2007/02/06

ベトナムの娘



ニューヨークタイムズ紙はあのとき、こう書いた。

「こういう写真を見ると、人類への信頼を失わないでいるのは難しい」

時は1972年6月8日、少女ファン・ティ・キム・フックは9歳。この日、南ベトナム軍がベトコンに対して大攻勢を開始した。
ベトコンは当時、都市部を除く全土の三分の二以上を占領していた。

米軍機が南ベトナム政府軍の攻撃を支援した。艦上攻撃機スカイレイダーは機首を、サイゴン近郊チャンバン村の方向にとった。キム・フックの故郷である。パイロットたちはナパーム弾を投下して、森と人間を焼いた。火の粉が激しく降りそそいで、少女の皮膚の下に食い込んだ-そしてこの瞬間が彼女の記憶に食い込んだ。

(中略)

夜中の十二時ごろ、「解放戦線(ベトコン)」の兵士たちがジャングルのはずれで、政府軍の前哨を急襲し、チャンバン村を占拠したのだ。
キク・フックの父、ドゥ・ゴック・ヌーは当時、中央広場で簡易食堂を開いていた。得意料理は中華スープ。具の野菜は自分の菜園で栽培していた。

その夜、この菜園が軍事施設と化す。ベトコンは、人が入れるほど深い穴を三つ堀り、そこを機関銃陣地としたのである。

(中略)

それはカオダイ教(仏教・カトリックなどの混合宗教)の寺院で、チャンバン村では大半の人が信仰していた。寺院内は人でいっぱい。
ベトコンから逃げはしたが、政府軍のもとへは逃げなかったのだ。そんなことをすれば、両軍の戦線にはさまれてしまう。
ジャングル内にいるベトコンにも、信頼を寄せなかった-それに頼った場合、もし南ベトナム政府軍が村の奪還に成功したら、村に戻れなくなる。
反乱者との「協力」には、きつい処罰が待っているからだ。

村の争奪戦が一日中続く、政府軍の第二十五師団は、重火器で村を砲撃した。ベトコンも頑強に抵抗する。午後、政府軍は五回の突撃を行ったが、結局撃退されてしまう。村の家屋は三軒に一軒が破壊された。午後四時、政府軍のレ・ヴァン・トゥ旅団長はこの村をベトコンの隠れ場所と宣言し、爆撃を許可した。

(中略)

その爆撃をした二人のパイロットはのちに「逃げまどう村人をベトコン兵と思った」と言っている。

「本当ですか?」とキム・フックは言った。怒っている。

「そんなこと、全然信じられません。はっきり女子供だと見えたはずです。そんなことを言うのは、訴えられたくないからですよ」

(中略)

ナパームとは、ナフテン+パルチミン酸塩の略である。酸のほかにベンジンと油をふくみ、摂氏千度以上の高温で物体を燃えあがらせ、石や鉄以外のあらゆるものを焼きつくしてしまう。

だが、人間を対象にした場合には「欠点」がある、と米軍関係者は見ていた。砂をかぶるか水に入るかすれば火を消せる、というのである。

そこでベトナム用に「スーパー・ナパーム弾」が開発された。別名「ナパームB」。これの成分は、半分が熱可塑性樹脂ポリスチレンだ。
これは人間の肌にこびりつく働きをする。そして、含有されている燐は体内に食い込んで、重い中毒を引き起こす。

(中略)

彼女から写真の解説を聞こう。

「一番左にいるのは私の兄です。それから、私のすぐ右側を走っているのが私のいとこ。みんなで走り続けて、やっと橋に着いたのです。そこに記者たちが待っていました」

そのなかに、一世一代のこの写真を撮ったカメラマン、コン・ウトがいた。彼はこれでピュリッツァー賞を受けることになる。

「みんなして私たちに水をかけてくれました。私たちは水をたくさん飲みましたが、体がひどく熱くなりました、ええ、とても熱くなったんです。次の瞬間、私は急に何もかもわからなくなりました。気絶したんです」

ナパーム弾は彼女の背中、首筋、そして左側に食い込んでいた。彼女はサイゴンに運ばれる。アメリカ所有のコーレイ病院。

(中略)

彼女は本来、教師志望だった。だが長時間の精神集中がむずかしい。勉強はしたが、試験に受からなかった。ベトナムで二度、筆記試験を受けてみたが、どちらのときも、痛みが傷から頭に忍び込んできた。氷嚢を両親が持参してくれたが、何の役にも立たない。
三十分ほど考えただけでクタクタになってしまった。

1984年、ドイツ人記者たちが彼女を、有名なルートヴィヒスハーフェンの救急病院に連れていった。

(中略)

だが彼女はドイツで医学の力に感激した。こんどは医者になろうと思った。ホーチミン市の医大を受験したが、頭痛はまだ続いていた。
しかし彼女はいまや、いわば国家的英雄になっていた。

(中略)

こうして彼女は国の奨学金を受けるようになり、社会主義の同胞国キューバで医学の道を志す。だが同地に渡った彼女は試験に失敗-二度とも。薬学部に乗り換えてみても、またまた失敗。痛みが強すぎるのだ。その試験でも頭が張り裂けそうになる。

(中略)

そのあとわれわれは、いっしょにお祝いをした。途中で話題が、あのナパーム弾を投下したパイロットのことに及んだ。その人たちのことを憎んでいます?

「いいえ、憎むなんてできません。彼ら自身の責任じゃないですから。ただ私が怒っているのは、あのとき女子供だとわかっていたと認めてくれないからです。彼らを憎みたくはありません。憎めば、あの戦争のことをまた思い出すからです。私はもうあの戦争のことを考えたくありません、忘れたいのです」

だがそれは許されるだろうか?戦争を告発したのは、ほかならぬ彼女の写真ではないか?告発は彼女の義務といってもいいのではないか?
彼女は言う。

「ことによると例の写真は「残酷さの象徴」として、あの無意味な戦争を早く終わらせるのに貢献したかもしれません。西側諸国でも抗議運動が起こって、その結果、超大国アメリカはベトナムから撤退せざるを得なくなったのですから」

(中略)

「あの写真は私の人生の一部ですが、この映画を見ると、あのとき亡くなったチャンバン村の子供たちのことを考えずにいられません」

(中略)

「あの二人のパイロットの名前を、どうにか探し出してくれません?生きているかどうかも。私は二人に言いたいのです、もう怒っていないって。ただし真実は認めるべきです。もし真実を語ってくれたら、私は二人を許します」

(中略)

なお、ライフ誌1995年5月号によれば、キム・フックは1992年にカナダに亡命。
キューバで知り合ったボーイフレンドと6年間の交際ののち結婚し、息子を一人もうけている。(訳者)

(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳)