精神分析的な視点からの近代家族史研究家であるエリ・ザレツキーは、「自己決定」を特徴とする近代的「主体性」は。実は西欧人の
「気のみじかさshort-temperedness」の現れだ、という面白い指摘をしている。つまり、人間は様々な状況の中で、
外から与えられる刺激に対してそれなりに反応しているわけだが、刺激と反応の間の時間的間隔が短ければ主体的に「決断」しているように見え、
長ければ主体性がなくてぐずぐずしているように見えるわけである。実際にその人物の「内面」でどのような判断のプロセスがあったかは「外」
からは直接知ることはできないので、周りの人々は、「(他者からの介入を受けることなく)早く判断に至った」という外見だけを頼りに、
その人物の「主体性」を事後的に再構成することになるわけである。その意味で、「主体性」とは「気短さ」に対して後から
(エクリチュール的に)取って付けられた名称である、ということになる。
これは、我々が漠然と「主体性」と呼んでいるものの正体を極めて巧みに言い当てている説明だと言えよう。先に述べたように、「自己」
をめぐる諸関係性のネットワークを視野に入れ、「決断」の際の選択肢によって、それらの関係性がどう変化するかシミュレーションしていたら、
なかなか「自分だけで」決めるということはできない。むしろ自分で決められる部分はごく少ないことが分かってくるはずである。
ザレツキーは筆者に対しこの問題を、「安楽死」をめぐる臨床的な問題に即して説明してくれた。安楽死するか否かを、「もっと生きたいか、
もう死にたいか」という気分だけで決定する人は、現実にはほとんどいないという。周りの人たちが、自分が生き続けることについてどう考え、
死ぬことについてどう考えるか、様々なやり取りを通して顔色をうかがい、自分の「状況」をそれなりに把握したうえで、
「自分が何を望んでいるのか」を知るに至る、というのである。「他者」を「鏡」にしないと、「自己」を最終的に知ることはできないのである。
しかしながら、そうした「自己」を取り巻く関係性についての複雑な思考の流れは、
回転効率を重視する資本主義的な生産体制に貫かれている「近代」においては、軽視されがちである。むしろ、邪魔である。迅速に方針を決めて、
生産サイクルをできる限り速くし、生産物(商品)を交換しなければ、資本主義体制の中で、生産・交換「主体」として生き残ることはできない。
近代の貨幣経済は、それぞれの自己を形成している種々の文脈を捨象して、「物」にラベリングされる客観化された「価値」だけを基準とする
「交換」形態を発展させてきた。相手とどういう関係にあるのか、また、これから行われる「交換」
によってそれがどう変わるのかといったことは一切考慮せず、「物」の「価値」に合致する「貨幣」を持っているか否かで、「交換」
の成否が決まる。「交換」が終わるごとに、関係性はいったん終了する。”余計なこと”についていつまでもくよくよ考えないで、
スムーズに交換し続けられるのが「主体」である。
近代的な「主体性」は、そのように気短に短縮された関係性の中で、姿を現してくる。こうした「主体」は、建前上は、他者の影響から”
自由に”自己決定する能力があることになっている。しかし、その背景を考えれば、むしろ、「他者との関係性についていちいち考えないで、
さっさと”自己決定”するよう」強制されていると言える。言わば、市場における効率性の原理に従って。「主体」
であることを強いられているのである。我々は、「自由な主体」で有らねばならない、という極めて”不自由”な状態に置かれているのである。
(『「不自由」論-「何でも自己決定」の限定』 仲正昌樹 ちくま新書)