2007/02/20

赤旗を振ったソ連兵

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この写真を撮られた時の状況はどうだったのか?時は1945年4月。ソ連軍は最後の戦闘に向かっていた。
ドイツ帝国の首都ベルリンでの決戦である。そしてソ連戦車二万両にスターリン・オルガン(ロケット砲)、それに重火器が、かつて
「ゲルマンの世界都市」になるはずだったベルリンを攻撃した。街は廃墟と化す。
スターリン軍団が通りという通りで戦いを繰り広げていく一方で、守勢のヒトラー「総統」が「総統防空壕」から指揮したドイツ軍は、
もはや幽霊軍団でしかなかった。4月30日午後、最初の突撃隊が首相官邸を中心とする官庁街に到着し、ヒトラーは自決。


このときが勝利のクライマックスだったのか?いやちがう。なぜなら、民衆は別なシンボルを求めるからだ。神話が必要になるのだ。


われらが「神話」は、ソ連軍モスクワ博物館の二階に飾られていた。戦勝トロフィーが並ぶホールの中央で、それはスポットを浴びている。
いまなお学校の生徒たちは日に何千人と訪れては、それを見て目を見張る。それとは、
当時ドイツ帝国議会議事堂の屋上で振られた伝説の赤旗であり、ヒトラー・ドイツに対する勝利のシンボルなのだ。そしてこれを振ったのが、
勇敢なグルジア人ミリトン・カンタリアであり、彼の足を支えていたのがロシア人ミハイル・エゴロフである。


(中略)


その二つ先の部屋で、公式のソ連映画「ベルリン征服」が「小説」のほうを宣伝している。何人かの赤軍兵が昂然と頭をもたげ、
銃剣を持ち、旗をたなびかせながら、廃墟を駆けていく-この前庭は現在「共和国広場」という名になっている。荘重なナレーションが入って
「これは4月30日の突撃を映したものです」と解説している-だが議事堂をめぐる戦闘は、実際には一回もなかった。そもそも、
何の隠れ場所もない広大な広場であちこちから砲撃を受けているとすれば、兵士たちが頭をもたげ、直立の姿勢で走りながら、
軍旗をたなびかせているはずはない。


兵士たちはそれから議事堂に突撃していく。だがなぜ議事堂に入っていくのか? この、ヴァロット(ドイツの建築家)
の設計になる1894年完成の建物は、周知のように、1945年当時にはすでに空虚な存在だった。ヒトラーが1933年の炎上でまず最初に
「廃墟」にしたのがこの議事堂だったからである。定例の帝国議会などは、いわゆる第三帝国時代に一度も開かれたことがない。
だから厳密にいえば、ソ連兵は、とうの昔に冒涜された民主主義のシンボルの上で、赤旗を振ったのである。映画では例の旗は最後に、
焼け落ちた丸屋根の上でたなびき、ナレーションが次の言葉で全編を締めくくる。

「スターリンの命令は実行されたのです」


では真相は? まずグルジア人のカンタリアとロシア人のエゴロフが撰ばれた理由だが、
それはどうしてもロシア人がその場にいなければまずかったし、「全国民の父」スターリンはグルジア出身だったからである。話の先をどうぞ、
ミリトン?


「われわれの指揮官はシンチェンコ大佐だった。4月30日、そう昼ごろだったな、大佐はわれわれを大声で呼び止めて、こう言ったんだ。
「おい、議事堂に突撃して、旗を振ってこい。それがすんだら、本官のところへ戻ってこい」われわれは実行した。
最初は旗を中央玄関の上の窓から振ってみたが、晩の九時ごろには丸天井の上で振ってみた」


そういうことだったのだ。だがまだ銃撃戦が続いていたし、この4月30日には現場にはまだ、
カメラマンや映画の撮影技師などは一人もいなかった。あの映画は、ベルリンが陥落したあとに、見栄えを考慮して作られたのである。


それが5月2日だった。ロングショットや逆方向からの撮影をまじえて、公式映画が作られたのだ。そのとき旗は丸屋根の上で振られた-
だが写真撮影用には別な場所で振られたのである。

つまり。カンタリアが旗を振り、エゴロフが彼を支え、軽機関銃カラシニコフ持参の将校一人が写っているあの世界的に有名な写真は、
5月2日に撮影されたのだ。場所は見てのとおり議事堂の東面であり、ブランデンブルグ門の方角を向いている。カンタリアはこのとき、
カメラマン用にポーズをとったのである。


(中略)


この写真は、5月3日付けの何千という新聞の一面に掲載され、世界中に 「見よ、われわれがベルリンに一番乗りした。
勝利はわれらのものだ!」と伝えることになった。


だがカンタリアによれば、このときすでに何百本という赤旗が議事堂のあちこちになびいていた。議事堂は廃墟とはいえ壮観だったから、
ソ連軍はこの建物を重視したのだ。大体が、他のどこで旗を振ればいいというのだ?小さなブランデンブルグ門でに上がっても場所は狭いし、
ラジオ塔では貧弱だ。


「真実と伝説はもっと壮大でなければならぬ」-そういうことだったのだ。あるいはほぼそういう成り行きだったのだ。


(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)