2007/04/12
「明るい部屋」 停滞
映画の素材は写真であるが、しかし映画のなかでは、写真はこうした自己完結性を失ってしまう(映画にとっては、これは幸いなことである)。それはなぜか? 映画では、一つの流れに巻き込まれた写真が、たえず他の画面のほうへ押し流され、引き寄せられていくからである。なるほど映画のなかにおいても、写真の指向対象は依然として存在しているが、しかしその指向対象は、横すべりし、自己の現実性を現実性を認めさせようとつとめはせず、自己のかつての存在を主張しない。それは私にとりつかない。
それは幽霊ではないのだ。映画の世界は、現実の世界と同じく、つぎのような予測によって支えられている。すなわち、《経験の流れはたえず同じ構成様式に従って過ぎ去っていくだろう》ということ。ところが「写真」は、その《構成様式》を断ち切ってしまう(
「写真」の驚きはここから来る)。「写真」には未来がないのだ(「写真」の悲壮さやメランコリーはここから来る)。「写真」には、いかなる未来志向も含まれていないが、これに対して映画は、未来志向的であり、したがっていささかもメランコリックではない(では、
映画はいったい何なのか?-それは、さしずめ人生と同じように《自然なもの》であるというほかはない)。「写真」は停止しているので、その現示作用(プレザンタシオン 現前化)は時間の流れを逆流して過去志向(レタンシオン 過去把持)にかわってしまうのだ。
以上のことは、またちがったふうに言うことができる。もう一度、「温室の写真」にもどろう。私はただ一人、写真と向かい合い、写真を眺めている。輪は閉ざされ、出口はない。私はただじっと身動きもせずに苦しむ。不毛な、残酷な、不能な状態。
私は自分の悲しみを変換することができず、自分の視線をそらすことができない。いかなる文化教養も、私が映像の自己完結性からじかにあますところもなく経験するこの苦しみについて語る助けにはならない(だからこそ、写真にはコードがあるにもかかわらず、私は写真を読むことができないのである)。「写真」には-私の言う「写真」には-文化教養は通用しないのだ。「写真」が悲痛なものであるとき、そこでは何ものも悲しみを喪に変えることができないのである。
そしてもし弁証法とは、滅びゆくものを統御し、死の否定を労働の原動力に変える思考であるとするなら、「写真」とは非弁証法的なものである。
「写真」は舞台の本性にもとる舞台であって、そこでは死を《見つめ》、考え、内面化することができない。言いかえればそれは、静止した「死」の舞台であって。「悲劇」は排除される。「写真」はあらゆる浄化作用、あらゆるカタルシスをしめ出してしまうのだ。「版画」や「絵」や「彫像」なら、確かに崇拝するだろうが、しかし写真の場合はどうか? 写真を聖務日課書にはさんでおいても(食卓に飾り、アルバムに貼っておいても)、私はいわばそれを見ないように(あるいはそれが私を見ないように)、私はいわばそれを見ないように(あるいはそれが私を見ないように)つとめ、その耐えがたい充実性を故意にはぐらかし、まさに注意を向けないことによって、それをまったく別の種類のフェティッシュに変えてしまわずにはいられない。たとえばギリシア正教の教会で、人々が目をそらせながら、冷たいガラス越しに口づけをする聖像のように。
「写真」においては、「時間」の不動化は、必ずある極端な、奇異なやり方で行われる。「時間」がせき止められてしまうのだ(「活人画」との関連がここから出てくる。「活人画」の神話的原型は「眠りの森の美女」の眠りなのである)。「写真」は《現代的》なものであり、われわれのもっとも今日的な日常生活にとけこんでいるが、そうはいっても「写真」のうちには、いわば時代遅れの謎めいた点、不思議な停滞、一時停止という観念の本質そのものが含まれているのである(スペインのアルバセート(ムルシア)地方、モンティエル村の住民たちは、新聞を読み、ラジオを聞いているにもかかわらず、一時停止した昔の時間の上にとどまって暮らしている、ということを私は何かで読んだことがあるが、それと同じである)。「写真」は、本質的には決して思い出ではない(思い出を表わす文法的表現は完了過去であろうが、これに対して「写真」の時間は、むしろ不定過去である)。それだけではなく、「写真」は思い出を妨害し、すぐに反=思い出となる。ある日、何人かの友人が子供の頃の思い出を語ってくれた。彼らには思い出があったが、しかし私は、自分の過去の写真を見たばかりだったので、もはや思い出をもたなかった。それらの写真に取り囲まれていると、《思い出のようにやさしく、ミモザの香りが部屋を満たす》というリルケの詩に慰めを見出すことはもはや不可能だった。「写真」は部屋を《満たし》はしない。香りもなければ、音楽もなく、ただこの世の常ならぬものを示すだけである。「写真」は暴力的である。それが暴力行為を写して見せるからではない。撮影の度に、強引に画面を満たすからであり、そのなかでは何ものも身を拒むことができず、姿を変えることができないからである(ときとして「写真」は心地よいと言われることがあるが、このことはその暴力性と矛盾しない。多くの人が砂糖は心地よいという。しかし私はと言えば、砂糖は暴力的だと思う)。
(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)
「写真」の事実確認性
われわれはおそらく、神話という形によるのでなければ、過去を、「歴史」を信ずることにいかんともなしがたい抵抗を感ずる。
その抵抗感を写真が初めて払拭する。これ以後、過去は現在と同じくらい確実なものとなり、印画紙に写っているものが、
手で触れられるものと同じくらい確実なものとなる。世界の歴史を画するのは、「写真の出現である-これまで言われてきたように、
映画の出現ではない。
「写真」はまさしく人類学的に新しい対象であるから、映像に関する通常の議論ではとらえられないに決まっている、
と私には思われるのだ。今日、「写真」について論ずる人々(社会学者や記号学者)のあいだでは、「写真」
の意味論的相対性を指摘するのが流行である。《現実のもの》は存在せず、ただ人為的なものがあるにすぎない
(写真はつねにコード化されている、ということを理解しない《現実主義者》は、大いに軽蔑される)。それは「慣習」であって、「自然」
ではないのだ。「写真」は世界のアナロゴン(類似物)ではない、と彼らは言う。「写真」の遠近法は、アルベルティの遠近法
(これは完全に歴史的なものである)に従っているし、対象がネガに記入されるときは、三次元の対象が二次元の像に変えられるのだから、
「写真」に写っているものは人為的につくり出されたものである、とするのだ。しかしながら、こうした議論は無益である。「写真」が類同的
(アナロジック)であることは、いっっこうに差支えないが、しかし同時に「写真」のノエマは、いささかもその類同性(アナロジー)
のうちにあるわけではない。(類同性は、「写真」が他のあらゆる種類の表象と共有する特徴にすぎない)。「写真」
とはコードのない映像である-たとえコードが読み取りの方向を変えるようなことがあっても、明らかにそうである-とかつて主張したとき、
私はすでに現実主義者の一人であったし、またいまもそうであるが、現実主義者は決して写真を現実の《コピー》と見なしているわけではない-
過去の現実から発出したものと見なしているのだ。「写真」は一つの魔術であって、技術(芸術)ではない。
写真が類同的であるかコード化されているかを問うことは、分析の正しい道ではない。重要なのは、
写真がある事実確認能力をもっているということであり、「写真」の事実確認性は対象そのものにかかわるのでなく、
時間にかかわるということである。現象学的観点から見れば、「写真」においては、確実性を証明する能力が、
表象=再現の能力を上まわっているのである。
(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)
2007/04/11
「写真」のたぐいない特徴
「写真」の場合、事物が(過去のある瞬間に)現存したという表現は、決して隠喩ではない。生物に関して言えば、
それが生きていたという表現もまた、決して隠喩ではない。ただし、死体を写した場合は別である。というよりも、その場合、
写真が恐ろしいものとなるのは、いわば死体が死体として生きている、ということを写真が証明するからである。つまりそれは、
死んでしまったものの生きている映像なのである。それというのも、写真の不動状態は、いわば「現実のもの」と「生きているもの」
という二つの観念の倒錯的な混同から生じた結果だからである。対象が現実のものであったということを保証することによって、写真はひそかに、
対象が生きているものであると思い込ませるのだが、その原因はわれわれの錯覚にある。われわれはとかく「現実のもの」に、絶対的にすぐれた、
いわば永遠の価値を与えてしまうのだ。しかしまた写真は、その現実のものを過去へ押しやる(《それは=かつて=あった》)ことによって、
それがすでに死んでしまっているということを暗示する。それゆえ、「写真」のたぐいない特徴(そのノエマ)は、
誰かが血肉をそなえた指向対象、あるいは個人としての指向対象を目撃したという点にある(たとえ指向対象が事物であってもそうである)、
と言った方がよいのだ。それに「写真」は、歴史的にも「個人」を対象とする技術=芸術として始まり、個人の身元確認や、市民生活や、
身体に関するわたくしごと(quant-a-soi)とでも呼べるもの-この表現がもつあらゆる意味(自分に関すること、気取り、構え、
取り澄ました態度など)をそこに含めて-にかかわりをもっていた。
(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)
しぼり出された像
なにしろ、愛する人の肉体が、ある貴金属、つまり銀(記念するためのものであり豪奢なものでもある)を媒介として不滅のものとなるのである。しかもその金属は、「錬金術」が扱うあらゆる金属と同じように、生きている、という考えが、さらにそこにつけ加えられることであろう。
(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)
2007/04/10
《それはかつてあった》
最初に、方法について述べると称して気軽に指摘しておいたこと、つまり、あらゆる写真はその指向対象(被写体)
に対していわば共同自然的であるということが、ふたたび、いや新たにと言うべきか、映像の真実性を通して言えるということを私は発見した。
それゆえ、いまや二つの声を混ぜ合わせてみることに同意しなければならない。つまり、平凡な事実の声
(誰もが見て知っていることを述べること)と、特異な事実の声(その平凡な事実を、私だけのものである感動の力をつくして離礁させること)
である。それはあたかも、不定法をもたず、一つの時制と一つの除法においてしか変化しない、ある動詞の本性を探し求めるのに似ていた。
私はまず、「写真」の「指向対象」が、他の表象=再現の体系のそれと、いかなる点で異なっているのかを正確に理解し、したがって、
できうべくんばその点を(たとえそれが単純な事柄であっても)正確に述べるようにしなければならない。私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、
ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、
必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。絵画の場合は、
実際に見たことがなくても、現実をよそおうことができる。言説は記号を組み合わせたものであり、
それらの記号はなるほど指向対象をもっているが、しかしその指向対象は、たいていの場合、《空想されたもの》でありうるし、
また事実そうである。絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。
そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の指定がある。そしてこのような制約はただ「写真」
にとってしか存在しないのだから、これを還元することによって、「写真」の本質そのもの、「写真」のノエマと見なさなければならない。
私がある一枚の写真を通して志向するもの(映画についてはまだ語らないでおこう)、それは「芸術」でも「コミュニケーション」でもなく、
「指向作用」であって、これが「写真」の基礎となる秩序なのである。
それゆえ、「写真」のノエマは名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」
である。ラテン語で言えば、それはおそらく《interfuit》ということになろう
(ラテン語を使えばさまざまなニュアンスが明らかになるのだから、これは必要なペダンティスムというものである)。つまり、
いま私が見ているものは、無限の彼方と主体(撮影者または観客)とのあいだに拡がるその場所に、そこに見出された。
それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた、がしかし、
すでによそに移され相違している。intersumという動詞には、まさにそうした意味がすべて含まれているのである。
写真の日常的な氾濫と、写真が呼び起こしているように思われるさまざまな形の関心のため、《それは=かつて=あった》というノエマは、
抑圧されることはない(ノエマは抑圧されえない)としても、わかりきった特徴として無関心に生きられるおそれがある。「温室の写真」は、
まさにそうした無関心から私の目を覚まさせたところであった。普通は事物の存在を確認したのち、それが《真実である》と言うはずであるから、
私の場合は逆説的な順序に従ったということになるが、私はある新しい経験、強度というもの経験の結果、映像の真実性から、
その映像の起源にあるものの現実性を引き出したのだ。私は独特な感動のうちに真実と現実とを融合させたのであって、いまや私は、そこにこそ
「写真」の本性-精髄があるとしたのである。なぜなら、絵に描かれた肖像は、いかに《真実》に見えようとも、どれ一つとして、
その指向対象が現実に存在したという事実を私に強制しえないからである。
(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)
コジェーヴとシュトラウス
コジェーヴとシュトラウスが一致するのは、古代の哲学と近代の「知恵」のどちらを選択するかで、
われわれの政治的生活のありかたが大いに深刻な影響を受けるという点であった。かれらがこの問題を議論しはじめたのは30年代であったが、
かれらの論争の焦点がさだまるのは戦後になってから、すなわちコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』と、クセノフォンの対話篇『ヒエロン』
の英訳および詳解であるシュトラウスの『僭主政治論』が出版されたのちのことである。1948年初版のシュトラウスの小著は、一見すると、
ある忘れ去られた作品にかんする学識に富んだ研究以上のものではないようにみえる。しかしコジェーブは、
それが二人の以前の論争と二十世紀ヨーロッパの政治的経験に関係があることをたちどころに理解して、フランス語で長文の書評を書いた。
シュトラウスにとってこの経験にかんするもっとも衝撃的な事実は、新しい僭主政治が誕生したことではなかった-
僭主政治は政治生命と同じだけ古い問題だからである。
むしろかくも多くの哲学者たちと知識人たちがこれらの経験をありのままにみとめることをしなかったことが衝撃なのである。『ヒエロン』
の教えとは、シュトラウスの読み方によれば、哲学は僭主政治の危険に、すなわち節度ある政治と哲学的生活のどちらにも脅威となる僭主政治に、
注意を怠ってはならないということである。哲学は哲学そのものの自律性を擁護するのに十分なだけ政治について理解しなければならないが、
哲学が哲学自身の光に照らして政治的世界をいかようにも造形できると考える誤りに陥ってはならない。哲学と政治のあいだの緊張は、
たとえ政治が最悪の僭主政治的形態をとった場合でも処理することは可能だが、緊張がなくなってしまうことは断じてないのだ。
それゆえこの緊張は、哲学者たちすべての主要な関心事でありつづけねばならない。そこから逃れようとして、楽園に引きこもったり、
反対におのが心を政治的な権威に譲りわたすどんな試みも、かならずや哲学的反省の終焉を意味するのである。
書評でコジェーヴは、シュトラウスそのひともある先入見の犠牲者ではないかといって反論する。
僭主政治に向けられたこの古代の先入見は、近代の僭主政治(コジェーヴが念頭においているのはソヴィエト連邦である)が歴史の仕事を促進し、
よりよき未来への道を準備することもある、という点がわからないのだ。しかし、さらに深いところでコジェーヴが非難するのは、
永遠に真なるもの、美しきもの、善きものを探求する個人の私心なき反省という、古代的な、
そして幻想の哲学概念にシュトラウスが固執していることである。そのような永遠の観念などありはしないこと、
あらゆる観念は人間の闘争の歴史からはじめて生起するということ、ひとたびそれを理解した近代の哲学者たちは、歴史に能動的に関与して、
現在のうちに潜在している未来の真理を実現させねばならないことを理解した。それゆえ哲学者と僭主は、
歴史の仕事を成就させるためにお互いを必要とする。僭主には、
現在のなかにどのような潜在力がひそんでいるかを教えてくれるひとが必要であるし、哲学者には、
この潜在力を現実化するだけの大胆な人間が必要である。両者の関係は、コジェーヴにいわせれば、
それぞれの側で成熟しきった両者の納得ずくの「理性的関係」なのだ。両者の仕事の成否については、歴史が唯一の審判者になりうる。
この挑戦にたいするシュトラウスの回答には、コジェーヴの立場から賭けられているものをかれがどれだけ深く理解したかがうかがわれる。
シュトラウスが不思議でならないのはつぎのことである。近代というイデオロギーを護符にするだけで、
スターリンの僭主政治が古代の僭主政治から道徳的に区別される、などと考えることがコジェーヴにはどうしてできるのか。さらに突きつめれば、
コジェーヴは自分の知恵の知恵たるゆえんについてどうしてそこまで確信できるのか。「哲学は」、とシュトラウスは主張する、「それ自体、
諸問題の、すなわち根本的にして包括的な諸問題の、純粋な意識以外のなにものでもない」。コジェーヴの思考のやり方には、
深いところでどこか非哲学的な、非人間的ですらあるもの-一方に啓蒙への無限の希求を押しとどめようとする要求と、
他方に人間的な努力というものが存在しなくなり、
われわれすべてが満足しきった日が訪れることへのメシア信仰的な希望とが表裏一体になったもの-がある。
「人間は国家によって合理的な仕方で満足させられるようになるといわれている」。だがシュトラウスにいわせれば、「そのような国家とは、
人間性の根拠が枯渇していくところ、あるいは人間がその人間性を喪失するところである。それはニーチェのいう「末人」の国家である」。
コジェーヴのユーモアのセンスは有名で、手紙やインタビューの多くと同時に、
ここでもかれがどこまでまじめなのかは完全に明らかではない。だがシュトラウスは、アイロニーと茶目っ気の下にあるものをみてとった。
それはかれに知的な敬意をおぼえさせると同時に、かれを戦慄させもした。コジェーヴにとって、
啓蒙の希求や道徳的完成の放棄によって人間がより人間的でなくなってしまう見込みは、ユートピア的な願望でもなければ、
ディストピア的な恐怖でもなかった。それはひとつの可能性、歴史によって次第に信憑性のあるものにされてきたからこそ、
勘定に入れておかねばならない可能性であった。冷戦中のかれが、リベラル・
デモクラシーの資本主義と僭主政的な国家社会主義のあいだで中立を守ったのは、かれの同国人たちの非人間化の可能性にかんする、
さらに深いところにある無関心に根ざしたことだった。かれらが嘗めた辛酸にかれが関心を寄せるのは、それが承認をめぐる闘争を生みだし、
さらにこの闘争が歴史の形成に成功するかぎりにおいてでしかなかった。負け組の運命などに、かれはいっさい関知しなかった。
幸いにしてコジェーヴは、この点にかんして自分の無神経さを試してみることが許されるような公的地位にはいちども就かなかった。
しかしかれの事例は、ある人びとの歴史的な経験をよりよく理解するためのきっかけになる。すなわちその経験とは、
ロシア人かどうかはさておき、ある思想をまるで聖遺物のようにあつかい、
その霊感にそそのかされるがままに社会を思想に似せてつくりなおそうとしてきた人びとの経験である。
(「シュラクサイの誘惑」 マーク・リラ 佐藤貴史・高田宏史・中金聡訳 日本経済評論社)
2007/04/08
アーバス、ローライフレックス
この時代の多くの写真家がそうしていたように、ダイアンも長年ライカを使っていたが、1962年にはローライフレックスに替えた。
カメラを替えたのは、ライカの平板な視野が自分の写真をいっそう非現実的にするからだと説明したことがある。
この頃には自分のプリントの粒子の粗さが気になりはじめていて、対象の質感をとらえたいとも思っていた。ダイアンの師のリゼット・
モデルもこう強調していた。「最も神秘的なのは、明確に表現された事実である」
サイズが6×6センチのローライを使うと、ネガの粒子はもっと目立たなくなって、望みどおりの明確な表現が可能になり、
その結果としてこれまで彼女の作品のきわだった特徴とされてきた一見して単純な古典的スタイルはさらに洗練されたものとなった。しかし、
最初のうち、ダイアンは新しいカメラによる映像の鮮明さに怖気をふるい、彼女の言う「新しい四角のフレームの融通のなさ」に手こずった。
ダイアンは、その頃ボストンにいたメザーヴィ夫妻にこんな手紙を書いている。「気おくれがして、ひどく滅入っています。
三五ミリのかわりに6×6センチを使うことに気がついたのはよいのですが、いまのところ結果としてあらわれたのは、
まったく撮れなくなったということだけです」
,(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)