ここから抜け落ちているのは「標準英語」
を習得できないとされる黒人の児童が彼ら以外の人々とどのようなあらたな社会関係を作ってゆくのか、あるいは、「標準英語」
を身に付けていると考えている「典型的国民」が如何にしてこうした黒人とあらたな関係を刻印できるか、といった、
より実践に結び付いた問いなのである。アメリカ合衆国に現存する社会条件を考えれば、いわゆる個人の児童が「標準英語」
を習得できるかどうかという問いは、将来彼らが飢えずに生きられるかという問いに結び付いている。飢えの問題は共役性の問題である。
敷衍して考えれば、ここで問われているのは、非共役性が予想される場面で、ひとは、
いかにして非共役性を超えるための実践を企画できるのか、なのである。まず、相手が何を言っているのか分からない。
どうやって相手に自分のやりたいこと伝えたいことを分からせたら良いのか分からない、という事態があり、
その説明として多言語状況が持ち出されてくるのであって、非共役性の状況へのこうした政治的な感覚を持たないとき、
多言語主義は欺瞞的なヒューマニズムの談義に終始するか、均質なコミュニケーションの保証された「われわれ」
を前提する国語主義への回帰に終わるだろう。そして、まず最初に出会わなければならないのは、
そのようなコミュニケーションの保証のない状況において、人は何をするかという、問題であろう。多言語主義は、なによりもまず、
実践としての社会関係に関する問いとして現出せざるをえない。
非共役性の状況で、まず私たちが行わなければならないのは、そのように共通の基盤に立たない人あるいは人々に向かって、
語りかけること、あるいは、接近し何らかの交流の意思を差し示すことであろう。それは呼びかけであり、
他者に向かって自分の意図を届けるための一定の構えを採ることである。それは自らの発話に宛名(アドレス)
を記入することであると同時に一定の他者に向かってあるいは一定の他者を目指して自からを提示することである。
(「多言語主義と多数性」 酒井直樹)