2007/01/31

「アメリカのデモクラシー」より

「そこにみられるのは、心を満たす矮小・卑俗な快楽を手にいれようと休みなく動きまわる、無数の相似的で平等な人間の群れである。
誰もが自分の世界にひきこもり、他のすべての人の運動に関わりを持たないかのようである。誰にとっても、
自分の子供と特別の友人とが人類のすべてである。その他の同胞に関しては、傍らに立ってはいても、その姿は目に映らない。
彼らと接触はしても、その存在を肌では感じない。人は自己自身のうちにしか、そして自分自身のためにしか存在しない。」


(「アメリカのデモクラシー」 A.トクヴィル 岩永健吉郎・松本怜二訳 研究社)


A.トクヴィル:アレクシス・ド・トクヴィル(Charles Alexis Henri Clerel de
Tocqueville)19世紀フランス政治思想

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB">
Wikipedia:アレクシス・ド・トクヴィル



アイヒマンの無思考性

「やったことはとんでもないことだが、犯人(今、法廷にいる、すくなくともかつてはきわめて有能であった人物)
はまったくのありふれた俗物で、悪魔のようなところもなければ巨大な怪物のようでもなかった。
過去の行動及び警察による予備尋問と本審の過程でのふるまいを通じて唯一推察できた際立った特質といえば、
まったく消極的な性格のものだった。愚鈍だというのではなく、何も考えていないということなのである。」


(「イェルサレムのアイヒマン」 ハンナ・アーレント 大久保和郎訳 みすず書房)



晴れた日のf16原則

三脚なしで風景写真を撮るときは、絞りをf16にしてシャッター速度をISO感度の逆数にすればいいだろう。つまり、
感度がISO200であれば、f16でシャッター速度は1/200秒にするわけだ。


(「ナショナル ジオグラフィック」 プロの撮り方 デジタルカメラ 撮影編より)



「不可視性としての写真」でやろうとしたのはピュアな写真論でした

清水:

変わりましたね。「不可視性としての写真」でやろうとしたのはピュアな写真論でした。当時も今も、写真をめぐる言葉のメーンストリームは
「リアル」という言葉だと思うんです。たとえば「リアルにモノを撮るのが写真である」という考え方です。

でもリアルなものを表現するときに、ただシャッターを押せば写るわけではない。だからアレやブレなどの手法が生まれたり、
とにかくどこかの現場へ行って撮るということが繰り返されている。現実の向こうに本当のリアルな裸の世界があって、
人間の目ではそこまでたどり着かないけど、カメラの力を借りればそこまでたどり着くんだ、という考え方ですね。
これは簡単にいってしまえばシュールレアリズムですよ。

写真論も大まかに言えばそこからきています。でも、僕はそこから抜け出したかった。それが「不可視性としての写真」だったんですが、
やってみてかなり難しいということがわかったんです。それに、具体的な写真家や写真作品を直接論じない、
純粋な写真論に自分でも飽きてしまった。なぜかというと、誰についても同じことしかいえない写真論なんか意味がないじゃないか、
ある写真家について新しい発見が何もない批評なんて、と思ったんです。


(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 清水穣インタビューより)



竹内敏信さんに聞く645の魅力

-画面が大きくなると、本当に画質がよくなるのですか。

竹内敏信(以下竹内):それはだれに聞くまでもないこと(苦笑)。つまり同じものを撮っても、
35ミリより645で撮ったほうがきれいに仕上がる。例えば、大きな全紙、全倍にすると明らかな差が出てくる。粒子が目立たなくなるし、
微妙なグラデーションも表現できる。特にフジのベルビアの登場は大きいな。
この歴史的な傑作フィルムによって90年代から風景写真が大きく変わった。ベルビアと645を組み合わせることで、
デリケートな風景写真の表現がすべてできるようになった。これが日本人の風景写真意識を変え、
大勢のアマチュア写真家が表現としての風景に挑もうとするようになったんじゃないかな。


-でもアマチュアが使うには645は少し重くありませんか。

竹内:ちょっと大きくて重いことが、「撮る」という意識を明確にするんです。特にアマチュアの場合はね。きちっと三脚をつけて、
撮影に挑むぞ、という意欲がわいてくる。これは大きい。正確にきっちりと、自分の望むものを引き出させる、そういう大きさ、重さなんだ。
それに自然を撮る側としては「撮らせていただく」という姿勢を忘れてはいけないけど、645はあまり大げさすぎず、
自然のふところに入っていくには最高のシステムだと思うよ。


-なんだか、いいことずくめのようですが、その割には、竹内さんはよく「645の画面はだらしがない」と言います。

竹内:それは画面比率のこと。35ミリの2対3の画面比率はとても緊張感があって美しい。それに対して645や6×7の画面比率は
「だらしがなくて」、かなりうまくないとヘタに見える。この画面比率を知ったうえで、風景表現に取り組むべきだし、
訓練によって緊張感のある画面が引き出せるようになると思う。


-645を使いこなすには風景をどう切り取るか、よく考えることが大切なんですね。

竹内:風景を切り取る? 違う、違う。何を言っているの。 空間を「切り取る」なんていう発想はろくでもないよ。そうじゃなくて、
風景の美の本質を「引き出す」んだよ。そのためにズームレンズを使うんです。


- どうやって訓練すればいいんですか。

竹内:写真表現、ファインダーの中の自分のセンスを磨いていくことだね。センスを磨くことによって、
どこを引き出せばよいかが風景の中に見えてくる。


-なんだか雲をつかむような話ですが、もう少し具体的に教えてください。

出会った風景の中でもっとも特徴的で本質的な美を探すということだよ。「風景に神宿る」ってよく言うんだけど、風景の中には神様がいて、
その神さまがいるところを探し当てる。ちょっと見渡せば自然の中にはどこにでもあるのだけど。
そういう隠れている美の本質をカメラアングルやレンズワークを工夫して引き出していく。


(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 竹内敏信さんに聞く645の魅力から)



「撮る」から「見る」へ

-清水さんの文章というのは、徹底して写真を見て読むことから始まり、
そして再び読者が写真を見ることへと戻そうとしているようにも思えるんです。


清水穣:うまい言い方だと思います。僕がとり上げた写真家がなぜ面白いかをひたすら読者に追体験してほしい。その意味では、
僕の文章には感想がありません。感想を書きたいとも思わないし、写真を形容する言葉を探すのもめんどうくさい。(笑)


-感想は写真を見た人に任せるんですね。一方でメディアに写真が氾濫し、誰もが写真を撮るこの時代に、写真を作品として意識的に
「撮る」ことの可能性についてどう思いますか?


清水:すべてのものが撮り尽くされているとは思いませんね。何を撮ってもいいし、いつだってシャッターチャンスはあると思う。
ただテクノロジーの進化で誰もが失敗しないでなおかつ大量に撮れるようになった。そうなると何が起こるかというと、
見る力がないことに気づかされるです。公募展を見ても、ありえないというくらい、選んでいる作品がよくない。


-写真が誰にでも撮れる時代だからこそ、見る力が重要ですね。


清水:そのとおりです。写真家だって自分で写真を選ばなければ始まらない。どんなに素朴に撮った写真でもいい写真はいい。
それが写真の自由なんです。どんな絶望的な気持ちで撮っても希望に満ちた写真に撮れるかもしれない。そこが写真の面白さ。人類の希望です
(笑)。でも、その希望は「見る」力があってこそ見えてくる希望なんです。


(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 清水穣インタビューより)



リアルはジョーカー

-清水さんはかつて、写真の存在論があるとしたら、それは撮られているものにも撮っている人にもなくて、
撮られているものと現実との落差そのものにあるのではないか、という意味のことを書いていらしゃいましたね。


清水穣 (以下 清水):

それはバルトが言っている「第三番目のもの」と同じです。写されたものの個性でも、写した側の個性でもない。じゃあ何だろう。バルトは
「プンクトゥム」であるとか、「鈍い意味」であるとか、いろいろな言い方をしていますね。写真論では「第三番目のもの」を「リアルなもの」
「語りえぬもの」と名づけて済ませてきたんですよ。つまり写真論も。見る側も画一的なんです。「リアル」
という言葉をジョーカーのように使えるから。「日常のふとした瞬間を切り取った時、世界がふとリアルに感じられる」
とでも言っておけばいいんですよ。でも、これって要するに広告の言葉ですよね。60年代の後半くらいからそうなっちゃった。だからダイアン・
アーバスは簡単に広告にとりかこまれて、最終的に絶望してしまった。日本で言えば「ディスカバリー・ジャパン」のころから、
リアルで手垢のついていないものじゃないと売れないんですよね。でも、それがなぜかいつもワンパターンなんです。


-そのリアルはいつでも取り替え可能なリアルなんですよね。

清水:僕はそれをナチュラルメークって呼んでいるんです。


-確かに語義矛盾ですよね。言いえて妙です。(笑)

清水:おかしいでしょ。ナチュラルなメークって。化粧品でたとえるとよくわかるんですけど、化粧品はナチュラルじゃないと売れないでしょ。
自然とかリアルがいかにコマーシャライズされていて、いかにイデオロギーかということがわかるんです。


(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 清水穣インタビュー)



2007/01/29

ジョイとラック

「娘が自分の母親のことを知らないなんて!」


そのとき、私は思い当たった。彼女達は恐れているのだ。私を自分達の娘と重ねてみているのだ。私と同じように無知で、
彼女達がアメリカに持ち込んだ真実や願いをまるで気にかけない娘達のことを。中国語で話しかける母親をじれったく思い、
片言の英語で説明する母親を愚かだと思う娘達のことを。おばさん達は、ジョイ(喜)とラック(福)
が娘達にとってもはや同じ意味でないことを、アメリカ生まれの娘達の閉ざされた心には”喜福”
が一つの言葉としては存在しないことを知っているのだ。いつか孫を産んでくれる娘達が、
代々伝えられてきた希望のつながりと断絶してしまったことを知っているのだ。


「すべてを話します」 私が一言いうと、おばさん達は疑わしそうに私を見つめる。


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エィミ・タン 小沢瑞穂訳)



双子の姉

誰かが「彼女が着いたわ!」と叫ぶ。そのとき、彼女の姿が目に入る。その短い髪。小さなからだ。母と同じ表情。彼女は、
手の甲を口に押し当てている。ひどい試練を耐え忍び、やっと終わったことを喜ぶかのように泣いている。


私の母ではないとわかっていても、その表情は、あのときの母と一緒だ。五つの私が午後ずっと行方不明になり、
死んだものと思ったあとで私を見つけたときの母と。私が眠そうな目をしてベッドの下から這い出したとき、
母は幻ではないことを確かめようと手の甲を咬んで泣き笑いしたものだ。


目の前に、母が二人いて手を振っている。片手には、私が送ったポラロイド写真が握られている。ゲートから出たとたん双方が駆け寄り、
ためらいも期待も吹き飛んで三人でただ抱き合う。


「ママ、ママ」 三人で母がそこにいるかのように口々に呟く。


姉達は誇らしげに私を見つめ、一人が「メイメイ、ジャンダーラ」ともう一人に言う- 「妹がこんなに大きくなって」と。
二人の顔を見つめたが、母の面影はない。それでも二人の顔には見覚えがある。同時に、自分のなかの中国人の部分が見えてくる。はっきりと。
私の家族。私達の血の繋がり。長い年月をかけて、ついに私は自分のなかの中国人の部分を解き放つことができたのだ。


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エィミ・タン 小沢瑞穂訳)



The Joy Luck Club

・千里を越えてきた母


老女は、上海にいた若いころ、ほんのはした金で買った白鳥のことを思い出した。屋台の主人がこう自慢した・・・・この鳥は、
前は家鴨だったんだよ。鵞鳥になりたいと首を伸ばしてるうちに、ほら! 食べるには惜しいような美しい白鳥になっちまった。


やがて、その女と白鳥は、首をアメリカに伸ばしながら数千里の海原を渡った。旅の途中、彼女は白鳥に優しい声で囁いた。 
「アメリカに着いたら、わたしそっくりの女の子を産むわ。女の価値は夫のゲップの大きさで計られるなんて言う人は、
向こうにはいないでしょうよ。人から見下されないように、娘には完璧なアメリカ英語を身につけさせるわ。向こうに行ったら、
娘はいつも満腹で悲しみなど入り込む隙間もないでしょうね! 自分が望む以上のものになったこの白鳥を娘にあげれば、
きっと娘はわたしの思いを汲んでくれるはずだわ」


だが、新しい国に着いたとき、移民局の役人はその白鳥を取り上げ、うろたえて両手をばたつかせる彼女に一枚の羽だけ返してよこした。
それから彼女は、ここにやってきたわけや後に残してきたものなど、もう忘れてしまったことを幾つもの書類に書き込まなければならなかった。


そして彼女は年老いた。生まれた娘は英語しかしゃべらず、悲しみよりもコカコーラのほうをたくさん飲んだ。彼女は、
そんな娘に一枚の白鳥の羽を渡してこう言いたいとずっと願っていた・・・・「なんの価値もないと思うだろうけど、
この羽はわたしのすべての望みを携えて遠くから渡ってきたのよ」と。それを完璧なアメリカ英語で娘に伝えられる日がくるのを、
彼女はじっと待ち続けた。


・つまづいた子どもたち


「自転車で角までいっちゃだめよ」 七つの娘に母親が言った。

「どうしてよ!」 娘は逆らった。

「あなたが見えなくなるし、転んで泣いても聞こえないからよ」

「転ぶってどうしてわかるの?」 娘は文句を言った。

「本にそう書いてあるわ、二十六の鬼門があるって。この家のまわりから離れたら、悪いことばかり起きるってね」

「あたし信じないわ。その本を見せてよ」

「中国語で書いてあるから、あなたにはわからないわ。だからお母さんの言うことは聞かなくちゃならないの」

「じゃあ、悪いことってどんなこと?」 娘は言いつのった。 「二十六の悪いことがなんなのか教えてよ」

だが母親は黙って編み物をしていた。

「二十六ってなによ!」 娘は叫んだ。

それでも母親は答えなかった。

「知らないから言えないんだわ! なんにも知らないくせに!」 娘は外に走りでて自転車に乗り急いで漕ぎだしたが、
角を曲がる前に転んでしまった。


・アメリカ人となった娘たち


「うわー!」 母親は、新しいコンドミニアムに引っ越した娘のマスター・ベットルームにある鏡張りの衣装箪笥をみて大声を上げた。 
「ベッドの足下に鏡を置いてはだめよ。結婚の幸せがみんな跳ね返って逆のほうを向いてしまうから」

「でも、そこしか置く場所がないから、どこにも動かせないわ」 娘は、すべてに悪い兆候を見つける母親に苛々して言う。
生まれてからずっとこの調子だったのだ。


母親は顔をしかめ、捨てずにとっておいたメーシーの買い物袋を手に突っ込んだ。 「わたしがなんとかしてあげるから、
幸運だと思いなさい」 彼女は、娘の引っ越し祝いに先週”プライス・クラブ”で買っておいた金縁の鏡を取り出した。
それを二つの枕の上に置いてヘッドボードにもたせかけた。


「そこにかけるのよ」 母親は、上の壁を指差した。 「この鏡が足元の鏡を反射して-ピカッ!-
あんたの桃の花の幸運を何倍にも増やしてくれるからね」

「桃の花の幸運って?」

母親は、いたずらっぽい目で笑った。 「それはここにあるわ」 彼女は鏡を指差した。 「中を覗いてごらん。
わたしの言葉が正しいかどうかわかるから。この中に、未来のわたしの孫がいるのよ。来年の春、わたしの膝に座っている孫がね」

娘は鏡を覗いた-ピカッ! そこには自分を見つめ返している自分の顔があった。


・中国の母たちの物語


「オー! フワイドンシ!」-なんて悪い子なの-幼い孫娘をあやしながら、その老女は言った。 「仏さまは、
意味もなく笑えとおっしゃったのかい?」 声をたてて笑っている赤ん坊を前にして、老女は深い願望が胸の奥に疼くのを感じた。


「わたしが永遠に生きられたとしても」 彼女は赤ん坊に話しかけた。 「どうやってあんたに教えたらいいか見当もつかないよ。
 かつては、わたしも自由で無邪気だった。意味もなく笑ったものだった。


「でも、あとでわたしは自分を守るために無邪気な心を捨ててしまったんだよ。そして、娘にも、あんたのお母さんにも、
傷つかないために無邪気な心を捨てるように教えた


「フワイドンシ、それは間違いだったかねえ? わたしが人の邪悪な心に気づくとしたら、
それはわたしもまた邪悪な人になったからじゃないのかい? 人を疑ってばかりいる人に気づくとしたら、
わたしも疑う気持ちを持っているからじゃないのかい」


赤ん坊は、おばあさんの繰り言を聞きながら笑い声をたてた。


「オー! オー! あんたはもう幾度も蘇って永遠に生きているといって笑っているのかい? あんたは西王母(シーワンシー)で、
わたしに答えてくれるために戻ってきたっていうのかい? いいとも、答えをきかせておくれ・・・・


「ありがとうよ、小さい女王さま。それじゃ今度は、わたしの娘にも同じことを教えてやっておくれ。
無邪気な心を失っても希望だけはなくさない方法を。永遠に笑っていられる方法をねえ」


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エィミ・タン 小沢瑞穂訳)


各章の先頭にある短編を繋ぎ合わせた内容です。



2007/01/28

母親が娘を愛するというのは

あなたのお父さんを愛していたと、娘に言えるだろうか? 夜はわたしの足をさすってくれた男。わたしの料理を讃めてくれた男。
ふさわしい日が来るまで大切にしまっておいた例の安物の装身具を見せたとき、素直に涙を流した男。彼がわたしに虎の娘を産ませてくれた日、
わたしはそれを彼に見せた。


そんな彼を愛していないなどと、どうして言えるのだろう? だけど、幽霊の愛だった。抱いてはいても、わたしに触れてはいない腕。
ごはんが盛られていても、わたしに食欲がなかった茶碗。飢えもなく、満腹感もなく。


いまは、セントも幽霊になっている。これで、彼とわたしは対等に愛し合える。彼は、わたしがずっと隠していたものを知っている。
今度は、娘にすべてを話さなければならない。彼女が幽霊の娘だということを。彼女には”ジー”がないことを。これが、わたしの最大の恥だ。
娘にわたしの精神を残さずに、どうしてこの世から去っていけるだろう。


そのために、こうしようと考えている。わたしの過去を洗いざらい掘り返して見つめてみよう。すでに起きてしまったことが見えるだろう。
わたしの精神を吹き飛ばしてしまった苦しみが。その苦しみが固くなって輝くまで、もっと明らかになるまで、
この手でしっかりと握りしめていよう。


そうすれば、わたしの猛々しさが-わたしの金色の部分と黒い部分が-取り戻せるだろう。その鋭い苦痛で娘のこわばった膚を貫き、
彼女の虎の精神を自由に解き放ってやろう。二匹の虎の常として、娘はわたしに刃向かうだろう。でも、わたしが勝ち、
彼女にわたしの精神を与えるだろう。母親が娘を愛するというのは、そういうことなんだから。


下で、娘とその夫がしゃべっているのが聞こえる。彼らは意味のない言葉を口にする。生命のない部屋に坐って。



仮説の正しさは、その仮説の基準の観点と言葉の世界でのみ正しい

「あるひとつの科学的仮説が現実に合致するかどうかを問題にすることはできる。観察と実験によってその仮説を検証すればよいのである。
実験方法および仮説を構成する理論的概念が確定されれば、その仮説の真偽は、私(を含めて誰であれ)の個人的な思い入れからは独立した何者かに照らして明らかとなる。しかし、実験によって明らかにされるデータの一般的性質は、そこで採用された実験方法の中に組み込まれた基準の観点からのみ特定されうるのであって、その基準(の意味するところ)は、
ただそうした科学の方法に慣れ親しんだものにしか理解することができない。科学音痴は、いくらその実験の現場に立ち会って「観察」していたとしても、実験の結果を、検証すべき仮説にとって適切な概念(用語)を用いて語ることはできないのである。そして「実験の結果」としてわれわれが語りうることは、ただそのような概念(用語)を通じてのみ意味をなすことになるのである。」

Peter Winch, “Understanding A Primitive Society,” American
Philosophical Quarterly, Vol. 1, No. 4, Oct. 1964, pp.309.

2007/01/27

虎の女

リーナに、わたしの恥を話そうと思う。わたしが裕福で美しかったことを、どんな男にももったいないような娘だったことを。
物のように捨てられたことを。十八にして頬から美しさが消えてしまったことを話そう。恥辱とともに湖に身を沈めた女達のように、
身投げしようとしたことを。その男を憎むあまり、おなかの赤ん坊を殺してしまったことも。


その赤ん坊は、生まれる前に子宮から取り出してしまった。当時の中国では、生まれる前に赤ん坊を殺すのは悪いこととされていなかった。
それでも、悪いことをしたとわたしは思った。その男の長男の赤ん坊が体内から引き出されたとき、どす黒い復讐の念がわたしを満たしたからだ。


死んだ赤ん坊をどうしようかと看護婦からきかれたとき、わたしは新聞紙を放り投げて、魚みたいにそれに包んで湖に捨ててくれと頼んだ。
娘は、赤ん坊などいらないと思う気持ちがわたしにはわからないだろうと思っている。


娘の目には、わたしは小柄な老婆にしか見えない。それは、娘が外側の目だけでものを見ているからだ。彼女には”ツォンミン”-
内側を見通す力はない。娘に”ツォンミン”があれば、虎の女が見えるはずなのに、そして、畏れを抱くはずなのに。



娘の知恵

娘は、新居で最も小さい部屋をわたしにあてがった。

「ここはゲスト用の寝室よ」 リーナは自信たっぷりのアメリカ人らしい口調で言った。

わたしは笑みを浮かべた。でも中国の考え方では、娘夫婦が眠っている一番いい寝室が客間になる。そのことを娘には言わない。彼女の知恵は、
まるで底なしの池みたいなものだ。石を投げると暗い淵に沈んで姿を消してしまう。振り向いた目には何も映らない。


娘を愛しているけれど、わたしは胸の内を明かしたりしない。娘とわたしは、同じからだを共有している。彼女の心の一部は、
わたしの一部でもある。生まれたとき、すべすべした魚のようにわたしから飛び出して以来、娘は泳ぎ去っていく一方だ。娘の人生を、
わたしは向こう岸から眺めるように見つめてきた。だけどいま、わたしの過去のすべてを娘に打ち明けなければと思う。
娘の膚に食い込んで安全な場所に引き戻すには、それしかないのだから。



2007/01/26

NATIONAL GEOGRAPHIC 歴史と伝統



「ナショナル ジオグラフィック」誌は、すぐれた写真家に恵まれてきた。世界各地を旅し、砲弾で負傷したり、サメに襲われるなど、命懸けで彼らが撮影してきた写真は、最も偉大なコレクションだと、私たちは思っている。

魔法のような魅力を今も失っていない写真がある。チンパンジーが手を伸ばし、著名な霊長類の研究者ジェーン・グドールの髪にそっと触れた瞬間の写真などはその一例だ。この写真の表紙を飾ったアフガニスタン難民の少女の写真は。
おそらく本誌の歴史の中で、最も多くの人々の感銘を与え、最も多くの投書を集めた作品だ。美しく、悲しみに満ちたこの少女のまなざしは、私たちの魂に訴える。果たして少女は生き延びたのだろうか?

この写真を撮った写真家は何度も彼女を探したが、手がかりはなかった。少女の行方は永遠に分からないかもしれない。

芸術家の魂と、直感的なひらめきをもって、「ナショナル ジオグラフィック」誌の写真家たちは、数々の歴史のドラマを記録してきた。

 大西洋に沈んだ「タイタニック号」の発見、エジプトの砂漠に埋もれた墓の発掘、アンデス山中に眠るインカ帝国のミイラの発見。
さらに写真家たちは皇帝や王の戴冠を目撃し、独裁者の失墜を目のあたりにしてきた。ベルリンの壁の崩壊に酔いしれる人びとの姿を記録し、第二次世界大戦やベトナム戦争、エチオピアの饑餓、コソボ内戦の惨状をひるむことなく見つめてきた。」

(中略)

「さらに、忘れてならないのは、「ナショナル・ジオグラフィック」誌が創刊から8年目の1896年に、果敢な決断を下している点だろう。この年、本誌は世界の人々をありのままの姿で伝え、写真に細工を加えるようなことをしないという方針を打ち出している。本誌のこの方針は数多くのジョークや漫画のネタになったが、その一方で何世代にもわたる若者たちに、新しい世界観をもたらしてきた。1888年の創刊以来の数百万枚もの掲載写真から、最良の作品を撰ぶ作業は、困難きわまりなかった。」

(「ナショナル・ジオグラフィック傑作写真ベスト100」 編集長 William L.Allen アレン)

2007/01/25

鳥の逸話

夢の中を漂うに生きるのがどんなものか、わたしにはわかっているの。人の話を聞き、周りを見つめ、
目覚めてから何が起きたのかを理解しようとする生き方がね。


べつに精神分析医の助けを借りなくても、そう生きられるのよ。精神分析医は、あなたが目覚めるのを望んでいないんだから。
もっと夢をみるようにと勧め、池を探してそこにもっと涙を注ぎ込めと言うだけなんだから。実際のところ、
そんな医者はあなたの惨めさで腹を満たすもう一羽の鳥にすぎないのよ。


わたしの母はそりゃ苦しんだわ。面目を失ったことを隠そうとしたんだから。でも、もっと惨めになっただけで、
ついにそれも隠しきれなかったのよ。それ以上は何もわからないわ。


それが中国だったの。それが当時の中国の人達がやってきたことなの。他に選択の余地がなかったから。胸のうちをしゃべることもできず、
逃げることもできなかった。それが運命だったのよ。


でもいまの中国の人達は何かが出来るわ。もう自分の涙を飲み込んだり、カササギの嘲笑に耐えたりしなくてすむのよ。
それがわかったのは、中国から届いた雑誌でその記事を読んだからなの。


数千年ものあいだ鳥が農民を悩ませてきた、とその記事は書いてあったわ。彼らは群れをなして、
堅い土を掘り起こしては怒りの涙で種を育てる農民を眺めていたのよ。農民が立ち去ると、鳥が舞い降りて彼らの涙を飲み、
種を食べてしまったの。だから子供達は飢えて死んでいったの。


ところが、ある日、その疲れ切った農民達が---中国の各地から---そこかしこの畑に集まってきたの。彼らは、
食べたり飲んだりしている鳥の群れを見て 「こんな苦しみはたくさんだ、黙って耐えるのはもうごめんだ!」 と言い出したの。
彼らは手を叩いたり、棒切れや鍋を叩いて叫んだのよ---「スー! スー! スー!」---死! 死! 死!


この怒りの攻撃にあわてふためいた鳥たちは、いっせいに黒い羽をはばたかせて空に飛び立ち、騒ぎが収まるまで頭上を舞っていたの。
でも農民の叫びは激しくなる一方だった。鳥たちは疲れきり、舞い下ることも食べることも出来なくなったのよ。それが数時間から数日も続き、
ついにはすべての鳥が ---数百、数千、数万、そして数百万羽も!--- 地面に落ちて死んでしまい、
空には一羽の鳥もいなくなったというわけ。


その記事を読んだとき、嬉しさのあまりわたしが大声で叫んだのをしったら、あんたの精神分析医はなんて言うかしらね?


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)



亀の逸話

出発する前の晩、母は見えない危険から守ろうとするように、わたしの頭をしっかり引き寄せた。
家を出て行く前からもう母に戻って欲しくて、わたしは泣いていた。母の膝に顔をつけていると、母はこんな話をしてくれた。


「アンメイ」 と、母は囁いた。 「池にすんでいる小さい亀を見たことがあるでしょう?」 わたしは頷いた。それは中庭にある池で、
わたしはよく棒切れを静かな水面に突っ込んで岩陰の亀を追い出していた。


「あの亀は、わたしも子供のころから知っているのよ」 と母は言った。 「池のほとりに座って、
亀が水面に浮かんで口をぱくぱくさせるのを見ていたものだわ。あの亀は、とても歳をとっているの」


その亀が目に浮かび、母も同じものを見ているのがわかった。


「あの亀は、わたしたちの思いを食べて生きているのよ」 母が言った。 「それを知ったのは、あなたと同い歳のときだった。
おまえはもう子供にはなれないよ、とポーポに言われたわ。叫んだり、走ったり、地面に坐ってこおろぎを捕まえたりできないって。
がっかりしても泣いてはいけない、目上の人の話を黙って聞いていなければならないって。それができないなら、
わたしの髪を切り落として尼僧の住むところに送り込む。そうポーポに言われたの。


「ポーポからその話を聞いた夜、わたしは池のほとりに坐って水を覗いたの。わたしは弱かったから泣かずにはいられなかった。すると、
あの亀が表に浮かんできて、わたしの涙が水面に落ちるたびに食べていくのよ。五つ、六つ、七つと急いで食べると、
池から這い上がって滑らかな岩の上に座り、わたしに話しかけたの


「おまえの涙を食べたから、いまのおまえの悲しみがよくわかる。だが、一つだけ警告しておこう。泣けば、
いつも悲しい人生を送るだけになるよってね。


「それから、亀は口を開けて、五つ、六つ、七つの真珠みたいな卵を吐き出したの。その卵が割れて、中から七羽の鳥が現れ、
すぐにさえずり始めたの。雪のように白いおなかと美しい声で、すぐに喜びの鳥と呼ばれるカササギだとわかったわ。
鳥たちは嘴を池につけてむさぼるように水を飲み始めたの。 一羽を捕まえようとして手を伸ばすと、
いっせいに飛び立って黒い羽をわたしの目の前で打ち合わせ、笑い声を上げながら飛んでいってしまった。


「これでわかっただろう、と池に戻りながら亀が言ったわ。泣いてもなんにもならないことが。
おまえの涙は悲しみを洗い流してくれないのだ。他の人に喜びを与えるだけだ。だから、
おまえは自分の涙を呑み込むことを学ばなければならないよってね」


でも、話し終えた母を見たとき、母もまた泣いているのがわかった。それで、わたしはまた泣きだした。
小さな池の底から水の世界を一緒に眺めている二匹の亀として生きるしかない。母とわたしの運命を思って。


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)



わたしが産んだ娘だから

「どうしようもないのよ! 選択の余地はないのよ!」と娘は泣いた。何もわかっていないのだ。自分のことを話さないのは、
話さないのを撰んでいるいるからなのに。努力しなければ、チャンスは永遠に失われてしまうのに。


中国人として育てられたから、わたしにはそれがよくわかる。何も望むな、他人の悲しみを呑み込め、自分の苦い思いを腹におさめろ、
とわたしは教えられた。


娘にはその逆を教えてきたにもかかわらず、結局はわたしと同じようになってしまうなんて!

わたしが産んだ娘だからかもしれない。わたしもまた母が産んだ娘だからかもしれない。わたしたち親子は、階段のようなものだ。
一段ずつ上がったり下がったりするけど、みんな同じ方向に進むだけの。


自分の人生が夢であるかのように、ただ黙って人の話を聞いたり見つめたりするのがどんなものか、わたしは知っている。
見たくないときは、目を閉じることもできる。でも、聞きたくないときは、どうすればいいのだろう? もう60年以上もむかしに起きたことが、
未だにわたしの耳に聞こえてくる。


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)



撮影に大切なことは

「大切なのは時間をかけて撮影の対象となる人々と親しくなること。言葉や身振り、声の調子を通じて、
自分が信頼に値する人間であることを人々に訴える必要がある。それができなければ、目撃者になることも、その場に居合わせることもできない」


(写真家 ウィリアム・アルバート・アラート)



年をとるということの誤解



年をとるということに対して、誤解してきたことに気づきました。七〇歳くらいになるまで誤解していたと思います。
老いというのは、なだらかな変化だと思っていたのです。手足を動かすのがだんだん億劫になっていって、
そのうちに自由に動かせなくなるとか、そういう感じだと思っていた。しかし、そうではなくて、あることを契機にして、
がたりと落ちていくのです。実際にそうなってみて、はじめてわかりました。


ちょっと寝込んで、起きあがるとふらふらする。四、五日もすれば元に戻るだろうと思っていたら、その「元に戻る」
という感覚がわからなくなってしまっているのです。最後に寝込んだ時は、とにかく起きあがったはいいのだけれど、
立っていられなくなった。どこかにつかまらないと立っていられないわけです。これには参りました。


子どもの世話にはならんと思っていたけれども、実際には、いま、食事のことから何から世話になっているわけです。
外に出て用を足すような時には、子どもがついてきます。ついてこないことが理想なんですが、ついてきます。いま、東京を離れて、
どこかに行って用事をするということができないでいるのですが、こういうことにいなるとは考えもしませんでした。


おまえは子どもに迷惑はかけないと言っていたけれども、かけているじゃないかと言われると、その通りで、
それはわからなかったんだよ、と言うしかありません。子どもが成長していく盛りの時は、将来、
子どもの世話になんかならずにすむだろうと思っていたわけです。こうなることがわかっていたらよかったと思いますね。


いまは少しよくなってきましたが、地面が少しでこぼこになっていると、自転車に乗っていて転んでしまうのです。そういう時に、
近所の女子中学生や高校生がたまたま通りかかると、「おじさん、どうしたの?」「大丈夫?」
などといって自転車を起こすのを手伝ったりしてくれます。みっともないなかと、つくづくみっともないなあと思います。


転びそうになったら、片一方の足をつけて止まればいいわけですが、それができなくて転んでしまうのです。最近は、
ややできるようになって、自転車を横にすっ転ばすみたいなことにはならずにすむようになりましたが、こうしたことは、
思いもかけなかったことだなあという感じです。


ある年齢になったら、こういうことが起こってくる、こういう問題に直面するというのは、どんな人でもだいたい共通しています。
このくらいになったら親が弱ってきて面倒を見なければいけないとか、それには経済的にいくらくらいかかるとか、
自分の身体も弱ってくるとか。


そういうこをあらかじめ、ひとつだけでもいいから、その年齢以前に解決していたら、とても楽です。
できればそうしたほうがいいのですが、それができるのは相当な人だと思います。ぼくらはその年齢になってはじめて気がついて、
これはいかんというので泡食って、いろいろ対策をするしかありません。


だから朗らかな老人なんてこの世にいるわけがないと、ぼくは思っています。でも、
そんな人が文筆家にもエディターにもいることを知り、仰天してしまいました。まじめに働いてた人か、
家に恒産がある人に違いありません。ぼくなどには縁遠い人です。


「青年時代みたいに戦争には引っかからないし、命の心配もないし、いまほど楽しい時期はない」
などと言う老人がたまにいますが、ぼくはとても信じられない。


普段はあまり考えないようにしていたとしても、ある軌道の中に入ってしまったら、
憂鬱で憂鬱でしょうがないというのが老人です。その軌道に入らないためにはどうしたらいいかということが、
老人にとって一番大事な問題なのだと思っています。


(「ひきこもれ ひとりの時間を持つということ」 吉本隆明 大和書房)





「老い」と「衰え」

赤ん坊だって「衰え」ることはありうるわけだし、子供だって病気になれば「衰え」ます。となると、「衰え」は老人固有のものだとは言えない。でも、老人になるとだんだん「老い」と「衰え」が同じ意味に近くなっていくんだと思います。

「死ぬ」ということばも同じです。老人だから「死ぬ」とは限らない。赤ん坊だって「死ぬ」わけだし、若い人も交通事故で「死ぬ」こともある。年齢なんて関係ないということになります。だけど、老人は「死ぬしかないよ」となると、そうかもしれないということになっちゃう。そうすると、人から「老人性うつ病」といわれる状態に陥ってしまうんです。

若いときは「老い」と「衰え」の二つのことばで語れたとしても、老人の域に達すると曖昧模糊とした形で絡み合って、本質的には分けて考えた方がいいのですが、「老い」と「衰え」がうまく分けられなくなるということですね。

(「老いの流儀」 吉本隆明 NHK出版)

ひきこもりと恋愛



恋愛について言えば、ひきこもりの人は不利ではないか、損するんじゃないかということは、ある程度は言えるかもしれません。
でも、本質的なところでは、そう変わらないのではなかいというのがぼくの考えです。


恋愛というのは、お互いがある距離内に入らないと成立しないものです。そして、何かの拍子にその距離に入ってしまえば、
遠くから見ていた時とは別のものが見えてくる。そうすると、社交的であろうとひきこもりであろうと、
美人であろうと不美人であろうと、そんなことは意味をなさなくなります。世間的な価値判断は関係なくなって、
自分にとって好ましいかどうかという問題だけになる。


その距離になった時に決め手になるのは、遺伝子が似ているというか、細胞が何となく合っているというか、
そんな感覚なのではないでしょうか。うまく説明するのは難しいのですが、
たとえば双子の人だと実感としてよくわかる感覚なのかもしれません。それ以外のことは全部、問題ではないし、
問題にするのはおかしいという気持ちになるのが恋愛だという気がします。


だから、ちやほやされたいとか、いつもたくさんの異性に囲まれていたいとか、
そういうことはひきこもりの人は難しいかもしれませんが、本質的な恋愛について言えば、何の問題もない。保証してもいいくらいです。


ぼくは、ひきこもりの人が、好きな異性ができたことをきっかけに社会との関わりを回復していくということはあると思います。
実際問題として、「この人と結婚したい」と思ったら、仕事もしないといけないわけですから。






(「ひきこもれ ひとりの時間をもつということ"FONT-SIZE: 0.8em">」 吉本隆明 大和書房)





かぐや姫は「結婚したがらない娘」



かぐや姫はあきらかに「結婚したがらない娘」という、神話タイプに属しています。娘が結婚してよその家に出ていきますと、
両親はなにかを失ったような喪失感におそわれるでしょうが、そのかわりに(昔の社会では)社会的広がりが獲得されました。


自分の持っているものを他人に与えることによって、人と人のつながりは発生しますが、
結婚はその意味でも社会のつながりをつくりだす最良の方法だと考えられていました。ところが「結婚したがらない娘」
のタイプの神話では、両親が異常にケチだったり、娘が兄弟の一人に恋をしていたり、という話が語られます。
家族が自分たちの内側にこもってしまって、社会的なつながりを発生させないわけですから、
これは社会にとって危険な状態をあらわしていることになります。子供どものいない夫婦もそうでしたが、「結婚したがらない娘」も、
社会にとっては危険な状態をつくりだしかねません。こういうときには、普通の人でない人のお嫁さんに迎えられていく、
というのが考えられる解決策で、「竹取物語」でもここで帝が登場してきます。


美しい娘がつぎつぎと有力な求婚者たちを斥けているという噂を伝え聞いた帝が、后にほしいと言いだしたわけです。
さすがに今度は断れないでしょう。なぜなら、帝は普通のレベルを超越している方ですから、「結婚したがらない娘」としては、
この帝を受け入れたっていいわけです。しかし、かぐや姫は人間の一切の求婚者を拒否します。帝が乗り物をかぐや姫の屋敷へよこすと、
おじいさんとおばあさんをあとに残して、彼女は月に去っていってしまいます。
帝よりも月の方がはるかに高くて遠い超越的な世界をあらわしていますから、竹の空洞の中にいた女の子は、とうとう月という
「極端に遠いところ」に行ってしまいました。


アメリカ・インディアンの神話ですと、こういう少女は夫を探して、
熊やコヨーテなどのいる動物の世界にいってしまうことが多いのですが、ときには星や太陽や月と結婚することがあります。
こういう少女たちは、人間の世界で一切の「媒介された状態」を実現できなかったのです。
帝の求婚さえ斥けて月に去っていくかぐや姫は、こういう少女たちの仲間として、地上的なおさまりどころを、
どこにもみつけられなかったのです。


(「人類最古の哲学」 中沢新一 講談社選書メチエ)





あなたの子どもは、他でもない、あなたの代わりに死んだのではないですか



親が子どもに「命は大切だぞ。いくらいじめられても、死んだりするものじゃないよ」などと、いくら言っても無効です。
なぜなら、子どもの自殺は、親の代理死なのですから。

ひどいいじめを受けたとしても、死なない子は死にません。

自殺する子どもは、育ってきた過程の中で、傷つけられてきた無意識の記憶があるのだと思います。子どもが受ける無意識の傷とは、
前に述べたように、子どもを育てる親自身が傷ついていたということです。傷ついた親に育てられた人は、死を選びやすいのです。


「もう自殺するよりほかにない」というほどの体験を、子どもが単独でするとは考えにくいとぼくは思います。

いまの子どもは、加減というものがわからなくなっているから、
たとえば鉄棒でひっぱたいて相手を死なせてしまったというようなことは、起こりえないとは言えないでしょう。しかし、
精神の体験としては、死を選ぶほどの体験を、子どもがみずからしているわけがありません。

結局は、親の真似なのです。

心の奥のほうで、無意識のうちに「死にたい」と思っているけれども実行には移さない親がいる。その死への傾斜を、
これまた無意識のうちに感じ取った子どもが、何かのきっかけで実行に移してしまうのです。

臨床心理学の先生がこんなことを話していました。

ある人のカウンセリングをして、その帰りに駅で電車を待っていた。ホームに電車が入ってくると、なぜだか知らないけれど、
飛び込みたくて仕方がなくなることがあるのだそうです。

自分は自殺したいという気持ちはまったくないのに、いったいどうしたんだろうと思ってよくよく考えてみると、
その日カウンセリングをした患者さんが、強い自殺願望をもっていたと考えるよりほかないのです。

その自殺願望が転移したとしか考えられないと言っていました。大人同士で、赤の他人でさえそうした影響を受けるのです。
親の心の傷を子どもが自分のものとしてしまったり、親の死にたい気持ちを自分でもって現実化してしまうことは、
十分にありえることだと思います。

自分の子どもに自殺された親たちが、同じ境遇の人同士で集まって会を作り、
子どもの自殺を防ぐための活動を行っているという話を聞きます。そうした親たちは、
何か考え違いをしているという気がしてなりません。残酷なようですが「あなたの子どもは、他でもない、
あなたの代わりに死んだのではないですか」と言いたくなるのです。世間を啓蒙して回る前に、
自分自身を見つめたほうが早いのではないか。そう思うのです。






(「ひきこもれ "FONT-SIZE: 0.8em">ひとりの時間をもつということ
 吉本隆明 
大和書房)





鉄腕アトムが隠したテーマ

大塚:

「鉄腕アトム」の第一話をいつも僕は問題にして、本にも書いたことがあるんですけど、天馬博士っていう科学者がいて、その子供が交通事故で死んじゃう。その死んだ子供そっくりのロボットをつくるわけです。ところがそのそっくりのロボットは、ロボットなので成長しない。だからお父さんは怒って捨ててしまうという、すごいモチーフなんです。

つまりおとなになれない、生身の肉体を持てないことが「鉄腕アトム」の呪縛になっている。手塚さんは、この問題をどうしたかっていうと、実は「鉄腕アトム」の第一話は「アトム大使」(一九五一年。文春文庫「懐かしのヒーローマンガ大全集」などに所収)っていう話で、いろいろエピソードがあるんだけど、いちばん最後に、宇宙人がアトムに、「アトム君、きみはいつまでも子供のままでいてはいけないから」と言って、おとなのロボットの首を差し出して、アトムはその宇宙人からおとなの顔をもらって成長するという終わり方をするんです。

ところが、それは雑誌掲載時のエピソードで、それが単行本になってアトムが描き続けられる中で、そのエピソードはすぽんと切られちゃうんです。つまりアトムが捨て子であったこと、育たないこと、それから宇宙人から成熟の手立てをもらったことというのは一切捨てられて、いわば出自を隠蔽された子供として、「鉄腕アトム」は戦後最大のヒーローになるんです。ただ「アトム」が隠したテーマというのは一貫して生きのびていて、それはアニメ的な記号的身体とか、成熟、成長しない身体、しかしそこに成長をテーマとして付着させるとか、身体とかいうことを持ち込んでしまう。身体とか成長というテーマを手塚さんが隠したが故に、逆に大きな主題になっていって、その主題に対して戦後まんが史とかアニメーションはずーっと反応し続けている。

吉本隆明×大塚英志「だいたいで、いいじゃない。」文芸春秋2000年

老いの越え方

老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、大いなる誤解である。
老齢者は意思し、身体の行動を起こすことのあいだの「背離」が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は「超人間」なのだ。
これを洞察できないと老齢者と若者との差異はひどくなるばかりだ。老齢者は若者を人間というものを外側からしか見られない愚か者だとおもい、
若者は老齢者をよぼよぼの老衰者だとおもってあなどる。両方とも大いなる誤解である。一般社会の常識はそれですませているが、精神の「有事」
になると取り返しのつかない相互不信になる。感性が鈍化するのではなく、あまりに意志力と身体の運動性との背離が大きくなるので、
他人に告げるのも億劫になり、そのくせ想像力、空想力、妄想、思い入れなどは一層活発になる。これが老齢の大きな特徴である。
このように基本的に掴まえていれば、大きな誤解は生じない。老齢者がときどきやる感覚的なボケを老齢の本質のようにみている新聞やテレビ、
あるいはそこに出てくる医師、介護士、ボランティアなどのいうことを真に受けると、とんでもない思い違いをして、
老齢者を本当のボケに追いやることがあり得る。身体の運動性だけを考えれば、
動物のように考えと反射的行動を直結するのがいいに決まっている。

けれど老齢者は動物と最も遠い「超人間」であることを忘れないで欲しい。生涯を送るということは、
人間をもっと人間にして何かを次世代に受け継ぐことだ。それがよりよい人間になることかどうかは「個人としての個人」には判断できない。
自分のなかの「社会集団としての個人」の部分が実感として知ることができるといえる。


(「老いの超え方」 吉本隆明 朝日新聞社)



江藤淳の死

江藤淳は、なかなか「死」に際がすっきりした人だなと思いました。遺書みたいなものがありましたが、あれはいい文章だと思っています。
しかし、大江健三郎(1935~)や老人介護の専門化の三好晴樹(1950~)は、「そんなに潔いわけでもないし、
ああいう自殺は決してよくない。江藤淳と同じように脳梗塞でリハビリで苦労している人はどう思うだろうか」と否定的に捉えています。でも、
僕は太宰治の自殺以降、思い切った決断力のある文章だと思っています。江藤淳も格別書くものがなくなったとか、
行き詰まったということでもないし、奥さんに先立たれて時間のずれはあるけど、一種の心中みたいなものだという理解の仕方もあるでしょう。
ただ、僕は奥さんのことを言うなら、看病でものすごく疲れてしまった。さらに年齢から起こる前立腺炎の苦しみや脳梗塞になって、
気持ちを立て直すうちに老いてしまった。そういうことが自殺の原因ではないかと思っています。


(「老いの流儀」 吉本隆明 NHK出版)



2007/01/24

キャパ写真 「シャルントル、報復の日」




Copyright  ROBERT CAPA ©
2001 By Cornell Capa/Magnum Photos
「この現場はシュヴァル=ブラン通りという。警察署(写真後方に大きな旗があるところ)を起点として、世界的に有名なシャルトル大聖堂まで通じる道路である。ここからわずか数メートル離れてリセ通りがあるが、そこに当時、警察の留置場があった。彼女(当時23才)はいま、両親といっしょにそこまで連行されていく最中なのである。

彼女の父親は写真右端、黒いベレー帽をかぶった人だ。その顔は -ほかの人たちと異なって-ひどく冷め切って見える。彼の右肩の後方、半分隠れるようになっている丸メガネの人が実は母親なのだが、この人も剃髪されている。父親は大きな袋を持っているが、おそらく留置中に必要な日用品が入っているのだろう。制服姿の警官がこの一家に同行している。」

(中略)

「1944年8月、暫定司法省の高官は暴力行為の行き過ぎに対して、「わが国は目下のところ、正義より自動拳銃のほうが強い」と言った。公正より力だったのである。レジスタンス・メンバーは独自の警察を組織し、刑務所や収容所を設立した。勝手に民族裁判がおこなわれ、何十万件という審判を下した。その裁決は処刑、懲役、公民権剥奪。

なかでもセンセーショナルだったのは、対独協力者とされた人たちの見せしめだった。古めかしいこの「軽蔑の儀式」の対象となったのは、大半が、ドイツ占領軍兵士との関係を噂された女性たちである。彼女たちは剃髪されたり、全裸にされたり、あるいは、タールで体にかぎ十字を書かれたりして、公衆の侮蔑と愚弄を浴びた。
密告や裏切りに対する憤激だけでなく、それまで彼女たちが得ていた特権への妬みと、道徳的・倫理的な怒りが混ざり合っていた。

「健全な国民感覚」から判断して「だらしない」とされた人たちが、さらし者になる例が多かった。


「以前にシャンパン一杯をドイツ兵に売ったことがある、というだけで剃髪された女性も何人かいました」

と回想するのは。九歳の時シャルトル解放を体験したシクス夫人である。だが、占領時代にドイツ兵にごまをすって儲けた人たちは、 大して騒がれもしなかった。この写真の女性についての、シクス夫人の確信は今に至るも揺らいでいない。

「罰せられてしかるべき人でした。ええ、あの人は処罰が軽かったのです。何人もの人たちを密告したというのに。なかには、二度と帰ってこなかった人たちも何人かいました。だからこそ、みんなに軽蔑されたのです。私たちは、あの人をああいう目にあわせて、本当にすっきりしました」

「彼女の場合、具体的な証拠は何かありましたか?」

夫人は憂鬱そうに頭を左右に振る。

「まあ、最終的にはありませんでした。私たちは周囲の人の言うことを信じたのです」

シャルトルの「恥辱の歴史」から、もう約半世紀が過ぎた。現場の道は当時は石を敷き詰めてあったが、いまはアスファルト。写真左手奥、旗が何本も掲げられている全寮制の女学校は、漆喰が塗り直された。だがそのほかは、いまもほぼこの写真どおりの光景といっていい。」

(中略)

「あの写真の女性は、十年間の追放後シャルトルの町に戻ってきた。市民から相手にされずに暮らしたあと、1966年にまだ40代半ばで亡くなった。その娘は、母を失ってのち叔母に面倒をみてもらったが、その後この町を見限ってパリへ去った。いまの彼女は、幼いころの自分の生活に暗影を投げたこの出来事について、一言も話そうともしない。解放の日は、彼女にとっては一生、呪われた日なのである。」

(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)

シャルトルでの報復

重要なのは、どの軍団がパリへの一番乗りを果たすか見当をつけることだった。キャパはアメリカ第十五軍団に賭け、
ラヴァルとルマンを通ってアランソンまでついていった。しかし、ファレーズの孤立地帯で足踏み状態に陥ると、
彼はもと来た道を戻ってルマンからシャルトルへ向かう途中の第二十軍団に合流した。


八月十八日、第二十軍団が二日間に及ぶ極めて激烈な抵抗を受けたあとでシャルトルを確保すると、
キャパはすぐに街の警察本部に足を運んだ。そこでは、レジスタンスのメンバーが、闇の商売をしていたり、
ドイツ軍兵士とベットを共にしていたような女性の髪の毛を剃っていた。


キャパがそこで撮りはじめた写真群は、頭を丸められたばかりの若い女性が、大勢の町の住民にあざけられながら、
自分の家まで追い立てられていく一枚でクライマックスを迎える。彼女の腕の中にはドイツ軍兵士とのあいだにできた赤ん坊が抱かれている。
ヘルメットをかぶった警官が侮蔑的な言葉を投げかけているらしいところをスナップした写真---そこでおそらくは辱めをうけているのだろう女性は、
グロテスクな悪魔に苦しめられている気高い聖母を思わせる---は、キャパのもっとも有名な一枚となることになった。それはまた、キャパが、
たとえ政治的な立場がどうであれ、個人が被る苦難に対しては率直な同情を寄せるということを、極めて深いかたちで示すものとなっている。


(「キャパ」 リチャード・ウィーラン 沢木耕太郎訳)



最後の蟹

みんなが帰ったあと、母がキッチンに手伝いにきた。私は皿を片付けていた。母は、お茶を飲むためにお湯を沸かし、
小さいキッチンのテーブルについた。私は、母の叱責を待ち受けた。


「おいしい食事だったわ マー」 私は丁寧に言った。

「よくなかったよ」 母は、楊枝で歯をつつきながら言った。

「あの蟹はどうかしたの? どうして食べなかったの?」

「よくなかったのよ」 母は繰り返した。 「あの蟹は死んでいたわ。乞食さえそんなものは口にしないのよ」

「どうしてわかるの? 変な匂いはしなかったけど」

「茹でる前からわかるのよ。 足は---ぐったり。口は---死人みたいに開いていたわ」

「死んでいるとわかっていて、どうして茹でたりしたの?」

「考えたのよねぇ・・・・ひょっとしたら死んだばかりじゃないかって。そんなにひどい味じゃないかもしれないって。でも死んだ匂いがしたし、
肉がしまってなかったわ」

「他の人があの蟹を選んだらどうするの?」


母は私を見てにっこりした。「あれを選ぶのは、あんたしかいないわ。他にだれもいませんよ。わたしにはわかっていたの。
みんなは最高のものをほしがるの。あんたは別の考え方をするけどね」

それが何かの証明でもあるかのような口振りだった---何かいいことの。いつも母は、いいとも悪いとも取れるような曖昧なことを言うのだ。


縁が欠けた皿の最後の一枚をしまおうとして、ふと私は思い出した。「マー、なぜ私が買ってあげた新しいお皿を使わないの?
 気に入らなかったら、そう言ってくれればよかったのに。模様を取り替えられたのに」

 「もちろん、気に入っているわ」 母は苛ついた声を出した。「よすぎるものは、しまっておきたくなるのよ。そのうちに、
しまっておいたことも忘れてねぇ」

やがて母は、ふと思い出したかのように、金鎖のネックレスを首から外して翡翠のペンダントごと掌に巻き取った。
やおら私の手をとってそのネックレスを私の掌に入れ、指で包ませた。

「だめよ、マー」 私は言った。 「これは受け取れないわ」

「ナーラ、ナーラ」---いいからとっときなさい。叱るように母は言い、中国語で付け加えた。

「ずっと前からこのネックレスをあんたに上げようと思っていたの。私が素肌につけていたから、あんたもこれを素肌につけると、
私が何を願っていたのかわかるでしょうよ。これは、あんたの一生の宝になるわ」

「今夜あんなことがあったから、これをくれる気になったのね」 私は、ついに言った。

「あんなことって?」

「ウェヴァリーに言ったことよ。みんなが言ったことよ」

「ばかな! なぜ彼女の言うことに耳を貸すの? なぜ彼女の言葉を追い掛けてあとについていこうとするの? 彼女は、この蟹と同じだわ」
 母は、塵の容器に捨てられた蟹の甲羅をつついた。 「いつも横歩きして曲がってしまうだけ。
あんたはこれと反対の方向に足を出せばいいのよ」

そのネックレスを首にかけた。ひんやり冷たかった。

「この翡翠は、あんまりいい品じゃないわ」 母はペンダントに触れながら平然と言ってのけ、中国語であとを続けた。 「まだ若い翡翠なの。
今は淡い色だけど、あんたが毎日つけていればもっと深い緑になるわ」


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)



木の要素

どうして私がいつも戸惑っているのか、その理由を母が話してくれたことがある。私に木の要素が欠けているからだ、と母はいった。生まれつき木の要素に欠けているため、大勢の意見に左右されるのだ、と。自分にもその傾向があるから、よくわかるのよ、と母は言った。

「女の子は、若木に似ているの。ぴんと背中を伸ばして、隣に立っている母親の言うことを聞かなければいけないの。強く真っ直ぐに育つには、それしかないのよ。でも、他の人の言葉を聞こうとして身をかがめると、曲がった弱い木になってしまうの。最初の強い風で地べたになぎ倒されてしまうでしょうよ。そうなったら、ところかまわず伸びる雑草みたいに地べたを這い、誰かに引き抜かれて捨てられてしまうわ」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エィミ・タン 小沢瑞穂訳)



2007/01/23

自分が何のために戦っていたのか

「今度こそ本当にわかったと思った。母が言ったことではなく、今までずっと真実だったものが。自分が何のために戦っていたのか、
わかった。ずっとむかし、安全だと思っていた場所に逃げていった怯えた子供 - 私自身のためだったのだ。
目に見えない垣根の奥に隠れた私は、向こう側に何があるのか知っていた。母のサイド・アタック。母の秘密の武器。
私の弱みを探り出す不気味な力。でも、垣根の向こうも覗いた瞬間、そこにあるものの実体がついに把握できた。鎧ではなく中華鍋を、
刀ではなく編み針を持った老女。娘が迎え入れてくれるのをじっと待つあいだに、ちょっとつむじ曲がりになってしまった母が、そこにいた。」


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)



十一人目がどうしたよ


 「十一人目がどうしたよ!

  そいつは なんのやくにも たたんじゃんか

    十一人目なんざ いないんだよ!

    そら 最初にタダが言ったとおりさ!

    へたな かばいっこ してないでさ!

    みんないっしょで いいじゃんか!

    さっさと 爆破物はずそうぜ!」

    (萩尾望都 「11人いる!」 から フロルの言葉)



「写真」という言葉(2)

「幕末から明治初期にかけては、下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一といった職業的な「写真師」がすでに活動していた。
雲停や雪斎らが博物図譜のために動植物の「写真」をしていた頃には、すでに「写真」は別の意味をもち始めていたのである。 」

(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」  ぺりかん社 編者:辻惟雄)



「写真」という言葉 (1)

「もちろん「写真」という言葉は、いわゆる写真、すなわちフォトグラフィーの訳語となるずっと前から、物の「真を写す」
という意味で用いられていた。もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、 道釈人物を対象とするこの
「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、 日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。」


 (「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)



朝顔三十六花選

 「アサガオは文化末年から文政初年と弘化末年から文久初年の2回のブームを呼びました。
この資料は弘化末年にはじまる第二次ブームの頃のもので、当時主役だった奇妙な形態の花や葉をもつ「変化朝顔」 の数々が描かれています。
なかにはアサガオとは思えない姿をした花もあります。当時は黄色い花をつけるアサガオもありましたが、 現在では失われてしまっています。
著者の「万花園」は幕臣の横山正名の号で、図は服部雪斎によるものです。 もっとも優れた朝顔図譜といわれ、書名のとおり、
36品を所収しています。」


(国立国会図書館 「朝顔三十六花選」の説明文を引用)



割り勘の結婚

「ハロルドが嫌がるとわかっていても、私は泣き出してしまう。私が泣くと、彼はいつも不機嫌になって怒る。
泣くのは狡い手口だと思っているのだ。だが、この喧嘩の焦点が見えなくなっている私には泣くことしかできない。
私はハロルドに食べさせてもらいたいのか? 分担金を半分より少なくしてほしいと頼みたいのか?
 すべての生活費を計算するのをやめるべきだと本気で思っているのか? そうしたとしても、頭で計算し続けることになるんじゃないか?
 結局ハロルドが大半を負担するのでは? そうなったら、私は対等意識がもてなくなって今よりもっと惨めになるのでは?
 そもそも私達が結婚したのが間違っていたのかもしれない。ハロルドは悪い男なのかもしれない。私が彼にそんなふうにしてしまったのかも。


どの考えもぴんとこない。何もかも筋が通らない。すべてが納得できず、どん底まで落ち込んでしまう。


「やり方を変える必要があると思うだけよ」まともな声が出せると感じたとき感じたとき私はいう。そのあとの言葉は涙声になる。
「この結婚生活の基盤がどこにあるのか、考える必要があるんじゃないかしら・・・・・お互いの貸し借りを記録したバランスシート以外に」」


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)



アーノルドが死んだのは

「アーノルドが死んだのは自分のせいかもしれないと思うのは、それほど突飛なことではない。
おそらく彼は私の夫になるべき運命だったのだ。というのは、未だに私はこう考えているから。

この混乱にみちた世の中に、どうしてこんなに多くの偶然や類似や正反対のことがあふれているんだろう、と。なぜアーノルドは、
私にだけ輪ゴムで狙ったのか? 彼を憎み始めたのと同じ年に、なぜ彼は麻疹にかかったの? それに、
どうして私はまずアーノルドのことを思い浮かべ - 母が私のお茶を覗いたときに - 彼をあれほど憎むようになったんだろう? 憎しみは、
むくわれない愛の裏返しにすぎないのでは?

すべては妄想だと片づけられるようになってからでさえ、心のどこかで人は自分に釣り合ったものしか手に入れられないのだと感じている。
私はアーノルドを手に入れなかった。ハロルドを手に入れた。」


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)



2007/01/19

運命とは

「私はビンのことを考える。彼に危険が迫っているのを知りながら放っておいたことを。自分の結婚生活のことを考える。
危険な兆候は見えていた、たしかに。でも、ただ放っておいたのだ。運命とは、
期待と不注意が半分ずつ集まってかたち作られていることに気づく。でもどういうわけか、愛する何かを失うと、信仰が取って代わるのだ。
失ったものを心に留めなければならない。期待を取り戻さなければならない。」


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エィミ・タン 小沢瑞穂訳)



今はすべてを思い出せる

「でも、歳をとった今、一年ごとに人生の終わりに近づいていくにつれて、人生の初めに戻っていくようにも感じている。そして、
あの日に起きたことはすべて思い出せるようになった。なぜなら、何度も同じことを味わってきたから。あのときと同じ無邪気さ、信頼、不安、
不思議、恐怖、孤独-どうやって自分を見失ったかを。

今はすべてを思い出せる。そして八月十五日の今夜、ずっと昔に月の仙女に何をお願いしようとしたのか思い出せる。私を見つけてください・・・
・・・そう心から願ったことを。」


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エィミ・タン 小沢瑞穂訳 角川書店)



高村智恵子の言葉

「私は自分ってものをどんな場合にも捨てられない。自分は自分だわ。逢いたくなったら逢うし、逢いたくなければ逢わずにいるわ」


「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこしらえたものなのでしょう。
それに縛られて一生涯自分の心を偽って暮らすのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしが決めればいいんですもの」


「女である故にということは、私の魂には係わりがありません。女なることを思うよりは、生活の原動はもっと根源にあって、
女ということを私は常に忘れています」


「恋愛は咲き満ちた花の、殆ど動乱に近いさかんな美を、私の生命に開展した。生命と生命に湧き溢れる浄清な力と心酔の経験、
盛夏のようなこの幸福、凡ては天然の恩寵です」


「巣籠もった二つの魂の祭壇。こころの道場。並んだ水晶の壺の如く、よきにせよ不可にせよ、
掩うものなく赤裸で見透しのそこに塵芥をとどむるをゆるさない。 (中略) それ故ここに根ざす歓喜と苦難とは、さらに新しく恒に無尽に、
私達の愛と生命を培う。またそれ故、技巧や修辞の幻滅、所謂交互性の妥協、打算的の忍従、強要された貞操、かかる時代の忌まわしき陰影は、
私達の巣にはかげささない。牽引されず、自縄しない自由から、自然と湧き上がるフレッシュな愛に、十年は一瞬の過去となって、
その使命に炎をなげる。峻厳にして恵まれたこの無窮への道に、奮い立ち、そして敬虔に跪く私」


出典 「光太郎と智恵子」(新潮社)から



2007/01/18

写真の企画のもっとも雄大な成果

「 この飽くことを知らない写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。
写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、
広げたりしている。

写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理であるということだ。そして最後に、写真の企画のもっとも雄大な成果は、
私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚をもつようになったということである。」

(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文堂)



私は自分に約束した

「私は心の中で自問した-人間にとって、何が真実なんだろう? 河の色が変わるように自分が変わったとしても、
まだ同じ人でいられるのだろうか? そのときカーテンが激しく揺れて外は豪雨になり、みんなが大声で叫びながら走り回るのが見えた。私は、
ほほ笑んだ。初めて風の力を知ったことに気づいた。風そのものは見えなかったが、河にあふれる水を運び、田園地帯を形づくることがわかった。
風が男達を叫ばせ、踊らせることも。


私は目をぬぐって鏡を見つめた。そこに見えたものに驚いた。私は真紅のドレスを着ていたが、それよりももっと価値のあるものを見た。
強くて、純粋な自分の姿を。誰にも見えない、誰も取り上げることができない自分だけの思いがうちにあった。私はその風を好きになった。


私は頭をそらして誇らしげにほほ笑んだ。やがて刺しゅうした大判のスカーフを顔に垂らして自分だけの思いを包み込んだ。
でもスカーフの下に自分がいることはわかっていた。私は自分に約束した-両親の願いは決して忘れまい、だけど自分のことも決して忘れまい。」


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エィミ・タン 小沢端穂訳)



私が母を愛するようになった理由

「私は、夢の中の母を崇拝した。でも、ポーポの枕元に立つ女性は、記憶にある母とは違っていた。それでも、
その母も同じように好きになった。私のところにやってきて許してほしいと哀願したからではない。そんなことは母はしなかった。
私が死にそうなときポーポから追い出されたことを説明する必要もない。そのことはしっていたのだから。
ただ不幸を取り替えるためだけにウーチンと結婚したことを話してくれる必要もない。それも私にはわかっていたから。


私が母を愛するようになった理由を話そう。私自身のうちに母を見るようになったからだ。私の膚の内にいる母を。私の骨の内にいる母を。


(ジョイ・ラック・クラブ エィミ・タン 小沢端穂訳)



傷跡

「二年もたつと、火傷の跡は淡くつやつやになり、母の記憶も失われた。傷はそうして治るものだ。傷口は、痛みの元を封じ込めるようにひとりでに閉じていく。いったん閉じると、その下に何があったのか、どうして痛みが始まったのか見えなくなってしまう。」

(ジョイ・ラック・クラブ エィミ・タン 小沢端穂訳)

2007/01/01

About Me

はじめまして、Amehareです。

石を投げれば当たるという意味で、どこにでもいるような普通の会社員です。

それでも強いて特徴を挙げれば、猫好きということくらいしか思い浮かびません。

今回は、そんな僕のブログに来ていただき、誠にありがとうございます。


本ブログは、僕がその時々で興味を持ち読んだ書籍・雑誌・ネット上の様々なコンテンツをただ引用しているだけとなっています。
僕の感想もしくは批評といったものは一切載せておりません。無論、本文章を除いての話ですが。


引用のみのブログを立ち上げた意味は、僕のメインブログでもある「Amehare's MEMO」の記事作成を目的として、
その資料としてのテクストをまとめることにあります。ですから引用すべきテクストの範囲は全く存在しません。
しかしブログの記事作成を主目的としている以上、引用に偏りがあるのも事実だと思っております。


「About Me」には自分のことを書くべきで、読まれる方もそれを期待されて、このページを開けたことと思います。

しかし、僕はネットにおける自分のスタイルとして、実際の自分の履歴・経歴などを、
具体的にブログを含めた各サービスに記載することは殆どしません。

男性であること、そして日本の東京に住んでいることくらいの情報提供となってしまうことにご容赦いただきたくお願いします。


また本ブログの性格上、一切コメントとトラックバックなどは受け付けない設定をしております。
もし何か内容等に問題等がございましたら、お手数をおかけしますが、なにとぞメールにてご連絡頂きたくお願いいたします。



height="21"
alt="gmaillogo"
src=
"http://amehare.lolipop.jp/blog/media/img_20060813T224416812.jpg"
width="149" />