2007/05/25

ドゥプレの語る9・11

三浦信孝:

現代社会のアクチュアルな問題に入っていきたい。私は1989年秋、ベルリンの壁が崩壊した直後、あなたがル・モンド紙に寄せた短い文章
「歴史の回帰」に感心したおぼえがある。自由主義が世界をおおいつくし歴史が終わるとしたフランシス・フクヤマの「歴史の終焉」論に反対し、
冷戦から蓋をしていたさまざまな矛盾対立が一挙に出てくることを予言した文章だった。その後の事態はあなたの予言の正しさを証明した。


そこで質問したい。1989年の11月9日が冷戦の終わりを告げたとすれば、昨年(2001年)
の9月11日は冷戦後世界の終わりを告げたのではないか。「9・11」は世界の地政学的条件にまったく新しい布置を与えたのではないか。
別の指標をとるなら、1991年1月に起こった湾岸戦争から2001年8月のアフガニスタン侵攻の10年で、ブッシュ父が夢みた
「世界新秩序」は、ブッシュ・ジュニアによって実現されたと考えていいのか。
世界が一様化されるとともに文明が衝突するグローバル化状況の中で、ブッシュの「テロとの戦争」をあなたはどう見ているのか?


11・9と9・11という数字の象徴性をつづけるのなら、もう一つ見逃せない偶然は、ニューヨークの「9・11」
は1973年9月11日のチリの軍事クーデターと同じ日に起こったことだ。WTC(世界貿易センター)のツィン・タワーの崩壊は、
ピノチェト将軍のクーデターによる惨劇を思い出させなかっただろうか。ユダヤ系のチリ人作家アリエル・ドルフマンは、二つの9・
11の目撃者として、アメリカ人に「9・11」を独占する権利はないと書いていた。


レジス・ドゥプレ:

質問に答える前に、フクヤマへの言及があったのでいうが、論敵を実際以上に愚かしく描くことはやめにしよう。
論争の流儀としてよくないやり方だ。論争するときは、論敵の最良の部分を相手にすべきだ。フクヤマが「歴史の終わり」を語ったとき、
彼は事件がもうなくなるとか暴力がなくなるといったわけではない。ヘーゲルとコジューブのよき読者として、
フクヤマがいったのはこういうことだ。事件の連鎖を貫く敵対的矛盾はもうなくなった、世界のヴィジョンが二つ、三つと対峙しあうのではなく、
暗黙のうちに承認された唯一の文明モデル、すなわち自由民主主義に照らして、進んだ社会と遅れた社会があるだけになった。
事件というのは1789年のフランスや1917年のロシアという強い意味での事件のことで、突発的な事件や波瀾はあるだろうが、
それは深い不安によってもたらされるものではない。これが彼の歴史の見方だと解釈できる。しかし、もちろんそれは私の歴史の見方ではないし、
歴史が回帰するといったのは私だけではない。


歴史が回帰するとはどういう意味か。過去半世紀は未来からの衝撃が語られた。未来からの衝撃ということで、すべてが予想できた。
ただひとつ、過去からの衝撃を除いてだが。旧ユーゴスラビアをとってみよう。クロアチアとセルビアの戦争は、
カトリックのクロアチアとギリシャ正教のセルビアの戦争だ。これは11世紀、1054年に、
キリスト教のラテン世界からビザンチン帝国を切断した東西教会の分裂にさかのぼる。コソボ紛争の起源は、オスマン・
トルコによるコンスタンチノープル奪取(1453年)とイスラムの中欧への進出にさかのぼる
(セルビアは1389年のコソボの戦いでオスマン・トルコに敗れその聖地を失う)。ツィン・
タワーとペンタゴンへの攻撃にも歴史的起源がある。ワッハーブ・ショックだ。18世紀にアラビア半島に起こったワッハーブ派は、
(初期イスラムへの復帰を主張し)イスラム法を厳格に純粋主義的に解釈した(ワッハーブ派はオサーマ・ビンラーデンの出身国サウジ・
アラビアの国教である)。こうして、宗教の歴史がアクチュアリテの理解を助けてくれる。とにかく、文明圏のあいだの対立を防ぐのは、
大文字の民主主義、物神化された民主主義ではない。


しかし、私は文明間の戦争という表現は使わない。文明を固定した実質、自分に一致した唯一の実質とは見ないからだ。事実、
いくつものキリスト教があるようにイスラムも多様だ。12世紀のイスラムと今日のイスラムは違うし、
明日のイスラムはまた違ったものになるだろう。だから、すべてを歴史的パースペクティブで考えることが大事だ。
その点で私は今もマルクス主義者だが、文明を歴史的に考えるなら、
一度成立したら未来永劫不変の文明と文明のあいだに必然的に衝突が起こるという単純な見方はできなくなる。しかし、今日世界あちこちで矛盾、
攻撃、防衛、影響力の争奪戦が起こっているのもまた事実だ。


あなたは二つの「9・11」に言及したが、1973年の9月11日に思いをいたす人はごく稀だ。
チリのサンチャゴには当時多くのカメラがなかったから、事件は大きなインパクトをもたなかった。
サンチャゴは事柄の連鎖の先端ではなかったため、惨劇はニューヨークほど強い反響は呼ばなかった。私も二つの事件を比較したアリエル・
ドルフマンの記事を読んだ。ドルフマンはチリの作家で優れた知識人だ。しかし二つの事件のあいだには、9・
11という不幸な日付の一致を除けば、はっきりいってかなり根本的な違いがある。


チリの9・11は(アメリカのCIAが支援したピノチェト将軍の)クーデターであり、大統領官邸のモネダ宮が破壊され
(アジェンデ大統領は自殺)、街は砲撃され(数多くの市民が殺され)た。これは強い者による弱い者の攻撃だが、
もう一つは弱い者による強い者の攻撃だ。一方のチリのほうは、国家テロ、アメリカ国家のテロリズムだが、
他方は国家的基盤をもたない宗教原理主義者たちのテロだ。政治的には13世紀ごろできた首長国アフガニスタンを「国家」
と呼ぶなら話は別だが。したがって、二つは比較にならない。チリの73年9月11日のクーデターは、
5000人どころか5万人の死者を出した。そのあと殺された者を入れればもっと多くなる。これは経済的支配者と被支配者の、
所有者と被搾取者の戦争の延長という意味で、19世紀を向いたクーデターだ。(社会主義者の)アジェンデ大統領は被支配者の代表であり、
アメリカの支援を受けたチリの国家軍は伝統的に支配階級を、チリの土地所有者を代表していた。これは19世紀の対立図式だ。


ところがもう一つの9・11は、西洋に切っ先を向けた高度の技術と、
サウジアラビアのワッハーブ派が引き継いだカルト集団の神秘的でラジカルなコーラン解釈がドッキングして起こったものだ。
もっとも伝統的なものと最先端のハイテクが逆向きに結びついたという意味で、これは21世紀の幕開けになった。
二つの事件のあいだにどんな繋がりがあるか問うてみるならば、おそらく、反対勢力の急進性に関して重要な環境の変化が起こっている。
二つの9・11のあいだには表徴の逆転がある。チリの民衆の統一行動は進歩的な運動であり、
その背後にはマルクス主義とチリで強かったキリスト教左派とに彩られた非宗教的メシアニズムがあった。それは左からの世俗的急進性だった。
それに対して今日、西洋世界の都市郊外に広がっているのは同じメシアニズム的急進性でも、宗教的急進性だ。
その伝統主義と近代性の拒否ゆえに、右からのと呼んでいい退行的急進性だ。ここには反対勢力の役割、社会的バリアの役割の、
一つの時代からもう一つの時代への交代がある。1930年代、スペイン市民戦争で世界各地から有志がはせ参じ国際旅団に合流した時代から、
世界各地のサラフィスト(アルジェリアなどで活躍するイスラム過激派)が新しいインターナショナルに結集する時代への変化である。
メディオロジーではおなじみの諺で、オーギュスト・コントの言葉だが、「置き換えられるものしか壊さない」のだ。ある世俗宗教を壊すとき、
人は別の世俗的宗教に場所を譲るわけで、その代換宗教はもっと破壊的でもっと有害なものかもしれない。具体的にいえば、
ナセルのエジプトを壊し、(アラファト議長率いる)PLOのパレスチナを壊したあとには、もっと危険なハマスが来るということだ。
これは西洋が1950年から中東でとってきた下手な政策の結果といえる。


(「現代世界に直面するメディオローグ -レジス・ドゥプレとの対話」 R・ドゥプレ 三浦信孝)



シトワイヤンとは

ここでいう「市民」は、日本語の語感からはずいぶんとかけ離れた意味をになっているので注意を要する。日本語の「市民」は、
ただの町の人、生活者、政治とは関わりのない普通の人というニュアンスが濃厚だが、ドゥプレのいう「市民」
とはフランス語のシトワイヤンのことで、ポリス=政治社会の構成員、すなわち公事=レス・ププリカに参加し、国家意思、
政治的意思の形成にかかわる自律的個人を指している。その意味では、「公民」とするほうが適当かもしれないし、
現にそのように訳される場合もある。ただ、日本語の「公民」にはお上に従う民というニュアンスがあり、
それではシトワイヤンの本義から大きくはずれることになる。フランス語のシトワイヤンとは、「人権宣言」として知られる、1789年の
「人および市民の諸権利にかんする宣言」における「市民」のことである。この「宣言」における「人」
とは啓蒙の思想家たちが好んで使った概念である「自然状態」における個人のことであり、「市民」
とは社会契約によって形成された共同世界=政治社会のメンバーを意味している。


これがフランス型の「市民」概念であるとすれば、「市民」にはアメリカ型の考え方が存在するとも言われる。この理解によれば、「市民」
とは、国家から自由な市場に参加し、私益を確保する人間として定義される。アメリカ型の「市民」
が国家からの自由を享受する個人であるとすれば、フランス型の「市民」は国家への自由を担う存在ということになる。このふたつのタイプの
「市民」は、見られる限り、「自由」に対するふたつの異なったとらえ方を前提にしている。十九世紀前半の思想家・作家バンジャマン・
コンスタンは、「国家への自由」と「国家からの自由」を、それぞれ、「古代人(古典古代のギリシャ・ローマ)の自由」、「近代人の自由」
として理解した。


(「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」 レジス・ドゥプレ 水林章訳)


(補足1:「ここでいう」の「ここ」とはレジス・ドゥプレの「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」を指す。
本文は訳注として掲載された文章である)

(補足2:「市民」はフランス革命以前は男性名詞としか存在しなかった。)



2007/05/23

ソフィストを起点とした現代社会の六つの特徴

第一に、絶対的な価値や世界観が崩壊し、その反動から自由や個性の名のもとに相対主義に流される問題状況は、
ソフィストが活躍した古代ギリシアと現代日本に共通する。第二次世界大戦の敗戦によってそれまでの絶対的な体制「大日本帝国」が滅亡し、
「天皇制」が根本的に形を変えた。そうして成立した「戦後民主主義」の理想も形骸し、「高度経済成長」や「終身雇用」
といった神話も時代とともに姿を消した。東欧共産諸国やソビエト連邦が崩壊し、「共産主義」が幻影となると、保守的な資本主義が、
思想性のないままに社会を支配する。こういった反イデオロギー的な状況は生の拠り所や方向を見失わせている。


第二に、現代の相対主義は、「価値観はひとそれぞれで異なる」といった耳障りのよい標語を口にする。その背景には、
伝統的な哲学がとっていた真理や価値の絶対主義への反発がある。イデオロギーや発展史観への反動から、社会学や歴史学、さらには自然科学
(論)でも相対主義的な見方が蔓延している。歴史とは後世がでっちあげる物語であり、科学も時代ごとのパラダイムに過ぎない、
と相対主義者が昂然と唱われる。「真理など存在しない。人間が勝手に作りだしたものである」というその主張は、達観したようで、
ひどくシラケたものの見方を若者たちに提供している。それは、個人を自由へと解放するように見えながらも、結局は「国家、社会、大学」
といった体制の中で身動きできない状況を作り出している。しかも、それが根拠ないものであると自己に言い訳しながら、
それに従って生きざるを得ないというダブル・バインドに人々を置いている。とりわけ、学問世界に身を置きながら「相対主義」
の名のもとに既成の学問や価値を否定する教師たちに、拠り所を奪われた学生たちは、醒めた目を向けている。


第三に、「自分がそう思えば、それでよい」という、一人の思われに閉じこもる態度が、個人主義として蔓延している。「気持ちいい/
気持ちわるい」という即時的な快感に依存する立場は、他者との対話を拒絶し、独りよがりの生き方に引きこもらせる。そこでは、
経済力や権力への無批判の信奉が生み出される。現代の消費社会とコマーシャリズムは、ゴルギアス弁論術を信奉する若者カリクレスの
「快楽主義」を、まざまざと想起させる(プラトン『ゴルギアス』第三部)。


第四に、「神や宗教は所詮でっち上げであるが、信じられることで精神安定が得られる」といった、一見合理的な非宗教的態度が、
結果として、新興宗教などへののめり込みをもたらす。やはり、プロタゴラスらの啓蒙的な宗教批判の意義が、
西洋文明の一つの根として再考されるべきであろう。


第五に、「正義や法は、各社会や国家が決めたものに過ぎない」という社会相対主義が、実際には現実の力、たとえば、
超大国による小国への侵略や、政府軍による非力な住民の抑圧を「正義」と呼ぶような現状を容認し、暴力への諦め、権力・
宗教への盲従を引き起こす。このような現代の状況は、「民主政」
の名のもとに帝国として他の弱小ポリスを支配したアテナイでのソフィスト的言説、たとえば、トゥキュディデス『戦史』第五巻が描く
「メロス島対話」を彷彿とさせる。力と言論による他者支配については、ゴルギアスの言論を後で見る。また、
正義や法を人為の産物に過ぎないとする見方は、ソフィストたちの「法・慣習と自然本性」区別に由来する。それに依拠して、社会の「正義」
に根本的な疑問を向けるグラウコンのソフィスト的議論は、現代においてより現実的な力を持っている(プラトン『国家』第二巻)。


最後に、「個性的な生き方、自分らしい生き方、独自の価値観」を求めるという現代の社会幻想が、若者にプレッシャーを与えながら、
結局は画一的なファッション、落伍と無力感を生む状況を指摘しよう。「自分」など、安易に見出すことはできない。
自己が暗黙のうちに従っている価値観を相対化できずに、「自己」を甘く絶対的する傾向が、現代相対主義の一つの帰結である。
ソフィストと哲学者の間で、「他者」と「自己」をどう捉えていくかが、やはりこの状況を反省する鍵となる。


相対主義と多元主義との混同を整理し、健全な相対的視点た多元的な価値観を確保することは、現代における哲学の急務である。他方で、
ある絶対的なものへの希求が、人間が善く生きることにおいて本質的である限り、ソフィストの思想を丁寧に分析しながらも、
それと何らか根本的に対決することが、哲学の使命であり続ける。


(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)



現代日本におけるソフィストたち

テレビ番組や映画で馴染みのアメリカ流弁護士の活動、つまり、陪審員を説得するさまざまなレトリックや駆け引き、
口先で白黒のすべてが決定されるあり様は、現代版ソフィストの痛快活劇といってよい。
日本では司法制度の違いから同様の自由な活動は見られないが、ことジャーナリズムに関しては、アメリカと大差ないと言える。
ワイドショーやパフォーマンスに満ち溢れた討論番組は、言論の効果や印象を最大限に追求し、人々への迎合で世論を煽りながら、
それがもたらす教育影響に無反省であり続ける。その底辺には、身もふたもない保守的な価値観と権威への迎合が、またその反面、
嫉妬や憎悪や好奇心といった感情を煽る態度が蔓延している。そういった番組に「知識人」の名で登場し、
無責任な言説を垂れ流す学者や評論家たちも、原題のソフィストと言えるのかも知れない。


また実質的な政策よりも、マスメディアをつうじた派手な言動によって世論や人気を煽る政治家たちも、その延長線上にいる。
口下手ではあるが根回しの特異な旧来の日本型政治家(といっても、戦前には尾崎行雄のような雄弁な政治家が稀ではなかったことも想起したい)
に代わって、テレビの討論番組で瞬時に機転のきく言葉を発して聴衆の印象を勝ち取ることに長けた政治家が、
たしかに増えているように見受けられる。


大学の頂点とする学問・高等教育機関は「アカデミズム」と呼ばれ、プラトンの学園「アカデメイア」の名を受け継いでいる。しかし、
それは、授業料を取って学生に知識を与える教育産業へと傾斜しており、実用性や効率性を強調する昨今の風潮は、
ソフィスト的な教育を助長させているかのようである。受験という具体的目標のために学生に知識を与える予備校なども、それと相補的に見える。


私たちがソフィストの負の側面としてイメージする現象は、現代の日本社会でもいたるところに見られる。その意味では、ソフィストは、
現在の私たちの生にとっても、きわめてリアルな問題である。


にもかかわらず、私たちはプラトンのきびしい批判もソフィストたちの妖しい力も、共に忘却しきってしまっている。ソフィストは、
私たちが呼吸する空気のような自明さをもって、私たちの回りに、そして私たち自身の内に棲みついているのかもしれない。


(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)



2007/05/22

近代におけるソフィストの復権

ソフィストに積極的な意義を見ようとする復権の方向は、とりわけ、ゴルギアスが発展させた弁論術(レトリック)の再評価として、
ここ数十年盛んになっている。伝統的にレトリック研究が盛んなフランス、イタリアに加えて、近年ではアメリカでも、
コミュニケーション理論としてのレトリックの意義が真剣に取り上げられ、その歴史的源としてソフィストが注目されている。この流行は、
ソフィストへの積極的評価と同時に、「反哲学」としてソフィストを復活させることにもなる。

ソフィストと哲学者の対置を尖鋭化し、その評価を逆転させたのが、ニーチェ以来の現代思想による「哲学批判」であった。
ニーチェは哲学の反動性をきびしく批判しながら、ソフィストこそが「ギリシア的」であると評価する。


「この瞬間はきわめて注目に値する。すなわち、ソフィストたちがはじめて道徳の批判に、はじめて道徳に関する洞察に着手し始める。」
(『力への意思』)


ソクラテスやキリスト教を「奴隷道徳」として徹底的に批判するニーチェにとって、自らが従事した「道徳の批判」
の始まりの栄誉を帰する意味は大きい。ニーチェ以降の伝統的な西洋「哲学」への反省は、ソクラテスとプラトンの知性主義を批判し、
それと対照的にソフィストを「反哲学」のヒーローとして称揚していくのである。


カール・ポパーは、有名な『開かれた社会とその敵 第一部』で、プラトンの全体主義的な思考を攻撃するにあたり、
ソフィストの自由で開かれた思考を評価した。ポパーにとってプロタゴラスやゴルギアス一派は、
反貴族主義的で平等主義的な人間主義を提唱した理論家であった。同様に、エリック・ハヴロックは、民主主義を擁護し相対主義・
多元主義の基盤を準備したプロタゴラスを、ギリシア文明の英雄と考える。


歴史の忘却の淵から復活したソフィストは、さまざまに自己主張を始めている。ソフィストは哲学に貢献した重要な思想家、あるいは、
反対に哲学そのものを批判した英雄とも見なされている。だが、ソフィストは、
各論者の時代や思想を映し出す鏡となっているに過ぎないのかもしれない。「ソフィストとは誰か」、その本質はいまだ明らかにされてはいない。


(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)



「ソフィストとは誰か」という問い

本書で論じていくように、ソフィストは、つねに哲学そのものの可能性への挑戦として、私たち自身に問いを突きつける存在である。
私たちはソフィストと対決することによってのみ、哲学の可能性を手にすることができる。とすると、ソフィストを忘却してきた哲学の歴史こそ、
問い直されるべきものではないか。ソフィストを消し去ったこの二千年にも及ぶ哲学史は、その実、哲学が成立していない状況、「哲学」
が名のみさまよう舞台であったのかもしれない。それとも、「ソフィスト」という職業が消えても、哲学者の営みにおいては、
実にソフィストは変わらず重要な役割を演じ続けてきたのであろうか。


十九世紀半ばに、ドイツの厭世哲学者ショーペンハウアーは、「大学の哲学について」という論文で、同時代のフィヒテ、シェリング、
そしてヘーゲルを、似非哲学者、ソフィストとして、徹底的に非難した。そこでは、真理の探究に従事する本当の哲学者に対して、
金銭を稼ぐために哲学に従事する学者が対比され、プラトンの対話篇『プロタゴラス』でのソフィスト批判が、直接に参照されている。
ショーペンハウアーは、自らの哲学の基礎をプラトンとカントに求め、当時流行のヘーゲル哲学に対抗したことで有名である。「ソフィスト」
という古代の名称は、同時代のライヴァルを攻撃するレッテルとして、かろうじて姿を留めていた。


ソクラテスが自らの生において、そして、プラトンが対話編において示した「哲学者」とは、人々の生を吟味に晒し、
社会のあり方を批判する危険な存在であった。ソクラテスは、彼の対話を交わした多くの人々の反発を惹き起こし、
やがて裁判にかけられ刑死する。しかし、やがて「哲学」が学問や職業として確立され社会に定着すると、その存在は自明視されてしまう。
当初哲学が突きつけた厳しい問いは、専門家集団の内輪のパズルへと回収されて、象牙の塔のなかの遊戯と化してしまう。現在「哲学者」とは、
大学で専門的な問題を論じ、過去の思想を教えることで給与をもらったり、哲学書と称する書物を世に出すことで社会に権威をもつ職業人
(プロフェッショナル)を意味している。


だが、自明の栄誉をもって認知されている時、哲学はむしろ死に瀕しているのかもしれない。デカルトの「魔物」やカントが対決した
「懐疑論」は、哲学そのものの可能性を根源から問い直すことで、真摯な思索の途を切り拓いていった。私はそのような事態、すなわち、
哲学の成立と可能性そのものを、ギリシアという原点に立ちもどって捉え直したい。そのために、「ソフィストとは誰か」
という問いを考えたいのである。


もし私たちがソフィストの問題を忘却しきっているとしたら、その時、私たちは真に哲学に与ってはいない、というべきであろう。他方で、
ソフィストとは、そのような忘却の暗闇に逃げ込むことを本性とした存在である(プラトン『ソフィスト』参照)。
ソフィストは哲学者と区別された存在でないと思わせることが、ソフィストの本領なのである。その意味で、ソフィストの忘却こそが、
ソフィストによる哲学への挑戦の成功ともいえる。そのソフィストを明るみ引き出し、それと正面から対決していくことにより、
私たちははじめて、哲学する者となり得るのではないか。


(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)



2007/05/20

共和制における学校と哲学の位置

共和国においては、各々の村にふたつの重要な場所がある。ひとつは、選挙で選ばれた代表者が公共の事柄について議論をする役場であり、
もうひとつは教師が子供たちに教師なしで考えること、すなわち自律を教える学校である。いや、もう少し分かりやすいイメージを使えば、
国民議会とソルボンヌ大学ということになろうか。デモクラシーにおけるふたつの重要な場所は、寺院とドラッグストア、
あるいはカテドラルと証券取引所である。


共和国は、子供のなかに人間を見る。そして、たとえ子供を押さえ込んでしまう危険をおかしても、
子供のなかの成長すべきものに対して働きかける。デモクラシーは人間のなかの子供に気に入られようとする。
大人として扱うと退屈させてしまうのではないかと恐れるからだ。いかなる子供もそれ自体として愛らしいということなどない、
と共和主義者は言う。彼は子供が精神的に向上することを欲するからである。これに対して、
人間というものは突きつめれば大きな子供なのだから、みな愛すべき存在なのだ、とデモクラットは結論づける。もう少しはっきり言えば、
共和国は子供が嫌いで、デモクラシーは大人に敬意を払わないのである。


共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。その場合の学校の任務はといえば、
それは何事も自分の頭で考え判断することのできる市民を養成することにある。ところが、デモクラシーにおいては、反対に、
学校が社会に似ていなければならないのである。デモクラシーにおける学校のもっとも重要な任務とは、
労働市場に見合った生産者を養成することなのだ。その場合、学校は「社会に対して開かれて」いることが要求されるし、
また教育は各人が好きなように選ぶことができる「アラカルトな教育」でなければならない。共和国においては、学校は囲い壁の背後にある、
固有の規則を持った閉ざされた場所以外のなにものでもない。この社会から閉ざされているという性質がなければ、学校は、社会的、政治的、
経済的、宗教的な力の矛盾した作用に対して、独立性(ライシテ=非宗教性の類似語だ)を保つことができないのである。
学校についてこんな言い方をするのは、人間を彼の置かれた環境から解放しようとする学校と、逆に、
その環境によりよいかたちで送り込もうとする学校は、名前は同じでもまったく別物だからである。
共和国の学校は知性豊かな失業者を生み出すと言われ、デモクラシーの学校は競争力のある馬鹿者を育成しているというわけだ。
これは両陣営による意地の悪い批判の応酬である。


共和国は学校が好きだ(そればかりか学校を讃える)。デモクラシーは学校を恐れる(そしてないがしろにする)。しかし、
両者がいちばん愛し恐れるもの、それは依然として学校における哲学教育である。
ある国が共和国なのかデモクラシーなのかを区別するもっとも確かな方法は、哲学が高等学校で、
すなわち大学入学以前に教えられているかどうかを調べることである。
ヨーロッパのもっともデモクラティックな地域であるプロテスタント文化圏の北ヨーロッパでは、
高校最終学年で哲学教育の代わりに宗教教育がおこなわれている。デモクラシーの教育システムにおいては、
哲学はやってもやらなくてもいい情操教育の補完程度に考えられており、牧師と詩人が分担して受け持っている。他方、共和制では、
哲学は必修科目である。そして哲学教育の目的は何かといえば、それはさまざまな理論を提示することではなく、
生徒たちの心に問題意識を発生させることにある。共和制において、知識人を民衆に有機的に結びつけているのは、
生徒の社会的出自がいかなるものであろうと、学校なのであり、そのなかでもとりわけ哲学の授業なのである。


(「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」 レジス・ドゥプレ 水林章訳)


(補足1:カテドラルとはカトリック教区のこと)

(補足2:本文は1989年にフランスでおきた「イスラム・スカーフ事件」論争におけるドゥプレの意見を提示する形をとっている、
共和制において教育は重要であるのは間違いないが、底流に本事件があるのも忘れてはならないと思う)

(補足3:ライシテ(非宗教性)とは、日本で言うところの「政教分離」のこと。フランス憲法の第一条に示されている根幹にある原則。無論、
ライシテは宗教弾圧ではなく、諸々の宗教の共存を可能にする仕組み。学校では教師といえども宗教的表示する印「たとえば十字架」
を身につけることはない。)



よい政治を作るのは思いやりや道徳ではないというのが共和主義的な考え方

共和国を作るのはまず何よりも共和主義者であり、彼らの意思である。デモクラシーは人々が相対的に無関心でも、形式主義的に、
すなわち法的文書の冷たい客観性にしたがって機能する。選挙で50パーセントの棄権者が出ると、共和国はその内実を失ってしまうが、
デモクラシーにはそういうことがない。法律家の政府は共和主義的なものではありえない。それは、
立法者である人民が主権を奪われるという理由だけからではない。法律家の政府のもとでは、
ひとりひとりの市民が法の命じるところを心の底から欲する必要がなくなってしまうからである。


それゆえ、このことは、デモクラシーが、私的なものを混同し、
そしてまた個人の優れた資質と市民としてはたすべき義務を峻別することがないがゆえに道徳を大切にするということと矛盾しない。
デモクラシーにおいては、慈悲が正義と取り違えられることがよくある。ピエール師は人の進むべき道を照らす光であり、赤十字と
「心のレストラン」が「社会問題」に対する満足のゆく解決だと見なされてしまうのである。私的なものと公的なものをはっきりと区別する -
 その理由は、宗教的世界と世俗的世界の区別と同じだ - 共和国は、公人をその私生活によって判断しようとはしない
(アメリカはそういう国だ)。共和国が大切にするのは市民精神である。よい政治を作るのは思いやりや道徳ではないというのが、
共和主義的な考え方なのである。


(「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」 レジス・ドゥプレ 水林章訳)


(補足1:ここでいうデモクラシーとは新自由主義的な意味合いと受け取って欲しい。当然に共和主義は民主的である)

(補足2:ピエール師とは訳注によれば、
1912年生まれのカトリック司祭でホームレスなど社会的弱者を救済するために献身的な活動を展開している方)

(補足3:「心のレストラン」とは、コミック俳優コリュッシュが1985年に創設したホームレスのための無料レストラン)



2007/05/17

過労死は自己管理の問題

自己管理しつつ自分で能力開発をしていけないような人たちは、ハッキリ言って、それなりの処遇でしかない。格差社会と言いますけれど、
格差なんて当然出てきます。仕方がないでしょう。能力には差があるのだから。
結果平等ではなく機会平等へと社会を変えてきたのは私たちですよ。下流社会だの何だの、言葉遊びですよ。
そう言って甘やかすのはいかがなものか、ということです。


さらなる長時間労働、過労死を招くという反発もありますが、だいたい経営者は、過労死するまで働けなんて言いませんからね。
過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います。ボクシングの選手と一緒。ベストコンディションでどう戦うかは、
全部自分で管理して挑むわけでしょう。自分でつらいなら、休みたいと自己主張すればいいのに、そんなこと言えない、
とヘンな自己規制をしてしまって、周囲に促されないと休みも取れない。揚げ句、会社が悪い、上司が悪いと他人のせい。


ハッキリ言って、何でもお上に決めてもらわないとできないという、今までの風土がおかしい。たとえば、祝日もいっさいなくすべきです。
24時間365日を自主的に判断して、まとめて働いたらまとめて休むというように、個別に決めていく社会に変わっていくべきだと思いますよ。
同様に労働基準監督署も不要です。個別企業の労使が契約で決めていけばいいこと。「残業が多すぎる、不当だ」と思えば、
労働者が訴えれば民法で済むことじゃないですか。労使間でパッと解決できるような裁判所をつくればいいわけですよ。


もちろん経営側も、代休は取らせるのが当然という風土に変えなければいけない。うちの会社はやっています。だから、
何でこんなくだらないことをいちいち議論しなければいけないのかと思っているわけです。


(2007年1月13日 週刊東洋経済 ザ・アール代表取締役社長 奥谷禮子)


追記:この意見はある意味、新自由主義者の本音に近いのではないか。単に暴言とすまされないように思う。



世界の労働事情

弘前市の女性は縫製の仕事をしている。01年に時給604円だったが、06年に610円になった。
青森県の最低賃金が610円になったからだ。5年間で6円の値上げはあまりに少ないので、会社に交渉したら。「中国人の研修生は、
時給300円で働いている。不満なら辞めろ」と言われた(朝日新聞 07年2月6日)。


ILO報告によると、東南アジアの若年(15~24歳)失業率は95年は9.7パーセントだったが05年には16.
9パーセントになった。アジアの人口増加が背景にある。2050年までにインドで5億7000万人、パキスタンで1億6000万人増加し、
その内、0歳から14歳までの子どもが30パーセントを占める(朝日新聞、06年8月29日)。


同調査で、世界の若年総人口は10億人、労働人口は6億5700万だが、失業は13.5パーセントで、
95年から05年までに1000万人増えた。人口増が13パーセントで雇用増が4パーセントだからだ。中東と北アフリカの若年失業は25.
7パーセントだ。全失業者の44パーセントは若者だ(朝日新聞、06年10月31日)。


韓国では無職の若者が120万人、「白手=ペスク」と呼ばれ、軽蔑の眼差しでみられる。逆に若者たちは56歳以上の人たちを
「あんたたちがいるから我々が就職できない」といい「給料泥棒」と呼んでいる。(朝日新聞、07年1月7日)。問題を個人化し、
互いに憎しみ合う心性はグローバル資本にとって都合がいい。


韓国では高学歴者ほど就職難である。大卒正社員は50パーセント弱で、過半数が短期の単純作業に就く。
日本の大学進学率は52パーセントだが、韓国は82パーセントにもなる。教育と学歴がいかに幻想をふりまくかが分かる。


06年の3月から4月にかけ、フランスでは、新雇用法に抗議して300万人の市民や学生や労働者がデモに参加した。アメリカでは、
移民規制の抗議デモは200万人に達したから、仏米同時に数百万の人々が街頭に出たことになる。


フランスでは輸送関係労働者と学校教職員がストに参加した。若者が線路や道路に侵入し、交通網が寸断された。全国で13パーセント、
パリでは40パーセントの高校で授業ができなかった。


ロスアンゼルスでは5万人の高校生がウォーク・アウトと称して、学校の塀を乗り越えて歩き始めた。それに呼応しアリゾナ・シカゴ・
ニューヨーク等の高校生がネットで連絡し、ウォーク・アウトをした。


フランスの新雇用法では、26歳未満の若者を理由なく解雇できるようにしようとした。若年失業率が9パーセント、
高卒失業が14パーセント、中卒失業が40パーセント、移民系の若年失業は50パーセントに達する。失業率50パーセントとは、
進学しない者のほぼ全員が失業していると見た方がいい。


アメリカの場合、1986年の移民法改正で、その時までの移民が合法化された。だがその後の移民が後を絶たず、
新移民は1200万人になり、各地で移民を締め出す動きが生じた。移民のために「医療や教育費の負担が増し、国益を損ねる」との声に応え、
政府は移民制限法を出した。


ラチーノといわれるヒスパニック系の人々は、建設業や農業や清掃や調理の仕事に就き、安い賃金で働いてきた。
それを犯罪者扱いするのは何事か、と反発している。不正移民取締法が通れば、アメリカ国籍を持つラチーノの子たちが、
国籍のない親と別居せざるを得ない。


フランスとアメリカ両国とも、共通の背景がある。労働力の国際移動だ。アメリカは直接移民が問題となっているが、
フランスも東欧や中近東からの移民があり、それが国内の雇用を悪化させたからだ。


先進国政府は、移民を止めれば自由化に反することになり、移民を止めなければ、
国内の若者や労働者の反発を招くジレンマに立たされている。グローバル経済の動きを止めない限り、解決しそうもない。


多国籍企業はアジア・アフリカ・ラテンアメリカと東欧諸国の経済格差を利用して収益をあげ、物と金が国境を越えて移動しているのに、
人の移動だけをストップするのは不可能である。


世界の最低賃金は3億5000万人(OECD調査)いる児童労働の賃金だろう。中でも1億7000万人いるスゥエット・ショップ
(搾取工場)では時給6円である。経済の自由化が続けば、先進国の労働者の賃金が限りなくこれに近づく。


労働者の使い捨て時代に突入した。「クリネックス・レイバー」と言われ、労働者がティッシュペーパーのように使い捨てられる。
各国の政府は国際労働市場のシステムを変えずに、劣悪な労働条件を国民に強いている。
このシステムを作ったのはWTOに結集した多国籍企業だが、その力は国家を凌駕している。


フランスやアメリカの抗議デモや若者の暴動はこのシステムに反対した。「このシステムが国民の将来の生活を脅かす」という意識があり、
その意識を持つ人々が数百万人に達した。


数百万のデモは日本で見たことがない。日本の労働者や若者も同じ状況に置かれているのに、それに気づいていない。この国では、
心性操作が巧みに行われているからではないか。自らの置かれた状況への認識を欠くことが怖い。全体状況を知らずに、
身辺に見る犯罪や貧困を個人のせいにし、「誰か悪いヤツが隣にいる」と思う。その思いが民衆ファシズムにつながる。


(「現代思想」 2007年4月号 「教育と心性操作」 佐々木賢)



2007/05/16

右翼は何故テロに走るのか

早野透(はやのとおる):右翼はなぜテロに走るのか、鈴木さん、お願いします。


鈴木邦男(すずきくにお):私も十四、五年前まで過激な運動をしていましたから、放火をする人の心情も少しはわかるのです。
それは発言の場がないので、何か事件を起こせば、少しは動機や志も取り上げてくれるだろうということなんです。絶望感なんです。


それからいま、どんどん社会が右傾化していますから、一部にはソ連も崩壊したし、
自分たちの望むような時代になったから右翼を止めようという人もいるんですが、一方で昔から右翼をやってきた人たちの中には、
最近ちょっとでてきた保守派の文化人や評論家のほうが過激な物言いをするので、自分たちは乗り越えられてしまったのではないかという焦り、
不安を感じる人もいる。そうすると、俺たちには言論の場がないから身体でやるしかない、ということになる。侠気の世界ですからね。


加藤さんがおっしゃられたように、テロリズムが言論とまったく別の世界で起こっているかといえば、そうではない。
言論がテロを焚きつけているんです。

右翼の場合、大体、二次情報、三次情報を読んで「けしからん、こいつは国賊だ」となることが多い。それは、『諸君』とか『正論!』とか
『Will』を読んでということもあるし、あるいは、私は最近新聞のオピニオン雑誌の広告などを見て「どこかで見た風景だな」
と感じたのですが、あれは全共闘時代の立て看と同じなんです。「××をやっつけよう」とか「××粉砕」とか、激越に、
やっつけるべき敵を示している。

いまは「ちょっと待てよ」という雰囲気がないのです。「そこへ行くと危ないんじゃないか」とか「ナショナリズムは暴走するんじゃないか」
とか、ゆっくり考えたり話したりではなくて、パッと決め付けたほうが勝ってしまう。

私はこういう問答時代の時代にあって、大事なことは、どんな危険な、偏向した考えでも、過違ったと思える考えでも、
一度言論の場に上げるということだと思います。そしてそれを言論の場で批判する。

私が変わったのも言論の場を与えられたからです。言論の場というのは非常に厳しいものだと思いました。怖いと思った。
しかしそこからやらなければ一般の人にも伝わらないし、ただの犯罪者で終わる、それではダメだと思ったのです。


(「世界」 岩波書店 2007年1月号「いま「言論」の自由を考える」)



愛国心とは

佐高信(さたかまこと):加藤さんの実家を焼いた人は自分を「愛国者」だと思っているでしょうね。加藤さんは「愛国者」
じゃないという位置づけをする。しかし、愛国には、様々な方向があるというふうには考えない。

私はいま、夕刊フジに「西郷隆盛伝説」を掲載しているのですが、西郷は皆愛国者と思っているでしょう。
愛国者の代名詞のように考えられている。ところがその西郷は靖国神社に祀られていない。西南戦争で政府に歯向かったからです。

私は「靖国に参拝して何が悪い」という小泉氏に西郷のことを聞いてみたかったのですが、愛国は靖国の専売特許などではないということですよ。
つまり、加藤さんも私も、別々の方向から愛国者なんです。

私が安倍晋三氏をとてもいやだと思うのは、教育基本法でも何でも、すぐに愛国心というでしょう。私はそれをストーカーだと言っている。
愛を押しつけるストーカーですよ。政治家の役目は日本を愛される国にすることであって、愛を押しつけることではない。俺だけが愛国で、
あいつは違うというのが一番困る。


鈴木邦男(すずきくにお):右翼が愛国者になるのは簡単なんです。左翼なら、
マルクス主義とかそれなりに学ばなければならないでしょうが、右翼の場合は「俺は愛国者だ」、それで終わりなんです。

私は5000回君が代を歌いましたし、5000回日の丸を掲揚したし、500回靖国神社に参拝しました。
愛国者のノルマは達成したと思います。だから何でも言える。愛国心というのは自己申告なんです。それは心の中で持っていればいい。
公言するものではないと思います。

俺は愛国者だという人間に限って、愛国者でない人間が多い。同じような考えの二人が話すと、俺は一番愛国心を持っている、
俺は天皇陛下のために死ねるなどという話になって、大体声の大きい、過激な方が勝つ。ではその人が日本一の愛国者かといったら、
そんなはずはない。私はそういう人に何千人と会って来たけど、ほとんど嘘でしたね。


早野透(はやのとおる):今の臨時国会では、教育基本法改正案がテーマになっていて、問題の一つが愛国心です。
小泉氏も安倍氏も愛国心は学校で採点できないと言っているのですが、改正案反対運動の先頭に立っている小森さん、一言。


小森陽一(こもりよういち):愛国心というのは、歴史的に作られたもので、その起源もはっきりしています。
十八世紀末のフランス革命以後、国民国家(近代国家)が生まれた頃から国家にとってどうしても不可欠なものになったわけです。
それまで戦争は貴族とか武士とかプロフェッショナルがやってきたのですが、国民国家になると国民皆兵制になり、
農民も商人も戦争に動員される。国民全体に、国家のために人殺しは正しいと教え込まなければならなくなったのです。これが愛国心です。


今度の与党の新教育基本法案で、私がもっとも許しがたいと思うのは、第二条に「我が国と郷土を愛する態度を養う」とある部分です。
「我が国と郷土を愛する態度」を学校で示すということは、どういうことになるのか。日の丸遙拝や、君が代を大きな声で歌うとか、
そういう馬鹿げた世界になるのではないか。

学校を、国家の意思を子どもの体で表すような場にしていいのか。かつて日本の軍隊で、
態度が悪いと上官からぶん殴られて人殺しの専門家にさせられていったのと同じことになる。

二十一世紀の現在、とりわけ私たちの住む先進国の政治の役割とは何か、ということを考えます。つまり、かつて政治の機能は、
ニューディールであれ、社会民主主義であれ、どこかが儲かったらそれを政治力で再分配するということだった。

ところが新自由主義で、全部市場に任せよという時代になると、巨大な資本の集中が起きる一方でリストラされたりして落ちこぼれる人が出ても、
もはや国家は救わない。社会保障も医療保険も全部切り捨てていって、負け組は自己責任だから勝手にせよということになる。
そういう人たちの中に、下からのテロを生みだす土壌が生まれてきていると思う。


(「世界」 岩波書店 2007年1月号「いま「言論」の自由を考える」)



格差とアンフェア

淺野史郎:では、日本の格差社会の問題はどうですか。


宋文洲:正直言って、国に富がたまると格差が自然に広がる。これはどうしようもない。逆に貧乏な社会は格差が少ない。


淺野:僕がいまいちばん気になるのは、同じような仕事をしながら、たまたま正社員として遇されるのと非正規雇用とでは、
報酬や処遇がまったく違う。これはそのままにしてはいけない格差でしょう。


宋:僕も全く同じ見方です。ただし、その場合は「格差」とは言わない。これは「アンフェア」だと言っているんです。不公平なんです。
しかも違法性がある。これは許せないと思う。格差じゃない、これはアンフェアですよ。


淺野:アンフェアと格差は違う。


宋:違う。格差というのは、あくまでチャンスが均等の下でもたらせられるものです。


淺野:たまたま結果がそうなった、ということですね。


宋:そうです。たとえば世襲も格差じゃない。自民党はほとんど世襲制でしょう、今。そこから生まれた格差は格差じゃない。
これはアンフェアです。それから、経営者の二代目が全部また経営を相続した上で会社のお金を自由に自由に使うというのも格差じゃないね。
これは社会システムのアンフェアです。法律で直すべきです。


淺野:なるほどね。どれが許される格差なのか、結果としての格差なのか、
それともアンフェアなのかということを見極める目も必要だということですね。


淺野:話は変わりますが、日本と中国の関係について、新しい展望みたいなものはお持ちですか。


宋:僕は、日本と中国のこの二、三年間の国民感情の悪化をもたらした唯一の理由は政治だと思っています。簡単です。
政治によって悪くなった環境は、政治によってまたすぐ回復する。日中の国民同士は、
お互いに許せないという気持ちを持っているわけでは決してないと思う。たとえば、もし中国人が本当に日本人のことが嫌いだったら、
はっきり言って、日本製品は中国であんなに売れるわけがない。本当に感情的なレベルで対立の根が深いのならば。

あと、僕は北京にも家があるんですが、北京で生活している北京の街の日本人の多さに気づきます。日本料理屋さんの多さ。
ごく普通のように日本人が溶け込んでいる状況。もちろんデータを見ても、日中の貿易額は、香港を除いた数字ですが日米の貿易額を越えている。
日中の貿易はどうして成り立ったのか。一つひとつの電話、一つひとつのファックス、一つひとつのメール、一つひとつの面談の結果なんです。
要は、経済に関わっていない人間には理解できない深い結びつきの根が、そこに張っているんですよ。

これまでの日中関係というのは、田中角栄さんや周恩来さんによって、ただ政治によって訴えられた日中友好から、
だんだん政治と関係ない経済のレベルや文化のレベルで、隅々までお互いに絡み合ってくるようになってきました。
政治の側が悪くしようと思っても、なかなかできないような状況になってきました。それを、
今回明らかに政治の側はもっと悪くしたかったんですよ。でも国民は、これ以上はもうやめてくれ、と。
国民世論は政治に対してノーを言い出しているから、政治家も軌道修正をせざるを得ない。これは日中双方がそうなんだよ。


淺野:お互いがお互いを必要としている関係が、経済的にも、もう後戻りできないくらいにできてしまったということですね。


宋:そうです。仲良くするいちばんの方法は、お互いの利益を、お互いが共有することです。口で言っているだけではやっぱり危ない。
夫婦関係で言うと、子どもができたら離婚しにくいのと一緒よ。


淺野史郎:慶應義塾大学総合政策学部教授。前宮城知事

ソウ・ブンシュウ:1963年、中国山東省生まれ、ソフトブレーン株式会社マネジメント・アドバイザー、工学博士


(「世界」 2007年1月号 「合理主義で日本を変える」)



2007/05/11

ダイアン・アーバスが恐れていた評判

ダイアンが恐れていたのは、自分がただ「奇形者を撮った写真家」として知られるということだった。自分の動機が誤解されるのは、
たまらないことだった。他の写真家以上に覗き趣味があるわけではなかったし、「病的」でもなければ「異常」でもなかった。ただ、社会が
「倒錯」とか「不浄」というレッテルを貼ったものに魅せられた自分の気持ちを正直に表現しただけなのだ。


ダイアンに言わせれば、顔や境遇に興味をひかれた人たちの写真を撮りたかっただけなのである。その頃には、
1959年から書きためてきたノートがかなりの量に達していた。そこには、何百人もの人生の短い挿話-ロマンス、苦悩、災厄-が、
ほとんど判読しがたい文字で走り書きされていた。だが、名前がちゃんと書かれていないので、それが誰だかはわからない。それらの秘密は、
異常者とそうでない人びとが、撮影の過程で彼女を信頼して打ち明けてくれたものだからだ。ダイアンは彼らの話にいつも喜んで耳を傾けた。
彼らの話の内容ばかりでなく、それによってかきたてられる自分の反応にも強い興味をおぼえた。おたがいに言葉をかわし、
ダイアンがカメラのシャッターを押しはじめると、両者を隔てていた溝-人種、年齢、期待、さらには狂気という溝まで-が、
しばしのあいだ消滅してしまったからだ。


秘密を話し、分かちあうことで、ダイアンと被写体とは個人的に結びついたが、これこそがまさしく彼女の仕事の核だった。
何かを秘密にすることは、それを価値あるものにするひとつの方法でもあった。秘密が神秘性を深め、聖なるものへの信仰をうながした。
秘密が小人とユダヤの巨人の満たされぬ渇望をきわだたせ、両者を結びつけたのである。


想像力に富んだ写真家の例にもれず、ダイアンも写真というメディアの限界を感じた-したがって、
そこに物語や秘密を介在させないかぎり、彼女の映像は無意味だった。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P434-P435)



ダイアン・アーバス 近代美術館での観客反応

ダイアンは毎日のように美術館を訪れ、自分の作品のそばを歩きまわって耳をすました。そして、こう言っている。
「人の言うことを聞くのは好きです・・・・・・ひとりの婦人は写真を見てこう言いました。『このダイアン・
アーバスという写真家に会ってみたいものだわ』。つまり、こんなに気味の悪い写真を撮るからには本人も気味の悪い女だろうというわけです。
ご夫妻でやってきて、ご主人のほうが『これはいい写真だ。この人たちを昔から知っているような気がするよ』と言ったところ、奥さんのほうは
『まさか』と叫んだものです」


しかし、やがては耳をそばだてるのにうんざりしてしまった-感想のほとんどが「奇妙だ」、「醜い」、「いやらしい」、「誇張している」
、「ぞっとする」といった蔑みの言葉だったからだ。


友人たちからは、もっと心を強くして人が作品に否定的な意見をはいても平然としていられるようになれと言われた-人が何を言おうと、
それはその人間の問題であって、自分とはかかわりがないと考えるように、と、ジョン・パトナムは、ガートルード・
スタインがピカソをさとしたときの言葉を引用した。「すべての独創的な芸術は最初こそ違和感を与えるが、やがては受け入れられるのだ」と。


それでも、ダイアンはしだいにおちこんでゆき、ほめられても手放しで喜べなくなった。
じぶんとしてはひとりでこつこつ仕事をするのが好ましいと考えていたのだが、いまでは写真界のみならず、一般大衆が彼女の仕事に関心を持ち、
これ以後は何をやっても人に注目されることになったのだ。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P433-P434)



ダイアン・アーバス「ニューズウィーク」誌インタビュー

写真展が始まってからまもなく、ダイアンは『ニューズウィーク』の記者アン・レイの長時間にわたるインタビューに応じた。
ある日の午後、会場を一緒に歩きながら、小人や怒っている子どものポートレートの前に足を止めて考えながら、ダイアンはこう告白した。
「近代美術館で写真展が開けるというのはたいへん嬉しいことです。すばらしい出来映えだと思うし、展示もみごとです・・・・・・でも、
ジョン・シャーコフスキーがいなかったら、わたしは出品しなかったでしょう。彼はすばらしい人です」そして、こうつけ加えた。
「この八年間を費やして-ずいぶん長いこと写真にうちこんできたわけですが-模索し-探求して-それまでやったことのないこと-
子どものときに夢みていたことをやりました-サーカスに通い・・・・・・サイドショーを見物し・・・・・・」。しかし、突っこまれても、
自分のモデルや彼らの境遇については、あたりさわりのないことしか話したがらなかった。


レイの印象では、「ダイアン・アーバスは人の秘密を聞きだすことには自信をもっていた」が、
それだけにその秘密は自分の胸にしまっておかなければならないと考えていた。「わたしは不器用なところで仕事をしています」と、
ダイアンは言った。「それに反して、リチャード・アヴェドンは優雅なところで仕事をしています。それはどういうことかというと、
被写体を前にすると、わたしは相手を動かすかわりに、自分を適用させてしまうのです・・・・・・しかし、
まずい写真を撮るのは大事なことです-まずい写真こそが新しい経験につながるのですから・・・・・・
カメラのフレームをのぞきこむのは万華鏡をのぞくのに似ていて、いくら振ってもきれいに拡がってくれないこともあります・・・・・・
わたしは取り得のない人間です・・・・・・やりたいことが何もできません。実際、やりたいことが何もできないようなのです。ただ、
スパイになるだけ。わたしが撮った人の中にはもう死んだ人もいるし、すっかり変わってしまった人もいます・・・・・・
わたしには要領のいいところがあります・・・・・・利口というわけではないのですが、どんな状況にも自分を合わせていけるのです。
わたしの選ぶ写真のプロジェクトは、どうしてかマタ・ハリのようになります。ただ生命を賭けるのではなく、自分の人格や評判を賭けるのです-
それほどのものがあるわけではありませんが」と言って、ダイアンは笑った。
「人は誰しもひとりの人間にしかなれないという制約のために苦しむのです」


ダイアンはニュージャージー州ロゼールで撮った瓜二つの双生児のポートレートの前で足を止めた。おそらくこれは、
彼女のヴィジョンの核心-正常の中の異常さ、異常の中の正常さ-を、他のどの作品よりも端的に表現していると思われる。「可愛らしい双子で、
まったく正常だと思いました」と、ダイアンはつぶやいた。「でも、社会によっては、双子は異常だとされ、忌み嫌われるのです」


やがて、ダイアンはまた別のポートレートの前で立ち止まった。
髪を漂白した豊満なバーレスク女優が散らかった化粧台の前に坐っている写真である。ダイアンは言った。
「この人はバーレスクがすたれたときのまま変わっていないようです。いつもベティ・グレーブルの髪型をして、
コルクの中底のついたプラットフォーム・シューズをはいているのです」


意識的に歪めて撮るのかと聞かれて、ダイアンはこう答えた。「写真を撮るというプロセス自体に多少の歪みがともないます・・・・・・
でも、わたしは歪めることには興味はありません・・・・・・自分の意図とカメラの機能をあれこれとかんがえざるをえなくなります・・・・・・
カメラはまったく言うことをききません、だから、両方のバランスをとるようにせいいっぱい努力します・・・・・・詩情、アイロニー、幻想、
すべてがそこに組みこまれているのです」


彼女の作品をジョゼフ・コーネルの箱にたとえる人があり、特に安物の美術品に埋まっているアパートの「未亡人」
のポートレートを見てそう言うと聞かされて、ダイアンは喜んだようだった。「わたしはコーネルの秘密が好きです。
小さな箱につまったあの小さな秘密が。それから、スタインバーグとピンターの『ホームカミング』にはとても惹かれます。
あの劇のセリフにはたくさん秘密がありますから」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P431-P433)



マリオン・マジッドのアーバス写真に接した時の心理的体験分析

アーバスの写真に接したときの複雑な心理的体験を、マリオン・マジッドは『アーツ』誌で鋭く分析した。


「身近な人間の寝顔を見てその奇妙さに気づいた者なら知っていることだが、これを見て誰しも一種の罪悪感をおぼえずにはいない。
(アーバスの写真を)見て顔をそむけなければ、その人はかかわりをもったのである。小人や女芸人の視線をとらえたとき、
写真と見る者とのあいだに和解が成立する。あえて見たことによって、一種の浄化作用が働き、われわれはうしろめたい切迫感を解消する。
いわば写真がわれわれに見ることを許すのである。つまるところ、ダイアン・アーバスの芸術の偉大な人間性は、一見、
彼女が侵害したように見えるプライバシーを浄化しているところにあるのだ」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P430-P431)


 



2007/05/10

生活習慣病とは

プロパガンダの一つの特性は、形容詞を多様することにある。ナチ政権下では「抜本的」や「永久的」ということばや、「悪い科学」とか
「適確な・不適格な」という表現を多用した。


例えが好きで、ガンを「ユダヤ腫」と呼び、「遺伝子欠陥者は国家のガン」とか「ガンは内戦を画策する革命分子、無政府主義者、
ポリシェビキ、共産主義者だ」といった。「発生期のガンは身体中の、他の人種と異なる細胞の新しい人種とみなすべきで、
治療の目的は病因となる人種の撲滅にある」とも述べている。


ベルリン大学教授のハンス・アウラーは「第三帝国が国民の健康維持を基礎としていることは幸いである。遺伝学・教育・スポーツ・
大学院研究・ヒトラーユーゲントや突撃隊・親衛隊での体育・結婚資金貸付・家庭衛生・隣保事業・職業斡旋等々の政府の政策はすべて、
ガン予防の措置と見なしうる」と政策の全てを称賛した。


なぜナチのことを紹介したか。ナチと同じ心性操作が今のアメリカや日本に多いからだ。2000年に日本の社会保障審議会で、「成人病」
を「生活習慣病」と改称することに決定した。命名したのは委員の一人、日野原重明である。


1937年、ドイツの遺伝学者カール・ハインリヒ・バウアーは「ガンの発生は生活習慣病」という論文を発表し、1939年、
アルトゥル・ヒンツェは「生活習慣と宗教が世界各地のガン発生率の違いを生む」と研究発表し、両説は熱心なナチ党員に支持された。(
「健康帝国ナチス」 プロクター 草思社)


生活習慣病には自己責任の意味が含まれる。健康保険が赤字の現在、自己責任で自己を管理し、医療費を抑制し、
ゆくゆくは公的保険を廃止し、民間保険に切り替えることを目指す。すでに混合診療の名のもとに民間医療保険が開始されている。


ナチ政権下で国民健康保険が実施されたが、自己責任を果たさなかった者に医療費の支給を抑えた。同じく日本でも、
このことばがでてきた直後に、健康増進法がだされ「健康は国民の義務」とされ、介護保険が改正され、
多数の老人や障害者が公的施設から追放された。


矢島嶺は病気の原因は三つあると説く。一つは有害物質や細菌や事故やストレス、二つ目は遺伝や加齢、
三つ目は食生活や運動や喫煙や休養の生活習慣である。この三者の内生活習慣のみを強調するのは、政治的意図以外何ものでもないと説いている。
(Bricolage 0六年五月号)


(「現代思想」 2007年4月号 「教育と心性操作」 佐々木賢 P117)



ダイアン・アーバス兄のハワードの写真論

「人びとのうちで、たとえば旅行者がそうだが、ある風景に接すると反射的に写真を撮ろうとする者は、わたしがみるところ、
人生にたいしてとても防衛的なのだと思う。彼らは死んだ現実を手に入れたがっているようだ。二次元の過去のみが真の(歴史的な)
実在だとでもいうように」


彼はさらに「カメラの第一の嘘」は「カメラは偽らない」とか、「一枚の写真は一千語に値する」という言葉だと語る。
物質文明の所産たるカメラが伝えるものは「『時間と空間におけるひとつの位置』(ホワイトヘッド)に置かれたもの」の外面にすぎない。
「それとは対照的に、言語がつねに示す現実は、目に見えない隠されたものであり、それはものそれ自体というより関係の所産なのだ。カメラは、
新聞記者がもとうと哲学者あるいは探偵がもとうと、秘密をさぐり、すべてを露出し、あらわそうとする・・・・・・カメラは知りたがる。
しかし、わたしの仮説が正しいとすれば、それによって得られる知識はつねに不満足なものであることが弁証法的に決定づけられているので、
写真を撮ることに終わりがありえない・・・・・・したがって粗略に扱われ、次の写真を撮るというかりそめの興奮の中で忘れられてしまうのだ」
。ハワードは次のように結んでいる。「写真(妹の芸術)にたいするこの批評は、無垢なものにたいする罪としての著述(わたしの芸術)と、
明確に対比させることを意図したものだ。たとえば、先に『言語がつねに示す現実は、目に見えない隠されたものであり、
それはもの自体というより関係の所産なのだ』と言った。これは審美的にはまったく筋の通った考えだと思うが、
もっと卑近な観点からも注目に値する。つまり、写真ではなく言葉と結びつくことによって、
わたしは両親のことをせんさくしてきたという非難からひそかに逃れようとしている。彼らの行ないはいぜんとして『目に見えない隠された』
ものなのだ」


『虚構の人生の日記』が出版されたとき、ダイアンは写真に関するハワードの考察は無視してほかの部分を読んだ。そして、
何よりも驚かされたのは、子どもの頃の記憶がそっくりだということだった。「わたしたちは同じ目録をもっている」と、彼女は語っている。
「ハワードは年のいかない少年の頃に味わった感覚を忘れることができなかった」。それは「(サンレモのアパートの)
エレベーターの前の窓のない廊下」に立ったときのもので「・・・・・・非常に不吉な感じだった。両側の扉は閉まっており、
三番目の引き戸も閉まっていた。それはぎりぎりの孤独をあらわしていた。(学校に行くためにエレベータを待っていたのだろうか?)」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



2007/05/08

年をとることについて、ダイアンアーバスの反応

一時期、ダンス教室に通って太腿の贅肉を取ろうとしたこともある。ひとりの女友だちが一緒だったが、
あるとき更衣室で着替えていたとき、ダイアンは彼女に年をとるのがこわいと打ち明けた。その頃、ダイアンはパームビーチの母親を訪ねた。
ガートルードはあいかわらず元気だった - なお美しく、「積極的で」、煙草を手放さず、買物を楽しみ、カード遊びに興じていた - が、
ダイアンの知っている他の人びとはそうではなかった。弱々しい老夫婦が -歩行器や杖にすがって - 日のあたる歩道をとぼとぼ歩いていた。
うつろな視線は虚空をさまよっていた。話題といえば心臓移植、使いやすい補聴器、動脈硬化や肝臓癌にかかった知人のことばかりだった。


そのような老人たちを目にすると、ダイアンはひどく気持ちが沈んだ。年をとりたくはなかった!
 肉体は老化するのに想像力は衰えないと思うとたまらなかった。自分の想像力が前よりもずっと鋭く、奇抜になっていると感じていたのだ。
あるとき、鏡にうつった美しい友人の顔を見つめながら、ダイアンは「あなたが羨ましいわ」とつぶやいた。年齢はあまり違わないのに、
彼女が皺ひとつなく張りきった滑らかな肌をしているので妬ましかったのである。そのあと、ダンス教室を出て通りを歩くときにも、
ダイアンは何度も羨ましいと繰り返した。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P460)



2007/05/07

ダイアン・アーバスからみたオズワルド夫人

ダイアンは、カメラを向けられる人間につきもののストイックな自己満足も観察しつづけた。その一例は『エスクァイア』
の編集室で撮ったリー・ハーヴェイ・オズワルドの母親のポートレートである。三十分しか時間がなかった。
オズワルド夫人がやってきたのは息子の手紙を雑誌に売るためだった。「息子の遺品を片っ端から売り歩いていました」と、
ダイアンは語っている。「それだけでなく、信じられないくらい誇らしげな顔をしていたのです -
 自分が世界一すごいことをやったというようでした・・・・・・経験をつんだ看護婦みたいにも見えました・・・・・・笑っていたけど -
 どこか不自然でした。何故笑っていたのでしょう? 何がそんなに嬉しかったのかしら? ほとんど話はしませんでした。
向こうは話をしたくてうずうずしていましたが。実際、彼女にとっては最高の瞬間だったのです。
(彼女の息子はケネディ大統領を暗殺したのですが)その様子は息子が何かすばらしいことをやってのけたというようでした。
息子を身籠もってからの四十年間というもの、自分がすべてを裁量してきたみたいで、信じられないほど威厳にみち、
誇らしげな表情を浮かべていました」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P392-P393)



ダイアン・アーバス、アメリカ横断旅行

1963年の晩夏に、ダイアンはマーヴィン・イズラエルにすすめられて、珍しくグレイハウンド・
バスで二週間のアメリカ横断旅行をしている。彼女は期待に胸をふくまらせていた。この旅行によって、祝いごとやページェント、
フェスティバル、コンテスト、家族の集まり、野球の試合などを撮影するというグッゲンハイムのプロジェクトが完成するはずだったからだ。


バスに乗ると、ダイアンはアメリカの広大な風景に目を奪われ、無数の新しい映像から目を離すことができなかった。
まばたきするあいだに、新しい世界を組み立てることができた。実りゆたかな果樹園、どこまでもつづくなだらかな丘、雨ざらしの廃車置場、
ネオンのきらめくモーテルがあった。工場、スラム街、葬儀屋、学校、動物園、ガソリン・スタンドがあり、
クレオパトラばりのどぎつい化粧をし、汚れたホームウェアを着た女たちがいた。あるバーでは、ジョン・F・
ケネディ大統領そっくりさんがよろよろと立ち上がり、ドイツ語で「わたしはベルリンっ子だ!」と叫んでいた。


旅先から、ダイアンは、未知のものを求める初めての冒険をともにしたフィリス・
カートンをはじめ幼な馴染みの友人に簡潔な文面の絵葉書を送り、別の友人にはこう書き送った。「何もかもすばらしく、息をのむばかりです。
わたしは映画の中でよくやるように、腹ばいになって前進しています。ばかげて聞こえるかもしれませんが、
人生がほんとうにメロドラマだということを知りました」


後年、ダイアンはこの全国横断旅行をして恐ろしい目にあったことをほのめかしたが、その経験がどういうものかはついに説明しなかった。
危険は刺激になったし、彼女はいつも危険をおかすことに喜びを感じていた。妥協は嫌いだった。危険だとわかっている相手でも話しかけて、
結果がどうなるかを確かめるのだ。それでいいではないか? 荒々しい洗礼を受けてはじめて「見ること」や「感じること」が可能になる。
カメラを盾としていればほんとうに悪いことなど起こりはしない、とダイアンは固く信じていたのだ。恐ろしいのは自分の内面だけだ、
と彼女は友人にもらしたことがある。外にあるものが自分に害を及ぼすはずはないのだ、と。


のちに、ドゥーンはこの旅行について知っているのはこれだけだと断って、次のように書いている。
アリゾナで臨時停車したバスに乗り遅れて、彼女の母親は「わっと泣きだし」、どうしてもニューヨークに戻り、
八歳になる娘のエイミーをサマー・キャンプへ迎えに行かなければならないと言った。「それを見て気の毒に思った人が、自分の車に乗せてくれ、
フルスピードでとばしてバスをつかまえた」。帰宅したダイアンは、この旅行は「力だめしだったが、なんとか切り抜けたので、
もうどこへでも行けることがわかった」と言った。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P380-P382)



ダイアン・アーバスにおける性

「ダイアン・アーバスほどあけすけにセックスを語る人はいなかった」と、フレデリック・エバースタットは言う。
「男にベッドを誘われて断ったことは一度もないと言っていた。そんな話を、ビスケットのつくり方でも説明するようにさらりと口にするのだ」


また故ジョン・パトナムはこう語ったことがある。「ダイアンによると、できるだけさまざまな人と性関係をもち、
肉体的にも感情的にも心理的にも真実の経験を重ねたいということだった。人間の殻を打ち破る最も手っとり早く確実な方法は、
性行為だとも言っていた。そういう経験を、ダイアンは『冒険』 - あるいは『イベント』 - と称していたが、実際、
彼女のすることすべてが『冒険』だった。自分の生活をそんなふうに語ることで、自分を高揚させ、正当化していたのだろう」


道徳の入りこむ余地はなかった。ダイアンに言わせれば、人間は男女を問わずに自由に、
できるだけ多くの変化にとんだ性関係をもつべきだった。しかし、そういった愛人たちから感情的に満たされるかどうかということになると、
話は別である。ダイアンは性のテクニックについては話すことができた - 硝酸アミル(オーガズムを長びかせるとされるドラッグ)
を使うとか、愛人のひとりからクライマックスに導かれ、エヴェレストの頂上に登ったような気分になるなどと。だが、
新たに長つづきする恋愛関係を保てるかどうか、あるいはそれを望むかどうか - 誰かに本当に打ちこむこと - については、
決して語らなかった。むしろ、もはや愛情など信じていないし、いわんや感情など問題ではないと言いきることが多くなった。


ダイアンの喜びは、多くの場合、いまでは自分が誘惑する側だということだった。写真の世界で成功するにつれて、
彼女はセックスの面でも積極的になった。カメラが彼女の身を守ってくれる盾であり、カメラをもっていれば禁断の場所に近づけるので、
彼女はそれを利用したのである。


ダイアンの話を聞かされた女友だちの中には、ダイアンが「安っぽいスリル」を求めているだけだと考える者もいた。
「彼女に自分の関係した男の話をされるとうんざりした」と、ある女性は語り、こうつけ加えている。「ダイアンの『冒険』
があんなに次元の低いものだとわかってがっかりしました。文字どおり流されているだけなのですから」。しかし、
中にはダイアンの勇気をほめる者もいた。ダイアンが「性交を通じて解放を求めている」(性の喜びを肯定する女性は政治的存在なのだ)
と信じたのである。つまり、ダイアンは性的要求を率直に認めるばかりでなく、実際に行動することによって、タブーを打ち破っているのだ、と。
(タブーを破ることにたいするダイアンの態度は、親しい友人たちによく知られていた。
自慰や生理の出血を誇らしく語ったのはダイアンが最初だったし、黒人に惹かれ、既婚者に欲望を感じるとも言った。)
ダイアンのためにヌードでモデルになったことのある若い画家、キャッシー・アイゼンはこう語っている。「わたしたちの世代の女性にとって、
ダイアン・アーバスはヒロインでした。でも、ダイアンは母親になる前にああいう奔放な生き方をすべきだったのです。
彼女の娘たちがどう感じているのか気になります」


だが、ダイアンは自分を革命的だとは思わなかったし、ましてや女権拡張論者だなどと考えたこともなかった。男性の愛人にたいしては、
自分の性体験を自慢しながらも、受け身の女の役割を演じつづけた。「ダイアンは二つの顔をもっていた」と、ある男性は語っている。「つまり、
性の犠牲者と貪欲な女という二つの面だった。わたしが彼女を求めなかったら、自分はだめになってしまったろうと言ったことがある」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P360-P362)



2007/05/06

ダイアン・アーバスに関する二人の証言

それに反して、ダイアンは仕事で金を得ることに複雑な感情を抱いていた。金をかせぐことを、いつも恥じていたのだ。「写真を売ると、
すぐにいい写真ではなかったという気がしてしまう」と語ったこともある。だが、こんな気持ちも、
新たな注文を引き受ける妨げにはならなかった。


『エスクァイア』のロバート・ベントンからは多くの依頼があり、ベントンに言わせると「ほぼ月に一件」の仕事があった。
こうしてダイアンは、奇抜な模様の敷物の上で子犬と踊っているストリッパーのブレーズ・スター、ジェーン・マンスフィールド母娘、
都市計画専門家のジェーン・ジェーコブズと息子、無神論者のマダリン・マレーを撮った。


「ダイアンは最新のコンタクト・シートをもって美術部にやってきたが、わたしはいつも驚かされた」と、ベントンは語る。「というより、
つねにこちらの予想をくつがえされたのだ」。乳房にスパンコールをつけたブレーズ・スターも、中流階級の理想のカップル、
オジーとハリエットも、でっぷり肥って誇らしげな母親となったジェーン・マンスフィールドも、
ダイアンが撮るとニューヨークの奇形者たちと同じような緊張感をはらんでいたのである。そのうちにベントンは「われわれ(写真を見る者)
も彼ら(撮影された人びと)とまったく変わりがない」ことに気がついたという。「それがダイアンならではの独特のスタイルだった -
 一見したところは単純だが、非凡なアプローチによってすべての対象と取り組み、相手が何者であろうと態度は変わらなかった。そして、
奇形者でも普通の人間でも、ある面では同じ存在だということを示す。ダイアンの作品の中では『奇形者』とか『健常者』
という言葉は意味がなくなってしまう。ダイアンにとってどちらも同じだし、相手によって手心を加えることもなかったからだ」


デヴィッド・ニューマン(ベントンと組んで仕事をしたことがある)もこう語っている。
「ベントンとサリーの結婚式の写真を撮ったときも、ダイアンはまったく手心を加えなかった。
あの写真はいまでもベントンの家の居間に飾ってあるが、じつにセンセーショナルな写真だ。しょせんは月並みだと思われる儀式を、
ダイアンは細部にいたるまで克明に記録している - 儀式こそ、ダイアンが執着していたものではなかったろうか?
 ダイアンは進行順序に従ってすべてを撮影し、自分もその一部になりきっていた。サリーが母親に手伝ってもらってウェディング・
ドレスを着ているそばで、ダイアンはシャッターを切りつづけていた。また、式の直後に、
リムジンの床に這いつくばって狂ったようにシャッターを切っていたのも覚えている」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P348-P349)



ニール・セルカークの証言

ダイアンの死後、彼女の焼付けをしたニール・セルカークによれば、「ダイアンはほとんどリリースを取れなかった」という。
ダイアンが生きていたら、彼女の作品をこれほど広範に展示するのは難しかったことだろう。モデルの多くが、
ダイアンの表現に強い不満を抱いていたからだ。しかし、セルカークが言うように「本人が死んでしまったので、
彼らはどうしようもないと思った」のである。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋 P441脚注)



写真のポストモダニズム

プリンスやシャーマンの作品に採用されているアプロプリエーションという手法を、最もラディカルな方法で提示したのはシェリー・
レヴィン(1947~)である。彼女は1979年から82年の間に、エドワード・ウェストンやウォーカー・エヴァンズ、エリオット・
ポーターといったモダニズム写真の巨匠として評価されている写真家が撮影した写真を複写し、
その写真を自らの作品として展示する展覧会をおこなった(法的な観点から見るならば、
このような手法は写真家の著作権を侵害する違法行為である)。このシリーズ作品の一つである「無題-エドワード・ウェストンに倣って」
(1981年)という作品は、ウェストンが1925年に息子のニールを撮影した写真を流用したものである。ちなみにこの作品は、
シャーカフスキーの『写真を見ること』でも取り上げられている。このカタログでシャーカフスキーは
「ウェストンほど天賦の目と直感に恵まれている写真家はいない」のであり、「ウェストンの視覚は、
日常のなかで体験される物事を有機的な彫刻へと変容させている」と述べている。さらにこの写真について、
「クローズアップで捉えられた幼い男の子の胴体は、彫刻のような美しい線を描いている」と高く評価している。


このように芸術作品として高く評価されている写真に対して、
レヴィンがおこなったアプロプリエーションは次のような考えに基づいている。
ウェストンが息子のニールを撮影したネガからは数多くのプリントが制作されている。つまり写真は同じソース(原型)
から制作されているのだから、どのプリントもオリジナルとは考えられない。また、作品の元になったネガも「オリジナル」
という地位に位置づけられるものではない。「オリジナル」と呼ばれうるのは、撮影されたニールの体でもない。なぜなら、
アプロプリエーションをおこなう側から見るならば、その対象となっているのは、(当然のことながらニールの体ではなく)
ウェストンが制作した作品だからである。このように捉えてみるならば、ウェストンの写真には「オリジナル」は存在しない。つまり、
レヴィンは複写という手法によって、写真作品における「オリジナルの不在」を提示したのであり、彼女の主張は、
芸術としての写真の価値を擁護するシャーカフスキーのそれとは対極的なものだったと言えるだろう。


(「写真を読む視点」 小林美香)



2007/05/05

ダイアンアーバスとメイ・ウェスト

ダイアンは午後早くに着いた。ブラインドをおろした部屋には灯がともり、
ウェストは泳ぐような奇妙な足どりで影の中から姿をあらわしたが、いかにも傍若無人な態度だった。そして、シャッターの音を伴奏に、
健康食品や浣腸やセックスの美容上の効果などについてしゃべったが、それはいずれも若さを保つための努力だった。「日にあたっちゃ駄目よ!」
と、ウェストはしゃがれ声で警告した。「太陽の光にあたるとしわができる!」そう言って、
ウェストはもう何年も日中はアパートから出たことがないとつけ加えた。「太陽は大嫌いだわ」。ダイアンはそれに答えて、
自分もあまり太陽は好きではない。太陽はぎらぎらしすぎて神経にさわり、いらいらするし、まぶしくて目が開けられないからだと言った。
二人は、闇のほうがずっと好きだということで意見が一致した。


撮影がすむと、ウェストはダイアンに百ドル札を渡し、「ありがとう、ハニー」と言って、衣ずれの音とともに出ていった。
ダイアンはこれが習慣なのだろうと思った -1930年代に、
ウェストは映画のセットでスチール写真を撮るカメラマンにチップをはずんでいたのである。しかし、
ダイアンはお会いできてとても嬉しかったというメモをそえて、お金は返した。ところが、1965年1月号の『ショー』誌に、
ダイアンの皮肉な文章のついた写真が掲載されると、ウェストは激怒して弁護士を雇い、発行人のハンティントン・
ハートフォードに抗議する手紙を書かせた。「不都合かつ残酷で、まったく美しくない」ということだった。ダイアンは度を失った。
「モデルの中に自分が発見したものを相手が気に入らないと、彼女は本当に驚いた」と、チャーリー・レノルズは語っている。しかし、
そこにはダイアンがとらえた外面的なイメージ以上の何かがあって、それがつねに相手を困惑させたのだ。この場合、ウェストは -
肉体の曲線美を誇示しているが- 賞賛すべき女性には見えなかった。そして、
彼女の寝室の調度はハリウッドならではの現実のイミテーションでしかなかったのである。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



黒柳徹子が語るメイ・ウエスト

メイ・ウエストといっても映画で活躍したのが1930年代ですから、あまり日本では知られていないみたいで、
日本のビデオ屋さんには1本もありません。でも、アメリカでは、随分、若い人でも名前を知っています。というのも、彼女が、
セックスシンボル、と呼ばれたからです。かといって、マリリン・モンロウや、ジーン・ハーローのような可愛い女優ではありませんでした。
確かに映画で見ると、髪はブロンド、もの凄く胸が大きく、体全体が豊満で、目のお化粧も色っぽく、衣装もゴージャスで圧倒的です。ひと頃は、
彼女の映画の出演料が高くて、アメリカの全ての女の人の中で一番収入が多かった、と言われるくらい映画はヒットしたのです。


でも、彼女が、単なるセックスシンボルだけじゃなかったことは、彼女の映画の中のウイットのあるセリフや、男の人が喜ぶ
“あぶなっかしい”セリフは、全部、彼女が書いたものです。

映画に出演するまでブロードウエイに出ていたのですが、その脚本も全部、自分で書きました。

まだ、全くセックスなんていう言葉をみんなが口に出さない時代に『SEX』という題の芝居を書いて公演し、猥雑なセリフやシーンがあって、
警察の検閲を受け、10日間も留置所へ入れられた事だってあるのです。

彼女の『罪じゃないわよ』という映画の題名が書いてある映画館の前では「罪です」
というプラカードを持った神父さんが尼さんや信者とデモをするという事もあったくらいなのです。こんな事が、ますます彼女の人気を高め、
男の人にとってはたまらなかったのでしょう。


淀川長治さんが生きていらしたら、彼女の事を何ておっしゃるかと思って調べたら、ひとこと「メイ・ウエスト。彼女は大姐ごね。
こわいですね」と、ありました。

確かにものに動じない不思議な女性であったようです。

最近アメリカで「メイ・ウエストは本当は男だったらしい」と、ヒソヒソ話も出ています。

ちょっと噂のあったケイリー・グラントが生きていたら聞いてみたいですけど。

「私をセックスシンボルと呼ばないでください。私はセックスパーソナリティなんですから」と自分のことを言っています。そして、
面白いことに、そんな女優でありながら経済観念が発達していて、投資もしたし、1セントの行方までも、きちんと知っていました。


好きな男性のタイプは筋肉隆々の人、と限られていました。しかも驚くことに、芸歴は80年と言われるくらい長く(というのも、
7歳くらいの時に、もうコンテストに出て優勝し、ボードビルの世界に入ったのですから)そして77歳の時に『昔マイラは女だった』
という映画に出演し歌も歌い、85歳の時に『セックステット』(注・六重奏の彼女流のしゃれ?)という、
ウエディングドレスを着て6人目の若い旦那さんと結婚する役で、映画で主演を演じ、2年後の1980年、87歳で亡くなりました。
見方によっては、性の解放者、真の自由人といえる人。これがメイ・ウエストです。


"http://www.inv.co.jp/~tagawa/totto/theater.html">トットチャンネル 黒柳徹子 
「ブロンドに首ったけ」)



二人のダイアン・アーバス評

まさにこの頃 -1962年から64年- こそ、ダイアンの生涯で最も創造力とエネルギーのあふれていた時期だった。


ようやくローライにも馴れたダイアンが、それによって撮りはじめ、
1962年に撮り終えた一連の写真の中に大人の扮装をした子どもたちの写真がある。ダンス・コンテストにのぞむジンジャー・
ロジャースとフレッド・アステアのようなポーズをとる子どもたちのほかに、
おもちゃの手榴弾をもって難しい顔をしている少年を撮った有名な写真があり、これはセントラル・パークで撮影したものだ。


当時ダイアンは自分の作品をひたむきに撮りつづけるばかりでなく、『ショー』をはじめとするいくつかの雑誌の仕事もしていた。
もっとも、『ショー』のアート・ディレクターのヘンリー・
ウルフはダイアンの荒削りで生々しい作品にかならずしも満足していたわけではなかった。「グロリア・
スタイネムの記事につける写真をオハイオ州の映画館で撮影してもらったが、使えなかった -出来がよくなかったのだ- それに、
人間針刺しのポートレートも掲載しなかった。ダイアンはなんとかしてくれと言ったが」。ウルフは洗練された紳士で、その後ジェーン・
トレイヒー -のちに写真家となる- とともに広告代理店をつくって成功するが、彼はこう打ち明けている。「ダイアンを見ているといつも、
自分が人生を楽しんでいることに罪悪感をおぼえたものだ。ある晴れた土曜日のこと、重そうなカメラをぶら下げたダイアンと出会って、
『こんなすばらしい天気に写真かね』と声をかけると『不幸な人たちを探しにいくの』という返事だった。わたしはとてもついていけなかった」


しかし、1962年に『ショー』の別の記事でダイアンと一緒に仕事をしたアラン・レヴィの印象はまったく違っていて、彼は『アート・
ニューズ』にこう書いている。「ダイアンから自己紹介の電話をもらったが、笑いながらあなたの仕事をする写真家『のダイアン・アーバス』
ですと言った・・・・・・会ってみると、ほっそりとした小柄な女性で、黒いセーターに茶色の革のスカートという服装で、
十代の娘のようだった」。二人は組んで、ナショナル・シューズのテレビ・コマーシャルづくりをルポした。「雇われ仕事で、ディーアン -
誰もが彼女の名前をそう発音していた- と一緒だったこのときほど楽しい思いをしたことはなかった


(中略)


二人は一度だけ衝突した、とレヴィは書いている。『ショー』の仕事が終わったとき、レヴィは結果に満足したが、
ダイアンはそうではなく、写真の下に自分の名前が出るのをいやがった。(写真は小さく、つづき漫画のようなレイアウトだった。)
「それに反して、当時のわたしは、記事に二人の名前が並ぶことを何よりも望んでいた」と、レヴィは言う。「それで、
なんとか説得しようと思い、たしか一通だけ感情的な手紙を書いて、きみはぼくを傷つけていると文句を言った。彼女から電話があって、
名前を出してもいいと言われたのは締切日の前日だった」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスの裸の人びと

ダイアンの「裸の人びと」は、版元が見つからないために日の目を見なかったが、ヌーディスト・キャンプでの撮影は、
ダイアンにとってきわめて刺激的な経緯となった。撮られる相手にすっかり協力したからである。そもそも撮影の許可を得るために。
自分も裸になる必要にせまられたわけだが、これは彼女にとっても撮られる人びとにとっても覚悟のいるところだった。
「十分ぐらいは変な感じでしたが、それを過ぎれば何でもありません」と、ダイアンは言った。「ヌーディスト・キャンプは、
わたしにとってすごい素材でした」。ダイアンはヌーディスト撮影の体験をマーヴィン・イズラエルや娘たちや友人に繰り返し語ることによって、
その印象を整理していった。最初の印象は「幻覚の世界に入りこんだようで、しかもその幻覚が誰のものともわからない感じでした。最初は、
ほんとうにめんくらいました・・・・・・あんなに大勢の男の人が裸でいるのを見たことはなかったのです。
最初に見かけた男の人は芝刈りをしていました」


ダイアンはヌーディスト・キャンプについて多くの感想を抱いた。「あそこには社会の全階層が網羅されています。テント暮らしの人や
(ヌーディストになる人の大半は安あがりだからだということだった)トレーラーハウスの住人から、一戸 -それも大邸宅と言えそうな-
 を構えている人まで・・・・・・これは社会全体の縮図であり、そこでは誰もが平等だとされます -
ニュージャージーにはあちこちにヌーディスト・キャンプがありますが、それはニューヨーク州ではヌードがご法度だからです」


ダイアンは別の現象 -都市に住む、「かけす」と呼ばれるヌーディスト -についても語っている。この種の人びとはヌーディスト・
キャンプには参加しない -市内のアパートに住んで、帰宅すると衣服のすべてを脱ぎ捨てるのである。


ダイアンはあるとき、キャンプで刑務所の所長と会ったことがある。シンシン刑務所に勤めるその男は、
浜辺を散歩するヌーディストたちを何時間も眺めては、彼らが身につけているアクセサリーから職業をあてようとしていた。
ヌーディストたちは全裸ではあったが、男はパイプをくわえ、靴と靴下をはいていたし、煙草を靴下にはさみこんでいた。
また女性は帽子をかぶり、イヤリングやネックレスをつけ、ハイヒールやサンダルをはいていた。「ほんとうにいやらしい感じだった」
とダイアンは語っている。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスと小人・大男

ダイアンはもっと神話的なタイプに属する人びとを撮るようになった。小人や大男である。だが、
寓話の主人公のようなこうした人びとに惹かれる理由を説明したことはなかった。自分の芸術的な試みについて、
特に説明しようとはしなかったのだ。しかし、ダイアンのすぐれた作品は彼女が感じた魅力を端的に物語っている。
たとえばメキシコ人の小人のモラレスを、ダイアンは何年にもわたって繰り返し撮っており、彼の生活習慣や考え方まで知るようになった。
やがてダイアンは、上半身裸になったモラレスが帽子をかぶってベッドにうずくまるというポーズをつけているが、
この頃になると二人の親密な関係は誰の目にも明らかで、写真からはエロチックな雰囲気さえ感じられる。「写真を撮るのは、
相手を誘惑するのに似ている」と、ダイアンはジョン・ゴセージに言ったことがある。


体重495ポンド、身長が8フィートもある「ユダヤ人の大男」、エディ・カーメルの場合にも同じことが起こった。
ダイアンはエディを10年近くも撮りつづけたが、そのネガからプリントをつくったのは1970年になってからだった。
「それまでに撮ったのはただの絵だった」からである。初めてエディを撮ったのは、四十二丁目の保険会社の事務所であり、
彼はそこで投資信託のセールスマンをしていた。次に、通行人の頭上にそびえるような感じでタイムズ・
スクエアのゲームセンターを歩いているエディの姿を撮った。機嫌がよいとき、エディは詩をつくってダイアンに献げた -
「オデュッセウスを誘惑した海の精のカリュプソーみたいだった」とダイアンは語っている。「エディに一つか二つの単語を示すと、
たちどころに詩をつくってしまう」


ダイアンは彼の巨大さに圧倒されたが、彼が室内にひとりでいるところを撮るときには特に畏敬の念をおぼえた。
のちに学生にこう語っている。「横になっているときのエディは、ほんとうに感動的でした。まるで不思議の国のアリスのように見えるのです。
つまり、エディが長椅子をすっかりふさいでいる様子には特別な雰囲気があって、何と言ったらいいか-
 まるで山を前にしているようだったのです」


年とともに、ダイアンと大男のあいだにはある種の友情が育まれていった。そして、エディはこんな打明け話をしている。
すぐれた俳優になるという夢は捨てきれないが、テレビでもらえるのは怪物の役ばかりだ、と。(エディは『不死の頭』
という映画でフランケンシュタインの息子を演じ、男の腕を噛み切り、半裸の少女をテーブル越しに投げとばした。)あるとき、
エディはブロードウェイのショーの主役のオーディションを受けたと自慢した -『のっぽ物語』の背の高いバスケットボール選手の役である。
しかし、エディは背が高すぎて採用されなかった。ダイアンは『のっぽ物語』の原作、『ホームカミング・ゲーム』
を書いたのは自分の兄だと打ち明けたが、エディは特に感心したようでもなかった。


やがてエディは、ブロンクスの自宅にダイアンを招き、写真を撮ってもいいと言った。彼は、
普通の体格の両親とそこで暮らしていたのである。その当時、エディは骨の病気にむしばまれて死を免れない身だったが、
口癖のようにサーカスで働きたいともらしていた。マディソン・スクエア・ガーデンでリングリング・ブラザーズがサーカスの興行をしたとき、
エディは世界一のっぽのカウボーイの役で出演したことがあったのだ。


1962年から1970年にかけて、ダイアンはカーメル家の狭いアパートを何度も訪れ、
やっと自分の求めていたイメージをとらえることに成功した。大男が両親と向かいあっているところを撮ったもので、
ダイアンの作品の中でも最も印象的な写真の一点である。


あるとき、ダイアンは興奮した声で『ニューヨーカー』のジョン・ミッチェルに電話をかけた。「どの母親も、
妊娠しているとき悪夢に悩まされることをご存じ? 生まれてくる赤ちゃんが怪物だったらどうしようという? わたし、
エディを見上げているお母さんの顔を見てはっと思ったの。彼女はこう思っていたのよ。『ああ神様、あんまりです!』って」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスとアヴェドン

ダイアンはアヴェドンの人間離れしたエネルギーと絢爛たる才気に舌をまいた。
アヴェドンはローマの不気味な地下室でも精神病院でも同じように情熱をこめて撮ることができた。アヴェドンがその頃手がけていたのは、
動いているファッションだった。衣裳もヘアもメークも霧のようにかすんで豪華な雰囲気をかもしだすものである。
「リチャードはいつも自ら課題を設定して写真を撮り、それを解決していた」と、ダイアンは評している。
アヴェドンが最もはりきって取り組んだのは名士のポートレートだった。「有名人の顔は極端な状況とマッチする・・・・・・
彼らの顔をつくったのがそれぞれの業績だからだ」と、アヴェドンは説明している。早くも1948年に(その年から『シアター・アーツ』
誌の編集スタッフとして仕事をはじめたが、それは一介のファッション写真家に甘んじたくなかったからだ)、
彼はほとんど恭々しさの感じられる態度で『南太平洋』のメアリー・マーティンや『ミスタア・ロバーツ』のヘンリー・
フォンダといったスターたち、自分のエージェントのオードリー・ウッドの隣でよくポーズをとっているテネシー・
ウィリアムズの柔和なポートレートを撮っている。1958年頃には、ポートレートの範囲がショー・ビジネスの世界から芸術全般へとひろがり、
アヴェドンはいっそう大胆になった。


詩人のエズラ・パウンドが髪をふり乱してレンズに向かって何ごとか叫んでいる姿、しわだらけのアイザック・
ディネーセンが魅せられたように目をすえているところをとらえた写真などである。そのあとは一連の迫力にみちた映像がつづく、
疲れきって陰険そうな表情を浮かべているために警察の手配写真のように見えるドロシー・パーカーやサマセット・モームのポートレートである。


だが、ダイアンはアヴェドンの手法にひっかかるものを感じていた。彼のやり方はかならずしもフェアでないと思った。
印画に修整を加えてぼかしたり誇張したりしているため、フィルムに写った有名人の顔が歪曲されることもあったのだ。
それにダイアンがポートレートを撮るために気が遠くなるほど時間をかけるのにたいして、アヴェドンは写真を撮る相手といとも
「容易に親しくなれる」能力を活用していた。初対面の二人の人間が「十分間」だけ一対一で深い関係を結ぶのだが、「撮影が終わると、
ありがとうと礼を言って、その場から逃げ出す算段をする」のだ。エズラ・パウンドやマリリン・モンローを撮ったときの感想を聞かれて、
アヴェドンはこう答えている。「忘れた。撮っているときは夢中だから、相手が何を言い、自分が何を言ったかなんて覚えていないよ」。
覚えていられないなんて、ダイアンには信じられないことだった。彼女はすべてを覚えていた。だが、人さまざまだった。
ダイアンがこの頃信条としていたのは(スタイケンと同じく)、写真が「それ自体で完全なもの」だということだった。つまり、
全き真実をとらえた映像は事実に即したものであると同時に超越的なものでなければならないということである。
ダイアンは自分のポートレートの本質を美化したり、そこに細工をほどこしたりすることを望まなかった。ダイアンが望んだのは、
対象の生命を劇的に表現することだった。


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)