クンデラの存在がフランスで知られるようになった70年代前半は、いわゆる〈東側の反体制作家〉が脚光を浴びた時期だった。
本人の度重なる否定と抗議にもかかわらず、クンデラもまたそのグループに一括され、「チェコのソルジェニーツィン」などと呼ばれていた。
だがクンデラには、ソルジェニーツィンとは決定的に異なる不利な条件があった。言語の問題である。
国外に何千万ものロシア語人口がいるソルジェニーツィンには、
ソ連を追放されアメリカに亡命しても使用言語を代える必要などなかったのにたいして、人口千五百万程度のチェコ国内で発禁であり、
しかも国外にはその小国の「奇妙な言葉」を解する人々はごく少数しかいない。そこで、フランスに亡命直後の彼にとって、
翻訳が死活的な重要性をもってきた。しかもふたつの次元と射程において。
そのひとつは同国の読者ではなく、とりあえず異国の読者を念頭に置いて書かざるをえなくなることだ。まず彼は、外国語、
異文化に翻訳可能なことしか書けなくなる。つまり自己の文学を「国民という小コンテクスト」を越えた、
より大きなコンテクストのなかに位置づけることが不可欠になるのだ。彼はそれを、「西欧」と「東欧」しか認めない当時の政治・
イデオロギー的観点では現実に存在しない「中欧」に、すなわちカフカ、ムージル、ヘルマン・ブロッホ、ゴンブローヴィッチらが形成する
「中欧の文化的コンテクスト」に置こうとした。偶然というべきか、必然というべきか、カフカを除く他の小説家たちはいずれも亡命経験をもち、
しかもカフカをふくめて全員が〈一国家=一国民=一言語〉という近代国民国家の原理に違反する作家たちであった。彼は長い模索の果てに、
『笑いと忘却の書』によって、同じテクストのなかに物語、自伝、哲学的なエッセーといった複数のジャンルを共存させ、
それに超国民的な言語である音楽の様式(変奏曲形式)によって統一性をあたえるという独特の小説作法を開始してみせた。
伝統的なジャンルの境界を越えるこのような小説の語りを、彼はムージルやブロックとの時代を超えた対話から学び、
それをみずからの音楽的経験の土壌のうえに移植、育成し、『存在の耐えられない軽さ』を経て『不滅』に至ってほぼ完成させたのである。
私たちは『笑いと忘却の書』『存在の耐えられない軽さ』『不滅』の三つの小説を読むことにより、国境を越えることがまた、
いかに異なるジャンル、表現形式、地理的・歴史的空間、さらには(たとえば夢と現実といった)諸々の生の領域を越え、
自由に往来する可能性を開示するものか、きわめて具体的かつ感動的に体験することができるだろう。クンデラが亡命という「状況の不利」を
「自分の全力、芸術家としてのあらゆる策術を動員して切り札」に変えた、これがその一例である。おそらく、
この間の事情にもっとも見事に説明してくれるのが、アメリカに移住したパレスチナ人批評家のエドワード・サイードかもしれない。
たぶんクンデラは知らないが、サイードはこう言っている。
「亡命者になれば、これからはずーっと周辺的な存在である。亡命知識人の場合はあらかじめ決められた道をたどることができないため、
自分でおこなうことすべてを、ゼロからはじめねばならない。このような運命でも、それを喪失とか悲嘆すべきものとして受けとめるのではなく、
一種の自由として、あるいは発見のプロセスとして受けとめ、さまざまな関心事に心が誘われるまま、また特定の目標を自分で設定しながら、
自分のペースですすむことになれば、不幸な運命が転じて、唯一無二の喜びとなることうけあいである」
翻訳をめぐってクンデラが遭遇した第二の問題はもっと基本的というか、ある意味ではもっと深刻な問題である。『笑いと忘却の書』
発売後、哲学者アラン・フィンケルクロートに「『冗談』の華麗でバロック的な文体がこの作品では簡素で清澄な文体になっていますが、
どうしてこのような変化が生じたのですか」と尋ねられ、「華麗でバロック的な文体」などで書いた覚えがまったくないクンデラは驚く。そして、
フランス語訳の自作をはじめて読んでみて、その小説が「翻訳されたのではなく、書き直されていた」という「笑い」も「忘却」
もできない事実を確認して深刻な衝撃をうける。してみれば、自分がフランス、西欧でそれなりに評価されたのはこんな誤訳、
誤解に基づいてなのだろうか、と彼が考えたとしても無理はない。まして、
感性的にも審美的にもソルジェニーツィンは復古主義者でクンデラはモダニストと、それだけをとってもまったく対極にあるはずなのに、
フランスでは「チェコのソルジェニーツィン」というレッテルは80年代になっても依然として彼から外されたわけではなかった。
彼は歴史的に西欧のエゴイズムの犠牲になった小国の、そのまた犠牲者として、いくらかの後ろめたさを伴った同情とともに称賛され、
望外の敬意を払われながらも、その称賛、敬意に必ずしも居心地のよさだけを覚えるわけにはゆかなくなった。いやむしろ、
称賛されればされるほど、敬意を払われれば払われるほど、それだけますますその称賛と敬意の真実性を疑わざるをえなくなってくる。
そこで80年代の彼は、自作の小説のイデオロギー・政治中心主義的解釈に反駁して、その審美的意図、
実存的意味を擁護する発言を繰り返すとともに。「作品を書くより、書いた作品の翻訳を見直し、改訳する活動により多くの時間を費やす」
ことで、そんな不当で、傲慢なまでの誤解、誤訳からみずからのアイデンティティを奪還しようとせざるをえなかった。
(「亡命文学と言語の問題」 西永良成)