「決定」するに先立って、いちいち「自己」を再想像していれば時間はかかる。特に、「医師と患者」、「教師と生徒」、
「弁護士と依頼人」のような、暫定的な契約に基づく関係性ではそれほど時間をかけることはできない。時間をかければ経済的効率が悪いので、
前者の側から後者の側に対して、「早く自己決定するように」という圧力がかかることが多い。
専門的な経験の豊富な前者が後者になり代わってその利益を代行する形で決定することを、一般的に「パターナリズム(paternalism:
温情的干渉主義)」と言うが、様々な文脈で「説明責任accountability」が声高に叫ばれている現状では、後者に「責任」
のほとんどを専門的知識を当人に正確に提供しさえすれば専門家としての「責任」を果たしたことになる「自己決定」論の方が、
業務を加速することができる。効率性を重視する「新自由主義」の経済思想と、「自己決定」論とは親和性があるのである。
無論、当人が納得しているのであれば、極端な「パターナリズム」か、極端な「自己決定」のいずれかの”極”に振れてしまうような”
自己決定”がなされるのも致し方ないが、当人が「自己」を取り巻く「状況」を十分把握しないまま、形式的に「責任」
の帰属主体が決まってしまうことが多々ある。もう一度、医者と患者の関係で言えば、
難病の治療に際して新薬や新療法を用いる可能性があるような場合、医者の方がなるべく簡単で、「自己」変容がさほど伴わない(かの)ような
「問題設定」にしてしまうことが多々ある。端的に言えば、患者があまり事態を飲み込まないうちに、「臨床試験」(人体実験)を受けるという”
自己決定”をするよう促すケースである。
(『「不自由」論-「何でも自己決定」の限定』 仲正昌樹 ちくま新書)