「あなたがピンボールマシーンから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。
あなたがピンボール・マシーンの前で孤独な消耗をつづけているあいだに、あるものはプルーストを読みつづけているかもしれない、またあるものはドライブ・イン・シアターでガールフレンドと「勇気ある追跡」を眺めながらヘビー・ペッティングに励んでいるかもしれない。そして彼らは時代を洞察する作家になり、あるいは幸せな夫婦となるかもしれない。
しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイのランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ・・・・・・、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。
永劫性について我々は多くを知らぬ。しかしその影を推し測ることはできる。
ピンボールの目的は自己表現にあるのでなく、自己改革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。
もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう。」
(『1973年のピンボール』 村上春樹)