2008/02/12

相撲が唯一の国技に

国技なる言葉が初めて使用されたのは、江戸時代の化政期に、隆盛した囲碁に対して使用された時であったという。明治時代に入ってからの使用は、「国技館」が初めてだった。

「国技館」は響きのよい名称と受けとめられ、各地に国技館が開館するに及び、「相撲は国技」の認識が出始め、これを一歩進めた「相撲が唯一の国技」の認識も出てきた。

このようになった大本の原因は、皇室との深い関わりを国技の条件としたことにあったわけだが、このような関わりを持っていたのは相撲だけというわけでもなく、剣道もそうだった。

当時の皇室は剣道(撃剣と鎗術から成る)を重視し明治政府が明治十五年に官吏に文武を学ばせるために設立し、その後、皇宮警察の武術鍛錬場となった皇居内の済寧館(さいねいかん)で、、剣道の鍛錬を日常的に行っていた。明治四十五年五月一日には同所で、百四十組の試合から成る大々的な剣道台覧が開催されたこともあった。

この関わりは、相撲の千年も前の関わりと違って、現行の関わりであるから、剣道こそ第一の国技としてもよかったのである。しかし、この認識はまったくといってよいほど広まらなかった。原因が「相撲が唯一の国技」の認識の浸透にあったことは言うまでもない。

昭和九年五月四、五日の両日、済寧館で皇太子ご誕生奉祝の「展覧武道大会」が開催され、各府県から選抜された百二名の選手による剣道と柔道の試合が行われたが、この大会名が示すように、この頃すでに、武道と言えば剣道と柔道を指すようになっていた。明治時代は武道の範疇に入っていた相撲が武道から外されたのである。

相撲と同じく、剣道と柔道の殿堂を作りたいと考えた国会議員剣道連盟と同柔道連盟の働きかけにより、昭和三十九年、国会近くにその殿堂が完成した。そして、日本武道館と命名された。当然の館名だった。

相撲が武道から除外されたことは、相撲が唯一の国技とされて剣道や柔道より一段高い位置づけになったことによる、とも見ることができる。

同類のものが各国に発生した相撲と違って、日本にだけ発生した柔道はいまや世界的に普及してオリンピック種目にもなったが、この柔道に対して当然、日本の国技という声が出てもよさそうである。しかし、出ない。この背景は、「相撲が唯一の国技」の認識の定着だろう。このような結果をもたらした国技館なる名称は傑作であったといえる。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)