2008/04/22

生そのものの実情

死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終わりは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。これが末期の生の実情、そして、生そのものの実情である。だから、病人の生を肯定し養護することは、生そのものの肯定と擁護に繋がるのである。

(『病の哲学』小泉義之 ちくま新書 218頁)



カンギレムの健康と病気

健康、あるいは病気というと、私たちは大体、こんなイメージをもっている。健康診断で検査を受けると、血圧にしても、肝臓の状態を示すGOTやGPTにしても、血糖値にしても「基準値」というのがあって、それより低かったり、高かったりすると「あら?」ということになる。健康というのは、ある境界をもった域内におさまっていることで、その反対に病気というのは、その領域からはみ出してしまっていることだ。そんなふうに私たちは通常イメージしている。

ところが、カンギレムは、こういう私たちのイメージとはまったく逆とも思えるようなことを言う。「健康を特徴づけるものは、一時的に正常と定義されている規範をはみでる可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範を設ける可能性である」(「正常と病理」法政大学出版会、175頁)。つまり健康というのは、囲い込まれた領域のなかにおとなしく、あるいは行儀よく止まっていることではなくて、むしろ、その領域を自由にはみ出ることができることなんだ。あるいは、状況に応じて、通常とは異なる生の様式を自在にとれることなんだ。あるいは、規範に律儀に従うことではなくて、むしろ規範を壊したり、つくりなおしたりすることなんだ、というわけです。場合によっては食事を一回や二回とらなかったり、終電車に間に合わなければ歩いて家に帰ったり、そんな無茶ができること、それが健康なんだとカンギレムは言う。

その逆に、病気は、規範からの逸脱ではなくて、むしろ一つの規範に忠実でありすぎること、そこから逸脱したり、はみ出たりできないこととして定義される。「病気もまた生命の規範である。だがそれは、規範が有効な条件からずれるとき、別の規範に自らを変えることができず、どんあずれにも耐えられないという意味で、劣っている規範である」(同書、161頁)。カンギレムは、さらにこうも言う。「病人は、一つの規範しか受け入れることができないために、病人である」(同書、164頁)。生が一つの規範しか受け入れないほどに硬直化すること、それが病気だとカンギレムは言う。

(『病と健康のテクノロジー』市野川容孝・松原洋子対談 市野川容孝の語り)



2008/04/07

奇形の身体、病気の身体

捻じ曲がった身体がある。外からあてがわれたユークリッド座標系を基準にすると、有らぬ方向に延びる曲線に沿って、その体軸と四肢が捻れている身体である。外部観察者の眼で見ると。個体発生と形態形成の過程で間違いを生じてしまった異常で異様な身体である。アルマン・マリー・ルロウ『ミュータント』があげる事例から拾うと、結合性双生児の身体、無頭蓋症児の身体、内臓逆位者の身体、多指症者の身体などである。

しかし、観点を変えるなら、事態は全く違った相貌を帯びてくる。捻じ曲がった身体は、個体発生と形態形成の過程では正しく然るべき仕方で捻じ曲がった身体である。ドゥルーズの用語を導入して言いかえる。固体化の場、前固体化で非人称的な場、超越論的な場から見るなら、すなわち、個体発生と形態形式のトポロジカルな空間に内在的な座標系を基準とするなら、正しい線たる直線に沿ってその体軸と四肢が伸張した身体である。だからこそ、ミュータントの身体は、いかに短い期間であっても、生きられうるものになるし、現に生きられるものになっている。

では、そんなトポロジカルな空間は、どこに存在するのであろうか。当の身体の内部のどこに存在するのであろうか。あるいは、当の身体の外部のどこに存在するのであろうか。その空間の存在性については、理念的で潜在的でリアルな多様体であると幾度となく語られてきた。それはその通りである。また、理念的で潜在的でリアルな多様体は、現実的存在者と本性的に区別されるとこれまた幾度も語られてきた。それもその通りである。だから、その空間を現実的存在者において探し出そうとする問いの立て方は、あたかも超越論的な場を経験的なものにおいて探し出そうとしたり前個体的な場を既に固体化された存在者化したりするような、哲学的な常識を全く弁えない馬鹿げたやり方であると語られてもきた。しかし、ドゥルーズとガタリは、まさにその馬鹿げたやり方を追求したのである。何故か。ドゥルーズとガタリは、講壇学者の立場にではなく、多様で多彩な身体を生きて病んで死んでゆく民衆の立場に立っていたからである。

生まれながらの捻じ曲がった身体が、事故や病気のために、さらに捻じ曲げられることがある。それもまたトポロジカルな空間に内在的な座標系からするなら正しく然るべき仕方で起こったことが実現したことなのだが、そうではあるが、決定的に違うのは、いまや身体は生き難いものになるということである。そんな身体は、苦痛や不調や失調などのさまざまな症候を発する。それら症候は現に経験され現に生きられる。とするなら、病人の身体は、超越論的な場を非常に通り過ぎたはずのトポロジカルな出来事を、症候を介して感覚し経験していることにならないであろうか。とするなら、そのとき症候の経験は超越論的な場のシーニュになる。では、そのシーニュの意味は何であろうか。そのシーニュが指し示す方向は、どこに向かうのだろうか。ドゥルーズとガタリは、その方向を「来るべき民衆」と呼ぶことになるだろう。

(『来るべき民衆-科学と芸術のポテンシャル』 小泉義之)