「暴力はいけません」というモラルなら、だれでもいえるし、実際、あふれています。ブッシュ大統領だって、
核武装を唱える日本の政治家だってそういうはずです。むしろ、「暴力はいけません」といいながら、「だから暴力には暴力を」と、
より大きな暴力の配備を正当化しているのがこうした人たちなのでしょう。「暴力はいけません」という言表は、
決して人の暴力に対する許しがたさの感覚を養っていることを狙ったものではないとおもうのです。そもそもこの言表は逆説をはらんでいます。
暴力はいけない、だから暴力を憎むのだ、暴力をふるう者を憎むのだ、暴力をふるう者に暴力を-このような言表の連鎖を、「暴力はいけません」
という言表は決して排除するものではない。
しかもしばしば(とりわけ今では)、「暴力をふるう者」は「暴力をふるいそうな者」へと広がっていき、
現実的には暴力が生じていないところに暴力が生じそうだからという理由で暴力が振るわれるという奇妙な事態が生じてくる。そこでは現実には、
この「暴力はいけません」と叫びながら振るわれる凄まじい暴力しか存在しない、ということもありえます。つまり、このようなモラルは、
好戦的な、しばしば残忍ですらある暴力を退ける要素をはらんでいるわけでは決してない。むしろそれは濃密にはらむことさえあるのです。
いま流通するようなかたちでこのようなお説教的な言表がもくろんでいることは、
この世界に満ちているさまざまな力を感受し腑分けする能力をつぶすことです。そのことによって、
人は暴力に対する感覚を摩耗されているのです。
(『暴力の哲学』 酒井隆史 河出書房新社 P10-P11)