「あんまり、こうマッチョにしないでねっていうか、こう、わかるだろう?マッチョっぽくされちゃうと、どうもさあ・・・・・・」
最初のインタビューを終えた夕暮れどき、南アフリカの写真家、ジョアオ・シルバは少し遠慮がちにそう言った。あまり、おどろおどろしく書いてほしくない、ということらしい。戦場を駆け回るカメラマンが、米国のピュリッツァー賞を受賞直後、自殺する。その背景をまとめた米国の雑誌『タイム』や、『ニューズウィーク』を彼は指している。
確かにどれも自殺したカメラマンの繊細さ、戦場報道でこわれていく心の軌跡を、あまりに「できすぎた物語」として描いている。
自殺した写真家の名はケビン・カーターという。ジョアオはその友人で、やはり南アフリカをベースに主に戦場の写真を撮るカメラマンだ。私がケビンの自殺の背景を調べ始めたのは、彼が撮影した「ハゲワシと少女」という写真がきっかけだった。スーダン南部で撮られ、一九九四年に米国のピュリッツァー賞を受けた写真だった。
私が初めてその写真を目にしたのは日本でだった。多分、新聞で目にしたのだと思う。そのときの微かな驚きと、少し眉を寄せいぶかるような気持ちになったのをよく覚えている。
砂漠からサバンナへと変わるブッシュ帯。手前に、やせ細った黒人の子がまるでイスラム教徒がモスクで祈るような姿勢で地面に突っ伏している。その奥、数メートルのところにハゲワシが羽をおさめ、何かを待っている。ハゲワシはよく見るとのんびりしているようにも見えるし、獲物に目を光らせているようにも思える。いや、特に目的もなくただ、そこにいるだけなのかもしれない。実際に何が起きていたのかはわからない。でも、写真を見た多くの人々ははっきりとしたメッセージをそこに感じとる。
「アフリカの戦場では子供たちがハゲワシの餌食になっている。世界にはこんなにも悲惨な生がある」
私の中にそんな言葉が浮かび、この写真を撮った人物は、そのとき、どんな様子だったのか、なぜ、こんな場面に出くわすことになったのかと、そのことに関心が向いた。
アフリカの原野に住んでいれば悲劇はあるだろう。だが、この写真にはそんな不慮の事態をとらえた「決定的瞬間」以上のものがあるように思えた。同じころ、ニュースで四国の少女が土佐犬に噛み殺されるという事件があった。それは、とても不幸な不慮の事故と言えるが、それ以上のはっきりとしたメッセージはない。なぜなら、現場が日本だからだ。だが、このハゲワシの前に突っ伏した少女は、アフリカでも特に肌の色が濃いスーダンの女の子だ。それだけで世界に配信される写真には、アフリカ、戦場というキーワードがついてまわり、すぐさま政治的な意味が加わる。
私がアフリカに暮らしてからもなおこの写真にこだわっていたのは、「アフリカのリアリズム」というものについて考え続けていたからだ。悲惨さの脇に普通の人々の日常がある。悲惨な風景の中にさえ、目を凝らせば、人の幸福を考えさせる瞬間がある。だから、アフリカを日本に伝える者として、悲劇のイメージばかりを送り出すことに、次第に抵抗を感じるようにもなっていた。でも、ケビン・カーターのあの写真にはそんな生半可な思いを打ち砕く衝撃力があった。
あの写真はどうやって生まれたのか。取材を始めたのはアフリカに来て二年が過ぎた九七年のことだった。
撮影の前になぜ少女を救おうとしなかったのか。写真をめぐる議論は主に米国の週刊誌メディアでふくらみ、ケビンはそんな批判にたえかねて自殺した、という風聞が南アフリカでも広がっていた。だが、人はそんな風にきれいに死ぬだろうかという疑問が私にはあった。そんなことをたずね歩き、たどりついたのが、ケビンをスーダンに連れていったもう一人の写真家、ジョアオ・シルバだった。
歯切れのいいジョアオの言葉は痛快だった。彼が多用する「クール(いかす)」という、やや気安い、子供っぽい英語表現も心地良かった。戦場が好きな写真家でありながら、男らしさなどかけらもなく、趣味の自動車レースやプラモデルづくり、テレビゲームに熱中するタイプだった。
一九九三年三月十一日、スーダン南部コンゴール州のアヨド村。ケビンが、目の前にいる少女とハゲワシのどちらにピントを合わせようかと迷っていたとき、ジョアオはそこから数百メートルのところにいた。
「時間は三十分しかない。だから、俺たちは走り回ってた。村々に食料を届ける国連機、オペレーション・ライフライン・スーダンっていうやつ、聞いたことあるだろ?それに乗れるっていうんで、俺はケビンを誘っていったんだ。あのころ、あいつ、もう生活が完全に破綻してて。アルバイトでやってた深夜のディスクジョッキーの仕事も、トークラジオの仕事も契約が取れなくて、離婚もしてて、まともに食えなくて、変な女につかまって、麻薬づけになってて。だから、『おい、ケビン、行くぞ、アフリカの真ん中、スーダンに行くぞ』って、引っ張っていったんだ。あいつ、質に入れてたから、手元にカメラもなかったんだ」
「国連機に乗って、平原みたいな、一応滑走路みたいなところに降りたんだんだ。職員が『三十分後に離陸する』っていうから、俺たちはもう必死に走り回った。絵はないか、絵はないかってね。お前はあっち、俺はこっち行くからって。俺? 俺はあのとき、ゲリラいるだろ?ゲリラ。連中が二つに割れたって聞いていたんで、でもはっきりとした証拠もないから、ゲリラ兵に会えないかなって思って、村っていうか、小屋だけの集落を見て回ったんだ」
「俺たちが降りて、ミーリーズ(食糧のトウモロコシ粉)を下ろし始めたら近くにあった避難民の小屋から女たちがわーっと一斉に飛行機に近づいてきた。まあ、普通の光景だから、適当に何枚か撮って。俺は、『兵隊、兵隊』って、ゲリラばかり探してた。ケビンはそのとき飛行機の近く、数十メートルのところにずっといたみたいだ」
ジョアオは初対面の相手にはいつもこうなんだろうか。時に立ち上がり、両手を広げてややオーバーな演技をしながらひとり語り続ける。それは、もしかしたら、照れくささや気恥ずかしさを隠す一つの防御反応かもしれない。
狭い仕事部屋の破れたソファの上を猫が時折、関心なさそうに行き来する。壁には友人の写真家が撮った南アフリカの内戦時の写真や、ポスターが無造作に張られ、書棚にはネガの入った小型の段ボール箱が山積みされている。本などない本棚にはつくりかけのホンダの大型バイクの模型が大事そうに飾られていた。
「あいつ、南アフリカ、ソウェト(ヨハネスブルグ南西の黒人居住区)のドンパチは知っているけど、飢餓の取材は初めてだから、ショックだったみたいで、しきりに飢餓の子を撮ってた。ショックっていうか、まあ、あいつは、何ていうかエキセントリックなとこ、あるから、ああいう光景に参りやすいじゃないかな、結構。俺とか、大丈夫だろ。見るものは見ると、さて、じゃあ、次どうしようかって。いちいち立ち止まって感傷にふけったりしないだろ。そんなの後ですりゃいいって。俺?俺はもう飢餓は何回も見ているから。あ、またかって感じ?はいはいってね。だけど、そりゃ撮るよ、一応は。ゲリラ撮れなかったときのための予備っていうのか。そうそう。えーと、この写真。あんた来るっていうから用意しといたんだ」
ジョアオが差し出したプリントにもやせ細った少女が写っていた。同じ少女か?一瞬そう思うほど、よく似ていた。この少女もやはり両手で目をふさぎ、それもまた、見ようによっては祈るような格好をしている。「三匹の子豚」の物語で最初にオオカミに吹き飛ばされてしまったような小屋が干し草の平原をバックに写っている。
「これは?」
私の興味深げな様子に満足したのか、ジョアオは嬉しそうに言葉を続ける。
「この子、ケビンの写真と同じ子って思うだろ。実は、違うんだ。ほら、見てみ。こっちの子は白いビーズの首飾りつけてるだろ。でも、俺の方の写真の子はつけてないだろ。これ違う子なんだよ。俺もやっぱり一応はケビンと同じような写真を撮ってたんだ。で、俺の写真?結局どこにも載らなかったな。いや、南アフリカの新聞に載ったかなあ。そのとき?だから、ゲリラ兵がいないから、まったくしょうがねえなあって思って、そしたら一応、飢餓の子も撮っておこうと思って、構えて、待って、動きが欲しいなっていろいろ、角度決めて、そしたら目をふさいで泣くような格好をしたから、カシャカシャカシャって何枚か撮って。
さあてと、兵隊いないかなってまた歩き出したんだ。そんなもんだろ。親?親はすぐそばで食糧もらうのにもう必死だよ。だから手がふさがってるから、子供をほんのちょっと、ポン、ポンとそこに置いて」
「ケビンが撮った子も同じ。母親がそばにいて、ポンと地面にちょっと子供を置いたんだ。そのとき、たまたま、神様がケビンに微笑んだんだ。撮ってたら、その子の後ろにハゲワシがすーっと降りてきたんだ、あいつの目の前に。あいつ?あの時、カメラ、借りてきたやつだから、180ミリレンズしか持ってなかったんだ。だから、そーっと、ハゲワシが逃げないように両方うまくピントが合うように移動して、10メートルくらい?そのくらいの距離から撮ったらしい。で、何枚か撮ったところで、ハゲワシは、またすーっと消えていったって」
「見てみろよ。おんなじような写真撮ってて、あいつの前にたまたまハゲワシが降りてきて、そんでもってポーンとピュリッツァー賞。俺の前には何も降りてこなくて、はい、普通のボツ写真。ま、そんなもんよ。戦場で撮っているとそうだろ。一瞬だよ、一瞬。ドンパチが始まって、たまたま道路一本隔てた死角にいたら、何も撮れなくて、たまたま、銃撃戦のちょうど真ん中の戦車の陰かなんかにいたら、すべて見渡せて、いい絵が何枚でも撮れる。そんで、ハイ、どんぴしゃっとピュリッツァー賞」
そばに母親がいて、子供をちょっと置いただけ。そんなたわいのない真相が私には意外だった。なぜなら、その少女は、あの原野の中に一人でたたずんでいたと勝手に思い込んでいたからだ。
「時間がないんでケビンのところに戻ったら、あいつ仰向けになって、煙草スパスパ吸って、空に向かってうわごと言ってんだよ。俺はその時点では、そんなすごい写真撮ったって知らないから、また、ケビンがおかしくなっているって思っただけだけど、あいつ、『アイヴ、ガッタイトゥ(撮った)、やったんだ、撮ったんだ、すごいの撮った、俺、撮ったんだ』なんて涙流さんばかりに興奮してて、またこいつがって思って『行くぞ、行くぞ』って言ったら、『家に帰って、娘(当時九歳)を抱きしめたい』なんて言うから、これはまともじゃないって思ったけど、こっちは写真をまだ見てないから、彼が本当のところどんな気持ちだったのか、そのときはわからなかった」
ナイロビに戻り写真を焼いてみて驚いた。
「こりゃ、すごい写真だって思って、すぐに『ニューヨーク・タイムズ』の知り合いに売り込んだんだ。そしたらなかなか載らなかったけど、何日かたって一面にでかく載ったんだ」
写真「ハゲワシと少女」は三月下旬の『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面にカラーで掲載された。撮影から十日あまりが過ぎていた。
絶賛と共に、「撮影など振り捨て、なぜ、真っ先に少女を助けなかったんだ」という批判が米『タイム』誌などを中心に沸き起こり、報道のモラルを問う論争に発展した。『ニューヨーク・タイムズ』はその後、異例のおことわりを掲載する結果になった。
「撮影者の報告では、ハゲワシは追い払われてから、少女は再び歩き始めるまで回復した」と。
ケビンはこうした批判に反論しなかったが、地元紙にこう答えている。
「ああいう現場に行ったこともない人間に個人的な体験を話してもしようがない」
「状況や暴力について陳腐な意見を聞くと、俺の脳はシャッターを下ろしてしまうんだ」
でもジョアオに言わせれば、本人はかなり気にしていたそうだ。
「『お前は良いことをしたんだ。あのすごい写真を撮って、それがロンドンのヒースロー空港の看板にでかでかと載って。義援金が集まって、スーダンに送られて。とにかくお前は正しいことをしたんだ』。そう言っても、あいつはまたしばらくたつと、話を蒸し返して、ひとり気にしていた。もともと繊細なんだ、あれは。だけど、俺に言わせりゃ、少し馬鹿げているよ、少女を救えだなんて。救えったって、すぐそばに母親がいるんだぜ。アフリカの女は怖いんだよ。下手に勝手に子供を抱き上げたりなんかしたら、何すんのって母親が大慌てで飛んできて、どやされるよ。手出しなんかできるかよ」
ケビンは女づき合いにだらしがなく、自堕落を気取っているところもあった。その半面、自信がなく過敏で、他人の視線を常に気にしている弱さもあった。アンゴラの内戦の徴兵を逃れた二十代のころは躁うつ病で通院し、二度も自殺未遂を起こしている。
アパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アで、黒人居住区の戦闘写真で名をあげ始めた八九年八月、地元紙の写真コラムにこんな一文を残している。
「写真報道とは奇妙な商売だ。私は仕事の大半を劇的な場面探しに費やしている。そんな中、手っ取り早く売れるのは、紛争中の人間たち、ヒューマン/ドキュメント、そして暴力だ。その手の写真を見て大喜びする読者が多いからだ。じゃあ、なぜ撮るのかと聞かれればこう答えるしかない。私はただ、自分の写真が載るのを見たいだけだと」
彼はこのころから、センセーショナルな写真を撮ることに疑問を抱き始めている。興味深いのは最後の一文、彼の開き直ったような口ぶりだ。
「おれはただ、自分の写真が紙面に載ればいい、それだけだ」
あえてそう言い切ってしまうところに、彼のやや過剰な自意識がある。
九四年七月二十七日未明。ピュリッツァー賞受賞決定から三ヶ月、授賞式から一ヶ月もたたないその日、ケビンはヨハネスブルグ郊外サントンにある自宅近くの緑地公園に車を止め、愛用の薬物、マンドラクスを吸いながら、車内に排ガスを引き込み自殺した。遺書の冒頭には「パパとママ」と書かれ、その下に電話番号。その下に「親友たち」とあり、すでに死んだカメラマンの友人の名と、カッコでくくられた別れた妻の名と電話番号、そして「ジョアオ・シルバ」と彼の番号がある。その脇には小さな字で「言葉にできないほど彼(ジョアオ)が好きだ」と記されていた。
(『絵はがきにされた少年』 藤原章生 集英社 「第一章 あるカメラマンの死」から)