しかし、「中華料理のテーマパーク」に至った原因はこれだけではない。実は、それよりも深い根があることも見落とすことができない。
それは、日本の対中国人政策ともいえる歴史に見ることができる。
すでに触れたように、海港当初、外国人の生活、商業活動は居留地に限られていた。
今では同じマンション内や隣に外国人が住んでいることは、珍しいことではなくなってきたが、一世紀前の日本では、日本人が住む「内地」
を外国人にも開放するか否かは大きな議論を呼ぶ問題であった。なかでも、隣国であり、
廉価な労働力を提供する中国人の内地雑居を許可するか否かという問題は論争の焦点となった。
1899年、欧米諸国との改正条約により外国人居留地が撤廃され、外国人が日本人と同じように、どこにでも生活し、
商業活動を行うことができる「内地雑居」が実現する。その際、「勅令352号」が内地雑居する外国人の管理規則として公示された。
文面上では明らかに記してはいないが、これは事実上、中国人を対象としたものと見られている。この勅令は、
中国人の旧居留地以外での居住や経済活動を制限し、また中国からの未熟練労働者の流入を困難にした。これにより、日本に進出する中国人は、
貿易商か「三巴刀(洋服の鋏、理髪店の剃刀、コックの包丁)」の職業に就くという特徴が生み出されたのであった。
日本において職業制限されていた中国人たちは、限られていた選択肢のなかで生活を営む方法を模索せんばならなかった。また、
関東大震災や1937年の日中戦争などにより、貿易商は商売を続けていくことが困難となった。そのため、貿易商たちのなかには職業替えをし、
コックとして修行をして、料理店を始める者が多かった。
「三巴刀」の職業である、テーラー、理髪師、料理人の職業を比較すれば容易に想像することができるだろうが、
洋服を仕立てるのは年に数着、そして髪を切るのも月に一回程度、しかし食事は一日に三食と、人々の生活において最も需要が高い職業であった。
もちろん、客は毎日外食をするわけではないので、一日三食というのは言い過ぎだが、職業を選ぶ側の立場に立って見ても、飲食業は、
理髪やテーラーに比べ魅力的であった。なぜなら、飲食業は、商売をしながら子供の食事の面倒を見ることができたからである。また、
子供達も皿洗いなど家業の手伝いをすることは他の職業にくらべ比較的容易であった。移民は家族経営を始めることが多いが、
職業選びにもこうした点が考慮されている。また、既製品が大量生産されるようになると、テーラーから転職し、中華料理に従事する華僑・
華人がますます増えていったのである。
(『現代思想』 2007年6月号 「危機を機会に変える街 チャイナタウン」 陳天璽 P86-87)