親のせいだけではありません。ちょうどそのころ夫と仲が悪かったとか、経済的な事情でパートに出て、
両親とも子どもをかまえなかったりとか、母親を不安定にさせる状況が背後にある。あるいは、仕事をもつ女性の
「子どもの世話なんかしていたら一年間ブランクができてしまう」という焦りも、乳児の心に刷り込まれていくかもしれません。
さまざまな家庭や社会の事情が、母親を不幸にしている。親も傷ついているのです。
つまり、傷ついた親が子どもを育てるから、子どもの心も傷つく。大人になると自分の傷には無自覚なものですから、
子どもを傷つけていることに気づかないと思いますが。
「親の育て方が悪い」といっても、親だけが悪いとは言えません。悪い親だから子どもをかまわないのではない。
かまえなかった理由はそれぞれにあるし、それは仕方がない。
子どもにとって「親は宿命」なんです。
乳幼児期が人間にとって決定的だということは、文学者の例を見てもわかります。夏目漱石、太宰治、三島由紀夫、
彼らはみな実母から引き離され、惨憺たる乳幼児期を送っています。それを乗り越えるために狂気と独創を獲得し、あるいは刻苦勉励して、
いい芸術家になったわけです。
でもそれで報われたのかどうかは、本人にしかわからない。とくに太宰や三島さんは、「傷ついた子ども」のまま、
自殺したように思えてなりません。
(「文藝春秋」 2007年1月号 「いじめ自殺 あえて親に問う」 吉本隆明)