2007/05/05

二人のダイアン・アーバス評

まさにこの頃 -1962年から64年- こそ、ダイアンの生涯で最も創造力とエネルギーのあふれていた時期だった。


ようやくローライにも馴れたダイアンが、それによって撮りはじめ、
1962年に撮り終えた一連の写真の中に大人の扮装をした子どもたちの写真がある。ダンス・コンテストにのぞむジンジャー・
ロジャースとフレッド・アステアのようなポーズをとる子どもたちのほかに、
おもちゃの手榴弾をもって難しい顔をしている少年を撮った有名な写真があり、これはセントラル・パークで撮影したものだ。


当時ダイアンは自分の作品をひたむきに撮りつづけるばかりでなく、『ショー』をはじめとするいくつかの雑誌の仕事もしていた。
もっとも、『ショー』のアート・ディレクターのヘンリー・
ウルフはダイアンの荒削りで生々しい作品にかならずしも満足していたわけではなかった。「グロリア・
スタイネムの記事につける写真をオハイオ州の映画館で撮影してもらったが、使えなかった -出来がよくなかったのだ- それに、
人間針刺しのポートレートも掲載しなかった。ダイアンはなんとかしてくれと言ったが」。ウルフは洗練された紳士で、その後ジェーン・
トレイヒー -のちに写真家となる- とともに広告代理店をつくって成功するが、彼はこう打ち明けている。「ダイアンを見ているといつも、
自分が人生を楽しんでいることに罪悪感をおぼえたものだ。ある晴れた土曜日のこと、重そうなカメラをぶら下げたダイアンと出会って、
『こんなすばらしい天気に写真かね』と声をかけると『不幸な人たちを探しにいくの』という返事だった。わたしはとてもついていけなかった」


しかし、1962年に『ショー』の別の記事でダイアンと一緒に仕事をしたアラン・レヴィの印象はまったく違っていて、彼は『アート・
ニューズ』にこう書いている。「ダイアンから自己紹介の電話をもらったが、笑いながらあなたの仕事をする写真家『のダイアン・アーバス』
ですと言った・・・・・・会ってみると、ほっそりとした小柄な女性で、黒いセーターに茶色の革のスカートという服装で、
十代の娘のようだった」。二人は組んで、ナショナル・シューズのテレビ・コマーシャルづくりをルポした。「雇われ仕事で、ディーアン -
誰もが彼女の名前をそう発音していた- と一緒だったこのときほど楽しい思いをしたことはなかった


(中略)


二人は一度だけ衝突した、とレヴィは書いている。『ショー』の仕事が終わったとき、レヴィは結果に満足したが、
ダイアンはそうではなく、写真の下に自分の名前が出るのをいやがった。(写真は小さく、つづき漫画のようなレイアウトだった。)
「それに反して、当時のわたしは、記事に二人の名前が並ぶことを何よりも望んでいた」と、レヴィは言う。「それで、
なんとか説得しようと思い、たしか一通だけ感情的な手紙を書いて、きみはぼくを傷つけていると文句を言った。彼女から電話があって、
名前を出してもいいと言われたのは締切日の前日だった」


(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)