2008/02/13

投げ纏頭の禁止

風紀を正す改革のもと、力士の芸人根性は真っ先に槍玉に挙げられた。

投げ纏頭(なげはな、投げ祝儀、投げ花とも書く)は芸人根性の最たる象徴であった。国技館開館直前頃の投げ纏頭の実態についてまず述べることにする。

贔屓にしている力士が勝ったら、祝い金を贈ろうと目論んでいた人は、その力士の方に軍配が上がると、土俵に向けて自分の帽子や羽織を投げ込んだ。力士はそれを拾い上げ、支度部屋に持ち帰った。当の贔屓は帰りに支度部屋の力士を訪ね、その物と交換にお金を与えた。稀であるが、投げ込まれた物を付け人がすぐに好角家のところに持って行き、それと交換にお金を貰うこともあった。

このような現金贈与が投げ纏頭と呼ばれるものであった。投げ込んだ物が山のようになることも稀ではなかった。

投げ纏頭は国技館開館の場所から禁止された。実は、禁止令は開館以前の数場所前からすでに出されていた。しかし、守られていなかったのだ。だから、開館を機に禁止が徹底されたというのが実情である。

(中略)

投げ纏頭を拾う力士には、投げ銭を拾う大道芸人を連想させるものがあり、このため投げ纏頭が禁止となったのだろう。

(中略)

投げ纏頭で力士が貰う金額のデータはその性格上乏しいが、わずかながら次のようなものがある。元大関荒岩の花篭年寄は現役時代に自信が貰ったときの話として、横綱常陸山に勝ったとき五、六百円貰ったと語っている(東京日日新聞 明治四十四年六月十一日)。また同紙で、海山が常陸山を敗ったときは三千円位になっただろうと、関脇伊勢ノ濱が語っている。

こういう話の常として、貰った最高の金額が引き合いに出されていると見てよいが、関取が貰う本場所興業での報酬(歩方金と給金)が横綱の常陸山でさえ二百円足らずだったことを考えると、投げ纏頭の金額が大金だったことは確かだ。

投げ纏頭を貰った力士は普通、それを全部弟子たちに与えた。当の力士には贔屓よりお座敷が掛かり、お座敷がいくつも重なったときは、祝儀が五、六百円から千円にもなったという。こんな祝儀があったから投げ纏頭の金を惜しみなく弟子に与えることができた。この祝儀は国技館開館後も無くならなかった。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)