「写真」の場合、事物が(過去のある瞬間に)現存したという表現は、決して隠喩ではない。生物に関して言えば、
それが生きていたという表現もまた、決して隠喩ではない。ただし、死体を写した場合は別である。というよりも、その場合、
写真が恐ろしいものとなるのは、いわば死体が死体として生きている、ということを写真が証明するからである。つまりそれは、
死んでしまったものの生きている映像なのである。それというのも、写真の不動状態は、いわば「現実のもの」と「生きているもの」
という二つの観念の倒錯的な混同から生じた結果だからである。対象が現実のものであったということを保証することによって、写真はひそかに、
対象が生きているものであると思い込ませるのだが、その原因はわれわれの錯覚にある。われわれはとかく「現実のもの」に、絶対的にすぐれた、
いわば永遠の価値を与えてしまうのだ。しかしまた写真は、その現実のものを過去へ押しやる(《それは=かつて=あった》)ことによって、
それがすでに死んでしまっているということを暗示する。それゆえ、「写真」のたぐいない特徴(そのノエマ)は、
誰かが血肉をそなえた指向対象、あるいは個人としての指向対象を目撃したという点にある(たとえ指向対象が事物であってもそうである)、
と言った方がよいのだ。それに「写真」は、歴史的にも「個人」を対象とする技術=芸術として始まり、個人の身元確認や、市民生活や、
身体に関するわたくしごと(quant-a-soi)とでも呼べるもの-この表現がもつあらゆる意味(自分に関すること、気取り、構え、
取り澄ました態度など)をそこに含めて-にかかわりをもっていた。
(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)