2007/10/29

ポストフォーディズムにおいては

ポストフォーディズムにおいては、生産性の上昇はもはや完全雇用とは相関関係のうちにはない。
効率性と生産性を上昇させるために必要なのはむしろ解雇、レイオフ、配属転換、パートタイム化などの多様な形態をとる人員の削減をとおした
「ダウンサイジング」なのである。カステルはさらに、彼が「情報社会」
と呼ぶ新しい資本の編制のもとでの階級関係がはらむ主要な特徴としての<排除>について、それを「大衆としての大衆と労働者/
消費者としての大衆の分離」。と定義している。つまり、ネーションの範囲内のほとんど全人口を潜在的な労働者あるいは・
かつ消費者として見なしていた時代は決定的に終わったということだ。新しい資本の編制は、生産者が同時に消費者であることを期待していない。
あるいは万人が(潜在的な)生産者であることを期待していない。現代の資本主義においては、労働コストをどこまで下げるかが、
利潤の要となる源泉であり、グローバル化、情報ネットワーク化によって資本は、
地域やそこに居住する生産者の論理をまったく考慮することなく、生産点をフレキシブルに移転する。移転したあと、
残された人びとはもはや単なる「無用な人間」となるわけだ。

ジグムント・バウマンは次のようにいう。今日の貧困者を明日の労働者へと調教することはかつては経済的にも政治的にも有意義なものであった。
それは工業を基盤にした経済の車輪に潤滑油をさし、さらに「社会的統合」という任務をも果たしたのであった。ところがこの経済的・
政治的意味は現在ではもはや失われている。労働力とそれにかかわるコストを削減しながらも、
利潤のみならず製品の生産性まで上昇させる方法を学んだ現在の資本は、もはや大量の労働者を必要としていないのだから。
「労働階級から自らを解放する」(マリオ・トロンティ)という資本主義の歴史を貫いてきた資本家階級の夢想はほぼ実現しつつあるのだ。


(『自由論』 酒井隆史 青土社 P.266-267)



2007/10/28

イギリスの犯罪学者ジョック・ヤングの見方

イギリスの犯罪学者ジョック・ヤングは、現代の状況を「多様性(diversity)」と「困難さ(difficulty)」
の上昇として捉え、その上で後者のみがあらゆる手段で抹消されるよう社会の布置が編制されつつある、という。近代から後期近代(late
modernity)へという図式に依拠し、そのうえで内包(包括)社会(inclusive society)から排除社会
(exclusive society)へ、という特性を付与するヤングによれば、
近代社会と後期近代社会は多様性と困難さへの対応においてちょうど反転した立場をとる。近代社会は多様性には不寛容であり、
困難さには比較的寛容である。近代社会は、多様性を、吸収されかつ同化されるものとして捉え、またじっさいに吸収・
同化への努力を試みてきたが、その一方、手に負えない(obdurate)人間や頑強な反逆者の存在や意義申し立てを、
社会が受けとめるべき個人の矯正/更正や社会自身の改革の努力へのさらなる試練として捉えたのである。一方、後期近代社会は、
多様性や差異性を称揚し、それを消費社会というクッションによってたやすく受け入れ無害化する。ところがこの社会は、困難な人間や
「危険や階級」と見なされるものには我慢できない。それゆえ彼らにたいしては最上の洗練された防壁を構築しなければならない・・・・・・
(Young 1999 p.59)。まさにセキュリティの上昇と呼びうる事態は、このような(ヤングの時期区分にのっとるならば)
後期近代社会の特徴の表現である、と言えるだろう。
そしてこの傾向に付随してあらわれるのは近年とりわけ突出しつつある<排除>あるいは<隔離
(incapacitation あるいは segregation)の実践である。


(『自由論』 酒井隆史 青土社 P.260)



2007/10/21

「暴力はいけません」という言表

「暴力はいけません」というモラルなら、だれでもいえるし、実際、あふれています。ブッシュ大統領だって、
核武装を唱える日本の政治家だってそういうはずです。むしろ、「暴力はいけません」といいながら、「だから暴力には暴力を」と、
より大きな暴力の配備を正当化しているのがこうした人たちなのでしょう。「暴力はいけません」という言表は、
決して人の暴力に対する許しがたさの感覚を養っていることを狙ったものではないとおもうのです。そもそもこの言表は逆説をはらんでいます。
暴力はいけない、だから暴力を憎むのだ、暴力をふるう者を憎むのだ、暴力をふるう者に暴力を-このような言表の連鎖を、「暴力はいけません」
という言表は決して排除するものではない。

しかもしばしば(とりわけ今では)、「暴力をふるう者」は「暴力をふるいそうな者」へと広がっていき、
現実的には暴力が生じていないところに暴力が生じそうだからという理由で暴力が振るわれるという奇妙な事態が生じてくる。そこでは現実には、
この「暴力はいけません」と叫びながら振るわれる凄まじい暴力しか存在しない、ということもありえます。つまり、このようなモラルは、
好戦的な、しばしば残忍ですらある暴力を退ける要素をはらんでいるわけでは決してない。むしろそれは濃密にはらむことさえあるのです。
いま流通するようなかたちでこのようなお説教的な言表がもくろんでいることは、
この世界に満ちているさまざまな力を感受し腑分けする能力をつぶすことです。そのことによって、
人は暴力に対する感覚を摩耗されているのです。


(『暴力の哲学』 酒井隆史 河出書房新社 P10-P11)



2007/10/03

天元突破グレンラガン、最後の決めセリフ

「因果の輪廻に囚われようと! 残した思いが扉を開く! 無限の宇宙が阻もうと! この血のたぎりが運命を決める!
 天も次元も突破して! 掴んで見せるぜ己の道を! 天元突破グレンラガン!! 俺たちを誰だと思ってやがる!」


「なぜだ、お前たちのどこにこんな力が・・・・・・」


「俺たちは1分前の俺たちよりも進化する。一回転すれば、ほんの少しだが前に進む。それがドリルなんだよ」


「それこそ滅びへの道。螺旋族の限界になぜ気付かぬ」


「それは貴様の限界だ。この閉ざされた宇宙で王様気分でほかの生命を封じ込めた貴様自身の限界に過ぎない。覚えておけ。
このドリルはこの宇宙に風穴をあける。その穴は後から続くものの道となる。倒れていったものの願いと、後から続くものの希望。
二つの思いを二重螺旋に織り込んで、明日へと続く道を掘る。それが天元突破! それがグレンラガン! 俺のドリルは天を創るドリルだ!」


(『天元突破グレンラガン』)